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征服王朝 せいふくおうちょう Dynasties of Conquest

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

征服王朝
せいふくおうちょう
Dynasties of Conquest

アメリカの東洋学者,社会学者の K.ウィットフォーゲルアジア史解釈のために唱えた一種の政治学的概念。彼は中国を征服した北方民族は中国文化に同化吸収されたとするヨーロッパの伝統的理論を批判し,文化人類学文化変容理論に基づき,それらは自己の文化を主体的に保持しつつ中国文化に対応したと考え,こうした王朝として,元,の4王朝をあげて征服王朝と定義し,秦,漢,隋,唐,宋,明などの典型的な中国王朝と並ぶ中国帝国の2範疇の一つと規定した。

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百科事典マイペディアの解説

征服王朝【せいふくおうちょう】

中国史上,異民族の征服によって建てられた王朝。ウィットフォーゲルが遼・金・元・清について命名。
→関連項目征服

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世界大百科事典 第2版の解説

せいふくおうちょう【征服王朝】

一般には,他民族を征服して樹立された王朝をいい,その例は世界史上に広く見られるが,とくに中国に対する北方民族の征服行為の結果生まれた中国王朝の一類型を指す語として用いられることが多い。この場合は,正しくは中国征服王朝といい,ウィットフォーゲルが馮家昇(ふうかしよう)との共著《中国社会史――遼(907‐1125)》(1949)の序論で説いた概念として知られる。彼は中国王朝を典型的中国王朝と中国征服王朝に分けた。

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大辞林 第三版の解説

せいふくおうちょう【征服王朝】

他国を征服して建てた異民族の王朝。特に中国史上、遼・金・元・清の各王朝をさす。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

征服王朝
せいふくおうちょう
Dynasties of ConquestConquest Dynasties

厳密には中国征服王朝という。中国北方の異民族が中国の一部または全部を征服して建てた中国風王朝(遼(りょう)、金、元、清(しん))をさし、K・A・ウィットフォーゲルが馮家昇(ふうかしょう)との共著『中国社会史――遼(907~1125)』History of Chinese Society, Liao (1949)の総序のなかで初めて提唱した概念である。[吉田順一]

ウィットフォーゲルの征服王朝

ウィットフォーゲルの考えは遼王朝の検討から導き出された。かつて遼は、それを建てた契丹(きったん)がまもなく中国人となり、自ら中国の諸慣習、儀礼、文学および文化を採用し、こうして真に中国的な王朝になったとみられていた。だがこのような同化吸収理論は否定されるべきであり、異なる文化を有する集団の接触は、その文化的諸特徴の受容と同時に、それらに対する抵抗を考慮しなければならず、そこで普通はそうした接触は新しい同質文化(同化吸収の結果もたらされる文化)の創造ではなくて、共生関係のなかで生活する二つの相互に適応された文化の共存に終わるのであり、ときおり文化溶解が生じるが、その場合でも結果するのは、吸収する側の文化と同質の文化ではなくて、親文化とまったく異なる第三文化であるとする文化変容理論が妥当である。というのは、遼は北方民族の契丹が漢民族の一部を征服し、支配して建てた中国風の王朝であるが、その政治、軍事権力の中心は、契丹の本土に維持され、契丹の中国文化採用にもかかわらず、彼ら自身の部族、政治および軍事組織、世俗的伝統あるいは宗教的信条は放棄されず、彼らは依然、漢族とは離れて牧畜し、部族的生活様式は保持され、それら諸部族は、多くの行政的単位が行う以上の行政上の仕事を行っていたのであり、要するにそこには契丹を中心とする北方遊牧民族と漢民族を中心とする農耕民族の社会・文化が二元的に存在し保持されていたからである。ウィットフォーゲルは、このようにみたうえで、遼に存在した社会・文化の二元性は、契丹に続いて北方民族が漢民族を征服して建てた金、元、清においてもその存在が確認できるとし、これら四王朝を中国的社会・文化が一元的に存在する秦(しん)、漢、隋(ずい)、唐、宋(そう)、明(みん)などと異なるものであるとみなし、前者を中国征服王朝、後者を典型的中国王朝と名づけた。そして典型的中国王朝と中国征服王朝は、中国帝国における二つの類型であるか、または後者は前者を補完するものであるとみた。なお、彼は同じ中国征服王朝でも、遊牧民である契丹とモンゴル人が建てたそれぞれ遼・元と、狩猟・農耕民族である女真(じょしん)が建てた金とでは、農耕民である漢族との文化的な異質性の度合いによって、中国文化に対する態度が異なるため、前者を文化的に中国文化に抵抗するもの、後者を文化的に中国文化に従順なものというように、二つに分けられ、清朝は過渡的であるとし、一方これら四つの王朝とは別に、五胡十六国(ごこじゅうろっこく)、南北朝時代の北方系諸王朝にも複合的、二元的文化が存在したが、それらの王朝には明確な征服行為が欠けているので、中国征服王朝とは称さず、とくに浸透王朝Dynasties of Infiltrationと称すべきだとした。[吉田順一]

日本での征服王朝論

わが国では、これ以前に津田左右吉(そうきち)が、遼は契丹に部族制、漢民族に州県制を施行し、中央において前者を北面官、後者を南面官が控制するなど制度上の二重体系を保持したことを指摘していたので、ウィットフォーゲルの見解が現れると、遼およびその他の中国征服王朝の社会・文化上の二元性についていっそう熱心に分析が行われるようになった。しかしそれと同時に、中国征服王朝の建設者が北アジア方面の出身者であるため、それらの王朝の出現を、北アジア史の発展過程のなかでとらえ、その発展の一帰結として説明しようとする考えが現れた。その第一は、ウイグルを過渡期として生じていた遊牧社会の変化の結果、契丹に至り、可汗(かがん)が、遊牧民のほかに農民も支配する牧農的政権を樹立し、また氏族、部族を改編して封建的君臣関係を確立して専制君主化し、この権力を基礎に北アジアだけ支配するのでなく中国も征服することとなり、ここに遼以後北アジアは中世に突入したとする説。その第二は、中国征服王朝の出現を、中国農耕社会とは対立的に発展し、強烈な自意識を有する遊牧民社会の発展路線上の一帰結とみるべきだとし、狩猟・農耕民の建てた金、清を中国征服王朝から除外する説である。これらの説は、中国帝国類型化のための概念を、北アジア世界の歴史的発展の問題と結び付けた点に特徴をもつが、そのために若干の無理を生じた。すなわち、第一説は、中国征服王朝を建てた遊牧民と狩猟・農耕民が異なる経済をもつにもかかわらず、それらの歴史的発展過程の異同を十分に分析しないままにその歴史的発展を同一視し、牧農的政権という概念を用いたこと。第二説は、中国征服王朝概念の重要な要素である社会・文化様式の二元性を軽視ないし無視し、単にアジア遊牧社会の問題としてのみ中国征服王朝をとらえ、金、清を除外したことがそれである。とはいえウィットフォーゲルの提唱は、北方民族とくに遊牧民族がなぜ中国征服王朝を建てるに至ったのかという疑問を生み、結果として北方社会、とくに遊牧社会の歴史の発展に関する研究を深めた点があるということはいえるであろう。[吉田順一]

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