明治・大正期の教育者。信州(長野県)松本に生まれた。1888年東京帝国大学卒業後,文部書記官,第二・第一高等学校長を経て98年文部省普通学務局長となり,その後文部次官(1906)もつとめた。在任中の業績としては,とくに1900年の小学校令改正,義務教育費無償化が高く評価されている。11年東北帝国大学の初代総長(東北大学)となり,13年には京都帝国大学総長となったが,いわゆる〈京大沢柳事件〉(教授の任免権をめぐる抗争事件。13年7月沢柳総長が学内刷新を唱えて7教授を罷免したのに対して,教授会の同意が必要だとして教授団が抗議運動を展開。14年1月文相が教授団の主張を認め,以後教授任免に関する教授会の慣行的権限が公認された)をひきおこして辞任した。以後,16年帝国教育会会長,17年にはみずからが創立した私立成城小学校の校長となり,教育運動の指導者にもなった。とくに力を注いだのは成城学園の教育であり,そこでは教育についての科学的研究を尊重し,その結果にもとづく教育改革の必要性を強調した。主著《実際的教育学》(1909)は,当時における金字塔ともいうべき業績であり,日本の教育学研究史の貴重な遺産である。国際的視野もひろく,諸外国に対して日本の教育を理解させるべく努力し,24年にはアメリカの女流教育家で〈ドルトン・プラン〉の創始者H.パーカーストを日本に招待するなど,教育の国際交流にも努力した。彼の著作は膨大な量にのぼり,生存中に全集が発行され(1925-26),死後にも選集(1940)が出版されているが,75-80年に《沢柳政太郎全集》全11巻が刊行された。成城学園教育研究所には,彼の自筆原稿をふくむ資料が〈沢柳文庫〉として保存されている。
執筆者:中野 光
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明治・大正期の文部官僚、教育者。慶応(けいおう)元年長野県松本に生まれる。1888年(明治21)東京帝国大学文科大学卒業。文部省に入り、第二高等学校校長、第一高等学校校長などを歴任、1898年文部省普通学務局長、1906年(明治39)文部次官。この間1900年の小学校令改正(尋常小学校を4年制に統一、授業料不徴収)、1907年の小学校令改正(義務就学年限を6年に延長)で中心的役割を果たす。1911年東北帝国大学新設とともに初代総長、初めて女性に帝国大学の門を開いた。1913年(大正2)京都帝国大学総長となったが、翌1914年いわゆる沢柳事件のため辞任。以後1915年に帝国教育会会長に就任、1917年には成城(せいじょう)小学校を創設。大正期の新教育運動へ理論的、実践的に大きな影響を与えた。著作集に『沢柳政太郎全集』10巻・別巻1(1975)がある。
[尾崎ムゲン]
『新田貴代著『沢柳政太郎・その生涯と業績』(1971・成城学園沢柳研究会)』
明治・大正期の教育家,教育学者 帝国教育会会長;京都帝国大学総長;東北帝国大学初代総長;成城学園創設者。
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長野県松本出身。帝国大学文科大学卒業後,文部省に入る。修身教科書機密漏洩事件の責を負って辞任後,群馬県尋常中学校6代校長,同群馬分校初代校長,第二高等学校長,第一高等学校長等を歴任,学校騒動を生徒とともに解決して「名校長」とも言われた。1898年(明治31)普通学務局長,1906年に文部次官となり,再び文部官僚として義務教育年限の延長,高等教育機関の増設等に携わる。1911年には東北帝国大学初代総長となり,帝大で初めて女子の入学を認めた。しかし,学術中心主義,総合大学主義の立場から大学教授の権威を重視するあまり,大学教授たるもの「学術ノ研究ト学生ノ教授トニ向ツテ全力ヲ尽クシ随ツテ常ニ進境ニアルモノタルヲ要ス」として,1913年(大正2)京都帝国大学総長着任後に,不適とみなす谷本富ら7教官に辞表の提出を求め,法科大学教授団から強い抵抗にあう。この沢柳事件により,教授会は教官人事に関する自治権を承認されたとして日本の大学史上画期をなした。沢柳は翌年総長を辞し,以後は在野の教育家として活動。帝国教育会会長を務め,1917年には成城小学校を創立し,子どもの自発的活動を重んじる新教育運動をリードした。
