デジタル大辞泉
「松本奎堂」の意味・読み・例文・類語
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まつもと‐けいどう【松本奎堂】
- 江戸末期の尊攘派の志士。通称、謙三郎。三河国(愛知県)刈谷藩士。大坂で双松岡学舎を開き尊攘派と交わり、吉村寅太郎らと天誅組を結成してその総裁の一人となる。大和五条に挙兵したが、敗れて死亡した。天保二~文久三年(一八三一‐六三)
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松本奎堂
まつもとけいどう
(1831―1863)
幕末の志士。三河国(愛知県)刈谷(かりや)藩用人印南維成(いんなみこれしげ)の次男。松本氏に養われる。名は初め孟成、のち衡、通称謙三郎、奎堂は号。尾張(おわり)藩儒臣奥田桐園(おくだとうえん)に学び、のち江戸昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。1859年(安政6)名古屋に私塾を開設したが、2年後、大坂に出て昌平黌の同窓の松林廉之助(まつばやしれんのすけ)、岡鹿門(おかろくもん)と双松岡学舎(そうしょうこうがくしゃ)を開塾。塾生に盛んに尊攘(そんじょう)論を説く一方、京都で交わった吉村虎太郎(よしむらとらたろう)、藤本鉄石(ふじもとてっせき)らと討幕挙兵を計画。1863年(文久3)8月13日、大和行幸(やまとぎょうこう)の朝議決定により長州藩が討幕を実行する構えをみせるとそれに呼応し、14日、吉村、藤本ら同志30余名とともに天誅組(てんちゅうぐみ)を組織、吉村らとともに総裁となり大和五條(ごじょう)に挙兵した。しかし八月十八日の政変により事態は急変、朝議とりやめとなり追討を受け、鷲家口(わしかぐち)の戦いに敗死。著書に『奎堂文稿』『奎堂遺稿』がある。
[奈倉哲三]
『森銑三著『松本奎堂』(中公文庫)』
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松本奎堂
没年:文久3.9.25(1863.11.6)
生年:天保2.12.7(1832.1.9)
幕末の三河刈谷藩(愛知県)藩士,尊攘派志士。名は衡,通称謙三郎。父は印南維成,母はきか。松本氏の養子となる。18歳のとき槍術の稽古で左眼を失明。名古屋の奥田桐園,伊藤両村のもとで朱子学を修める。江戸に出て大槻磐渓,羽倉簡堂につき,嘉永5(1852)年昌平黌に学ぶ。安政6(1859)年名古屋,文久1(1861)年大坂に開塾,藤本鉄石,吉村虎太郎ら尊攘派志士と交わった。同3年8月,大和行幸の詔を機に討幕攘夷を計画し,中山忠光を奉じて天誅組を組織,藤本,吉村と共に総裁となる。大和五条の代官所を襲撃し租税半減を布告,十津川郷士と農兵を募るが,8月18日の政変で行幸は中止となり,紀伊・彦根藩兵により追討される。戦闘のなかで敵弾を右眼に受け,盲目となった。「君が為めみまかりにきと世の人に語りつきてよ峰の松風」の辞世を詠み,自刃。年33。<著作>『奎堂遺稿』『奎堂文稿』『大和日記』<参考文献>森銑三『松本奎堂』
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松本奎堂 (まつもとけいどう)
生没年:1831-63(天保2-文久3)
幕末の尊攘派志士。名は衡,通称謙三郎,奎堂は号。三河刈谷藩士松本印南の次男。選ばれて昌平黌に学び,江戸藩邸で教授兼侍読となる。1861年(文久1)大坂に出て双松岡学舎を開塾。翌年には京都へ移り,藤本鉄石,吉村寅太郎らと交わる。63年8月藤本,吉村らと天誅組を組織して総裁の一人となり大和に挙兵するが,8月18日の政変後に諸藩兵の攻撃を受け,鷲家口の戦で戦死した。
執筆者:高木 俊輔
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松本奎堂
まつもとけいどう
[生]天保2(1831).三河,刈谷
[没]文久3(1863).9.25. 大和,吉野
幕末の尊攘派志士。字は士権。通称,謙三郎。三河刈谷藩士印南維南の次男として生れたが,幼少から出て松本氏に養われた。 18歳のとき左眼を傷つけ,のち江戸に出て昌平黌に学んだ。帰藩してのち名古屋石町に家塾を開き,さらに大坂に出て昌平黌の同学松林飯山,岡鹿門 (千仭) と双松岡 (そうしょうこう) 学舎を開き,さらに京都に移って尊攘派志士と交わった。攘夷決行を期して文久3 (1863) 年前侍従中山忠光を擁して天誅組を起し,大和五条に挙兵したが,同志藤本鉄石,吉村寅太郎らとともに敗れ,鷲家口の戦場で失明,大坂への逃避中銃弾に倒れた。 (→大和五条の変 )
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松本奎堂 まつもと-けいどう
1832*-1863 幕末の武士。
天保(てんぽう)2年12月7日生まれ。三河(愛知県)刈谷(かりや)藩士。尾張(おわり)名古屋藩儒奥田桐園(とうえん)に,ついで昌平黌(しょうへいこう)でまなび,江戸藩邸の教授兼侍読となる。文久3年天誅(てんちゅう)組を組織して藤本鉄石,吉村虎太郎(とらたろう)とともに総裁となり大和五条に挙兵したが,同年9月25日吉野郡鷲家(わしか)口で戦死。33歳。本姓は印南(いんなみ)。名は孟成,衡。字(あざな)は士権。通称は謙三郎。
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松本奎堂 (まつもとけいどう)
生年月日:1831年12月7日
江戸時代末期の三河刈谷藩士;尊攘派志士
1863年没
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