崇神天皇(読み)スジンテンノウ

デジタル大辞泉 「崇神天皇」の意味・読み・例文・類語

すじん‐てんのう〔‐テンワウ〕【崇神天皇】

記紀で、第10代の天皇開化天皇皇子。名は御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ御肇国天皇はつくにしらすすめらみこととも称される。

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精選版 日本国語大辞典 「崇神天皇」の意味・読み・例文・類語

すじん‐てんのう‥テンワウ【崇神天皇】

  1. 第一〇代の天皇。開化天皇の皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇・御間城天皇・御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも称された。記紀の所伝では、疫病が流行したので三輪山の神を祭祀し、四道(三道)将軍を派遣して大和朝廷の勢力を広めたという。陵墓天理市にある山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)といわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「崇神天皇」の意味・わかりやすい解説

崇神天皇 (すじんてんのう)

第10代に数えられる天皇。和名を御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)命という。この天皇が記紀の伝承の中で特に目だつ点は,大物主(おおものぬし)神をはじめとしてもろもろの国津神(くにつかみ)を祭り,また伊勢神宮の創始に関係したとされることである。《日本書紀》によると,それまで天皇と共殿共床の関係にあった天照大神(あまてらすおおかみ)を豊鍬入姫(とよすきいりひめ)命に託して宮廷の外に移し,いわゆる神人分離の基をつくった。トヨスキイリヒメは《古事記》に〈伊勢大神を拝(いつ)き祭る〉と記され,初代の斎宮(さいぐう)であるという。このことは,天照大神の霊威が狭い宮廷の枠を超えて国家的な普遍性をもったことを意味し,王権の原始的形態に特徴的にみられる祭政の癒着が廃されて,天皇の政治力に宗教からの相対的な独立性と展開力とをもたらしたのである。それは政治と宗教の新しい結合でもあった。また疫病が流行し人民が死滅しようとしたとき,大田田根子(おおたたねこ)に大物主神を祭らせて危機を切り抜け,さらに大国魂(おおくにたま)神をはじめとして諸々の国津神を祭ったという。これらのことは,《出雲国造神賀詞(いづものくにのみやつこのかむよごと)》が述べるように,土豪の斎(いつ)く神々が大国主神の分身として〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉へと転化したことを物語る。伊勢神宮と斎宮制の成立は,同時に多くの国津神が大国主神へと統合されて天皇の守護神へと再編成されてゆく過程でもあった。神宮の創始と国津神の統合,それによる王権の確立という時期は実年代ではかなり下るものと思われる。しかし,王権と,神宮を頂点とする神々の秩序とは国の始まりとともになくてはならないとする意識が天皇家の始祖の観念と結合したとき,もろもろの制度や文物をつくり出した王として崇神天皇が語り伝えられたのであった。かくして崇神は,伊勢神宮の創始にかかわった王として〈天神地祇(あまつかみくにつかみ)〉の神社を定め,それらの神々によって守護された〈御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)〉と称された。
伊勢神宮
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「崇神天皇」の意味・わかりやすい解説

崇神天皇
すじんてんのう

記紀の皇室系譜では第10代の天皇。開化(かいか)天皇の皇子で、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)(伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと))。垂仁(すいにん)天皇の父。御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)(御真木入彦印恵(みまきいりひこいにえ))天皇、御間城天皇、水間城王などともよぶ。『古事記』『日本書紀』がともにハツクニシラシシ(御肇国、所知初国)天皇と称していることが注目される。記紀の所伝では、この天皇は磯城(しき)の水垣(みずがき)(瑞籬、奈良県桜井市金屋付近)に宮居したと伝える。疫病が流行したので三輪山(みわやま)の神を祭祀(さいし)し、また四道(記は三道)将軍を派遣したこと、あるいは武埴安彦(たけはにやすひこ)(建波邇安王(たけはにやすひこ))の反乱を鎮定したり、男女の調(みつぎ)(貢物)を定めたりしたことなどが記紀にみえている。紀には、天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂(やまとおおくにたま)神の2神を殿内に祀(まつ)るのをやめ、天照大神は笠縫邑(かさぬいのむら)に移したという伝えもある。

 この天皇の代を確実な大王家の初めとする説や、あるいは、崇神天皇に始まる三輪山を中心にした政治勢力を三輪王朝とよんで、河内(かわち)を基盤にした応神(おうじん)天皇に始まる王朝(河内王朝)と区別する説もある。北方大陸系の騎馬民族征服王朝を樹立したとみなす騎馬民族征服王朝説では、騎馬民族の後裔(こうえい)である崇神天皇は、まず北九州に入って第一次の「建国」をなしたと解釈している。このように崇神天皇の代はさまざまに評価されているが、三輪山を中心とする政治勢力が、注目すべき画期をつくったことは見逃せない。陵墓は山辺の道(やまのべのみち)の上にあると伝え、奈良県天理市アンドの巨大な前方後円墳(山辺道勾岡上(やまのべのみちのまがりのおかのうえ)陵)だという。

上田正昭

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百科事典マイペディア 「崇神天皇」の意味・わかりやすい解説

崇神天皇【すじんてんのう】

日本書紀》にみえる天皇。開化天皇の皇子。和風諡号(しごう)は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇。記紀によれば四道(しどう)将軍を派遣して大和朝廷の領域を広げ,国家の財政制度を確立したという。〈はつくにしらすすめらみこと〉と称されているところから,同じ称号をもつ神武(じんむ)天皇に対して真の建国者とする説や,大和朝廷を確立した最初の天皇とする説などがある。
→関連項目有封社毛野狭山池垂仁天皇豊鍬入姫命依網池・依網屯倉