著者: 杉谷祐美子
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1865.4.23~1927.12.24
明治・大正期の教育家。信濃国生れ。東大卒。文部書記官・文部省普通学務局長・文部次官などを歴任。1911年(明治44)東北帝国大学初代総長,13年(大正2)京都帝国大学総長となり,7教官の辞職を要求して教授会と衝突。抗争事件に発展し,翌年引責辞職。その後は帝国教育会会長として活躍する。17年に成城小学校を創設して大正新教育の実践に力を注ぎ,教育改造運動を支えた。「沢柳政太郎全集」全10巻(付別巻)。
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… 帝国教育会の果たした役割は時代によって変わった。注目されるのは第1次大戦後の沢柳政太郎会長,野口援太郎専務主事の時代である。1917年の全国小学校女教員会の開催,18年各府県の教育会の連合組織の結成,21年政府の地方教育費整理節減案への批判,そのほか機関誌《帝国教育》の発行,教員の研究活動への援助,国際的教育運動との連携等々の事業は,政府の政策とは離れた独自のプレッシャー・グループとしての役割を果たした。…
… 20世紀とくに1910年代に入ってからは,欧米の新教育運動に刺激され,ヘルバルトは時代遅れとされ,デューイをはじめ,パーカーFrancis Wayland Parker(1837‐1902),E.ケイ,モイマンErnst Meumann(1862‐1915)らの新教育を支えた理論の紹介がさかんに行われ,これが日本の新教育運動を促進するという役割を果たした。この欧米の教育学説の紹介を繰り返す教育学のあり方に対し,沢柳政太郎は《実際的教育学》(1909)で,教育の事実を対象とした研究の必要を提唱した。さらに1930年代に入り,阿部重孝,城戸幡太郎らの編集になる岩波講座《教育科学》(1931‐33)が刊行され,観念的教育学を批判し,教育の事実を実証的に把握し解明する方針がとられた。…
…88‐90年の間京都府が東本願寺に経営を委託した京都尋常中学校の校長を務め,辞職後厳しい禁欲生活に入り,衣食住に〈ミニマム・ポシブル〉を求めて自己鍛錬に努めた。94年結核を発病し,道友沢柳政太郎らの強請で兵庫県舞子で療養生活に入ったが,この間内面に大きな転換があり,〈自力の迷情〉をひるがえして他力の信仰を獲得した。このころ東本願寺では1864年(元治1)兵火焼失後の再建経費と多くの負債整理のため財政本位の宗政が行われたが,清沢らは本来の教学中心の寺務に改めるよう建言し,96年京都白河村に籠居し,同志とともに《教界時言》を発刊して改革を訴え,井上円了,村上専精,南条文雄ら宗門学者も呼応した。…
…東京都世田谷区成城にある私立総合学園。1917年沢柳政太郎が東京牛込の成城学校(1885年に〈文武講習館〉として発足した学校)に成城小学校を併設したのがその誕生である。沢柳はここを日本の初等教育改造のための研究・実験校とし,小原(おぱら)国芳,赤井米吉(のち1924年,東京井の頭に明星学園を創設)ら有能な教師をここに招き,雑誌《教育問題研究》を発行することなどを通して教育改造への気運をもりあげた。…
…26年大学令による大正大学設立。初代学長に仏教連合の大学創設提唱者の一人,沢柳政太郎(前京大総長)を迎える。43年真言宗智山派の智山専門学校を合併,第2次大戦後の49年新制大学に移行した。…
…仙台市片平に本部をおく旧制帝大系の国立総合大学。1907年6月札幌の農科大学,仙台の理科大学の2分科大学からなる東北帝国大学が設置され,初代総長に教育学者沢柳政太郎が就任,他の帝国大学に先んじて女子学生の本科生としての入学を許可した。農科大学は札幌農学校を移管・拡充して同年9月に,理科大学は11年に開設した。…
※「沢柳政太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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