1890年の帝国議会開設前後から日清戦争開戦前の民権派政党の総称。90年7月の第1回衆議院総選挙のさい,大同俱楽部などの旧自由党系3派,九州同志会(以上の4派は選挙後立憲自由党を結成),立憲改進党などを民権党と呼んで政府党と区別したのが端緒。やがて,議会で連携して藩閥政府に対抗する立憲自由党(1891年3月自由党と改称),立憲改進党は民党と,政府を支持する大成会,国民協会などは侮蔑的に吏党と呼ばれるようになった。民党は民力休養(地租軽減,政費節約)を唱えて政府予算案の大幅削減を決議,あわせて言論・集会の自由を要求し,超然主義に立つ政府と激しい対立をくりかえした。第1議会では立憲自由党内の〈土佐派の裏切り〉などにより政府との妥協が成立。しかし第2議会では再び激しく対立した。時の第1次松方正義内閣は強圧的態度をとり,議会を解散,92年2月の総選挙では多数の死傷者を出す血の選挙干渉をおこなって民党派議席の大幅減を策した。だが民党派は議席の過半数を獲得し,第3特別議会で政府の責任を厳しく追及,これを遠因として松方内閣は瓦解した。一方,吏党派の佐々友房らは同年6月国民協会を結成し,政府擁護の勢力拡大をはかった。こうして民党と政府および吏党の対立はより激化した。同年末からの第4議会でも予算案をめぐり同様の対立となったが,翌93年2月第2次伊藤博文内閣はついに天皇をして政府と議会の妥協を命ずる〈和衷協同の詔〉を出させた。その結果,民党は政府との妥協にふみきり,予算問題での対立は終止した。以後,自由党は伊藤内閣との提携を画策し(日清戦争後公然化),一方の立憲改進党は条約改正問題などで政府を追及,国民協会などと硬六派を結成して反政府運動を展開した。ここにいたり従来の民党・吏党関係は実質的に消滅したが,以後もしばらくの間は,わが党こそ民意を代表しているとして民党を自称する場合が往々あった。
執筆者:阿部 恒久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
初期議会期の反藩閥政府的党派の呼称。「吏党」とともに中江兆民の命名によるという。通常は民権派の流れをくむ自由党と改進党の両者をさし,議会で共闘関係にあった両者を民党連合ともよんだ。自由党が第2次伊藤内閣に接近するとともに,呼称としての民党も用いられなくなった。
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