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朝日日本歴史人物事典 「崇神天皇」の解説

崇神天皇

『古事記』『日本書紀』に第10代と伝えられる天皇。大和の磯城の瑞籬宮に都したと伝えられる御間城入彦五十瓊殖天皇。開化天皇の第2皇子で,母は物部氏の遠祖に当たる大綜麻杵の娘の伊香色謎命。垂仁天皇の父。疫病の蔓延によって民の半数が死んでしまいそうになったとき,神託に従って大田田根子に大物主神を祭らせて再び平安を得たとか,四道将軍を派遣して国内を平定したとか,天照大神を大和の笠縫邑に遷したとか,盾と矛を捧げて墨坂神,大坂神を祭ったとか,また出雲大社の神宝を献上させたとか,多くの話がこの天皇の代のこととして語られる。いつの時代のこととして設定されているのかはっきり記述されていない,大物主神と倭迹迹日百襲姫との神婚説話もこの天皇にかかわる形で語られる。以上の諸説話には,祭祀に関するもの,特に三輪山(桜井市)の大物主神の祭祀に関するものが多く,このことが三輪山を中心とするいわゆる三輪王朝の存在を想定する説を導くもととなっている。また,『日本書紀』において,神武天皇が「始馭天下之天皇」と呼ばれながら崇神天皇もまた同じく御肇国天皇と呼ばれているという事実から,事実上は崇神天皇が大和朝廷の創建者であったのではないかとする説もあり,この崇神天皇をめぐる史書の記述は国家の起源にかかわる重要な問題を提供している。<参考文献>吉井巌『天皇の系譜と神話』

(佐佐木隆)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「崇神天皇」の解説

崇神天皇
すじんてんのう

記紀系譜上の第10代天皇。御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇と称する。開化天皇の第二子。母は物部氏の遠祖大綜麻杵(おおへそき)の女伊香色謎(いかがしこめ)命。御間城姫を皇后とし,垂仁天皇らをもうけたという。磯城瑞籬(しきのみずがき)宮(現,奈良県桜井市金屋付近)にあり,宮中に祭っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)との祭所をわかち,新たに大物主神(おおものぬしのかみ)を三輪に祭るなど祭祀の整備を行ったとされる。また四道将軍を派遣し,朝鮮(任那(みまな))からのはじめての朝貢もこの天皇のときのこととされるなど,大和政権の支配の基礎を固めた天皇として系譜上に位置づけられる。御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とよぶことなどから,実在の確実な初代天皇とする意見がある。また三輪地域との伝承上の関係や同地域における巨大古墳の存在から三輪王朝の始祖とする説や,北方騎馬民族の王とする説などもあるが,実在を疑う説もある。山辺道勾岡上(やまのべのみちのまがりのおかのへ)陵に葬られたとされ,奈良県天理市柳本町の行灯山(あんどんやま)古墳がそれに指定されている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「崇神天皇」の意味・わかりやすい解説

崇神天皇
すじんてんのう

第 10代に数えられる天皇。名はミマキイリヒコイニエノミコト。開化天皇の第2皇子。母は皇后イカガシコメノミコト。大和磯城瑞籬 (しきみずかき) 宮に都し,ミマキヒメノミコトを皇后とした。即位の初め神鏡霊剣を倭笠縫邑に移し,アマテラスオオミカミを祀ったといわれ,四道将軍をつかわして大和国家の範囲を広め,池溝を開いて農業に便をはかり,男の弓弭調 (ゆはずのみつぎ) ,女の手末調 (たなすえのみつぎ) を課して,国家の財政制度を確立したという。このように崇神天皇は,原始的な小国家を統一して大和政権を確立し,国内統治を進めたことから,後世「御肇国天皇 (はつくにしらすすめらみこと) 」と称されている。海外との交通も一段と盛んであったらしく,神武天皇ではなく崇神天皇が第1代の天皇だとさえ説かれている。陵墓は天理市大字柳本の山辺道勾岡上陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「崇神天皇」の解説

崇神天皇 すじんてんのう

記・紀系譜による第10代天皇。
父は開化天皇。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。「日本書紀」によると,都は磯城(しき)の瑞籬(みずかきの)宮(奈良県桜井市)。北陸,東海,西海,丹波の四道に将軍を派遣して統治したとつたえ,御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称される。崇神天皇68年12月5日死去。120歳。墓所は山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)(奈良県天理市)。別名は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「崇神天皇」の解説

崇神天皇
すじんてんのう

記紀の伝承にみえる第10代天皇
記紀によると,開化天皇の皇子。天照大神 (あまてらすおおみかみ) を笠縫邑 (かさぬいむら) に遷し祭り,四道将軍を派遣し,男子には弓弭調 (ゆはずのみつぎ) ,女子に手末調 (たなすえのみつぎ) を課すなど国家組織の整備に尽くした。神武天皇と同様始馭天下之天皇 (はつくにしらすすめらのみこと) と呼ばれたことから,大和政権を最初に確立した大王(天皇)と考えられている。

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世界大百科事典(旧版)内の崇神天皇の言及

【日本神話】より

…これが後の神武天皇であり,ここをもって〈神代〉の物語は終了する。 中巻は宮廷が大和の地に存して天下を治めることになったいわれを語る神武天皇の物語で始まり,8代の天皇の系譜に続いて崇神(すじん)天皇の物語となる。そこでは〈天神地祇(あまつかみくにつかみ)の社〉を定めて伊勢神宮と大物主神などの国津神を祭り,また賦役貢納の制を定めたことなどが記されている。…

※「崇神天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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