王朝交替論(読み)おうちょうこうたいろん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「王朝交替論」の意味・わかりやすい解説

王朝交替論
おうちょうこうたいろん

万世一系の天皇観に対し、4~6世紀の間においてはいくつかの王朝創始交替があったとする見解。この論の先駆をなしたものに江上波夫(えがみなみお)の「騎馬民族征服王朝説」がある。江上は、前期古墳と後期古墳の性格の相違(後期古墳には前期にみられない戦闘的、王侯貴族的、北方アジア的、いわゆる騎馬民族的な性格が現れている)に着目、その間には根本的な転換があることを主たる論拠として、東北アジア系の騎馬民族が南朝鮮を支配し、やがて弁韓(べんかん)(任那(みまな))を基地として北九州に侵入、さらには畿内(きない)に進出して大和(やまと)朝廷を樹立し、日本最初の統一国家を実現したと説いた。この後、水野祐(ゆう)(1918―2000)が万世一系的神聖皇統は史実に反するとして、わが国古代においては血統を異にする三つの王朝が交替したと説いた。それによると、(1)崇神(すじん)天皇の皇統たる呪教(じゅきょう)王朝、(2)仁徳(にんとく)天皇の皇統たる征服王朝、(3)継体(けいたい)天皇の皇統たる統一王朝があり、それらは互いに系譜的に無血縁関係にあったものが、律令(りつりょう)制統一国家機構の確立期において、一系的擬制がなされたとする。この水野説は、その後の王朝交替論に大きな影響を与えた。

(1)崇神王朝は、三輪(みわ)王朝(三輪山を祭祀(さいし)する王朝)あるいはイリ王朝(崇神天皇や垂仁(すいにん)天皇の諡号(しごう)中のイリヒコから命名)ともいわれ、日本の最初の王朝とみる論者が多い。その性格については、この王朝をこの地に自生したものとみるか、他地域からこの地に進出してきたものとみるか意見は分かれる。

(2)仁徳王朝は、応神王朝、河内(かわち)王朝、ワケ王朝(応神系の尊号にワケが多い)ともよばれるが、この王朝も九州などの外から侵入してきた征服王朝とみるか、それとも河内を基盤に発生し、大和に進出した新王朝とみるか、あるいは河内においてヤマト王権(崇神王朝)と連合政権を構成していた一つの王統(王家)とみるか意見は分かれる。

(3)継体王朝は、越前(えちぜん)(福井県)もしくは近江(おうみ)(滋賀県)、あるいは摂津(大阪府・兵庫県)から大和に入ってきた新王朝とみる見解が有力ではあるが、『古事記』『日本書紀』には「誉田(ほんだ)天皇〈応神天皇〉五世の孫」とあり、『上宮記(じょうぐうき)』逸文(『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』所引)には、詳細な系譜関係が記されているので、まったく先王朝と血縁関係のない一地方豪族とみるかは議論の出るところである。

 ところで王朝交替論においても、その交替を征服でとらえるか、もしくは入り婿という形での先王朝との交替=継承でとらえるかで王権構造、国家形成の形態の理解が違ってくる。さらに傍系もしくは王族の入り婿という形での先王朝の血統継承ということになると、王朝交替という概念とは違ったものになる。近時、王朝交替論には疑問も提起されている。すなわち、世襲王権未確立のもとでの複数王家(王統)による大王位の交替、すなわち畿内(きない)連合政権論からこの王朝交替論を克服しようとする見解も出されている。総じて王朝交替論は、万世一系的天皇観を克服するうえで大きな役割を果たしたが、「王朝」概念の不明確さもあって、王権―国家形成史としては追究が弱かった。

[小林敏男]

『江上波夫著『騎馬民族国家』(中公新書)』『水野祐著『日本古代の国家形成』(講談社現代新書)』『上田正昭著『大和朝廷』(角川新書)』『直木孝次郎著『日本古代国家の構造』(1958・青木書店)』『井上光貞著『日本国家の起源』(岩波新書)』『岡田精司著『古代王権の祭祀と神話』(1970・塙書房)』『原島礼二著『倭の五王とその前後』(1970・塙書房)』『鈴木靖民著『古代国家史研究の歩み 邪馬台国から大和政権まで』増補版(1983・新人物往来社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「王朝交替論」の意味・わかりやすい解説

王朝交替論 (おうちょうこうたいろん)

日本古代の天皇の系譜は,明治以後強調されたような万世一系ではなく,何回か政治勢力に交替があったとする説。かつて津田左右吉が,《古事記》《日本書紀》には,仲哀天皇と応神天皇の間で一つの段落があり,仲哀以前は天皇の系譜が父子相承となっていたり,天皇の称号だけで諱(いみな)を欠いているなど,実在性に乏しく,6世紀の帝紀(ていき)に記されていたのは,応神より後の天皇であろうとしたことにはじまる。その後,林屋友次郎によって,〈応神新王朝論〉が説かれ,応神以前の天皇は存在しないとされ,水野祐は,仲哀以前を〈古王朝〉,応神以後を〈中王朝〉とし,邪馬台国と戦った狗奴国が東遷して,この〈中王朝〉を形成したと考え,いわば江上波夫が,大和の王朝を騎馬民族の征服によって生まれたとした騎馬民族説をさらに進め,〈ネオ騎馬民族説〉とでもいうべきものを主張した。他方で,〈古王朝〉は大和三輪にあり,〈中王朝〉は河内に成立し,河内王朝が三輪王朝を征服したという説もあらわれた。さらに〈継体新王朝論〉がある。これは継体天皇が越前あるいは近江から迎えられたのは,近江の息長(おきなが)氏に代表される北方勢力が,武烈天皇で断絶した〈応神王朝〉のあとをうけて,大和の王朝を奪したとみる説で,継体を応神5世孫としたのは,その正統性を作為したにすぎないとするものである。この説は,林屋辰三郎などによって唱えられ,ことに継体の死後,安閑・宣化という,いわば〈畿外勢力〉と,欽明に代表される〈畿内勢力〉の対立抗争があり,2王朝が一時併存したとする主張によって裏づけられた。この説をさかのぼれば,喜田貞吉らによって,継体・欽明紀の年紀の錯簡が論ぜられ,継体の没年辛亥年(531)の翌年が,欽明1年の壬子年(532)であり,安閑・宣化の在位期間はなくなるという文献批判から発しているといえよう。しかし,この王朝交替論には異論も多く,皇位継承を父系のみでなく,母系を加えた双系によって見れば,単純な征服王朝論は成立しないとする説がつよい。
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世界大百科事典(旧版)内の王朝交替論の言及

【継体天皇】より

…また天皇の即位については,天皇が応神天皇の5世の孫という遠い皇親であること,大和に入るまで長年月を要していることなど,きわめて異例の点が多いので,天皇が別系から出て実力によって旧権力を倒し,新王朝を開いたとする王朝交替説も一部に出されている。王朝交替論継体・欽明朝の内乱【関 晃】。…

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