畠山重忠(読み)ハタケヤマシゲタダ

デジタル大辞泉 「畠山重忠」の意味・読み・例文・類語

はたけやま‐しげただ【畠山重忠】

[1164~1205]鎌倉初期の武将武蔵の人。幼名、荘司次郎。源頼朝に仕えて源義仲追討、奥州征伐などに戦功が多い。のち北条義時と戦って戦死

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精選版 日本国語大辞典 「畠山重忠」の意味・読み・例文・類語

はたけやま‐しげただ【畠山重忠】

  1. 鎌倉初期の武将。武蔵国畠山郷(埼玉県川本町畠山)の人。荘司次郎と称した。源頼朝に服属、木曾義仲追討、奥州藤原氏征伐など戦功を挙げ信を得たが、後、北条氏に謀反の疑いをかけられ、義時と戦って死んだ。長寛二~元久二年(一一六四‐一二〇五

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改訂新版 世界大百科事典 「畠山重忠」の意味・わかりやすい解説

畠山重忠 (はたけやましげただ)
生没年:1164-1205(長寛2-元久2)

鎌倉初期の武士。武蔵国の大族秩父氏の一族で,畠山荘を領して畠山氏の祖となった重能の子。源頼朝の挙兵にあたり,はじめ平家方について三浦氏を攻めたが,のち帰順して平家追撃軍に加わり各地に転戦した。典型的な坂東武者としての評価が高く逸話も多いが,1187年(文治3)梶原景時の讒言(ざんげん)によって謀反の罪を着せられそうになった際,〈謀反を企てているとの風聞が立つのは武士の眉目〉と語って嫌疑を一蹴したという話は有名である。しかし1205年平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の陰謀にまきこまれ,まず子の重保が鎌倉由比ヶ浜に誘殺され,ついで本領をたって鎌倉に向かう途にあった重忠にも大軍がさし向けられた。このとき重忠は,本領に帰っての決戦を勧める郎党の言を制し寡勢でこの大軍を迎え撃ち,一族郎党とともに討死したという。
執筆者:

重忠は浄瑠璃,歌舞伎で,いわゆる捌役(さばきやく)の役どころとして形象化された。したがって歌舞伎では生締(なまじめ)(鬘(かつら)の髷の名称)が多く用いられる。浄瑠璃《壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)》(1732初演)では平景清の恋人阿古屋(あこや)を堀川御所の白洲で裁く名判官秩父庄司重忠として登場,智勇兼備でしかも情ある武将として描かれる。近松作の《出世景清》にも〈重忠は四相(しそう)を悟る〉の詞章がある。前記兜軍記》の登場人物である岩永左衛門が赤っ面の敵役であるところから,重忠は岩永と対照的にものわかりのよい人物としてとらえられている。歌舞伎では〈曾我〉の世界に登場する。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「畠山重忠」の意味・わかりやすい解説

畠山重忠
はたけやましげただ
(1164―1205)

鎌倉初期の武将。重能(しげよし)の子。母は三浦義明(よしあき)の女(むすめ)。系図によれば桓武(かんむ)平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵(むさし)国畠山庄(しょう)(埼玉県深谷(ふかや)市川本地区付近)の庄司(しょうじ)であった重能からである。1180年(治承4)石橋山(いしばしやま)の戦いでは初め頼朝(よりとも)に敵対したが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲(きそよしなか)や平氏の追討、さらに1189年(文治5)の奥州征伐などに戦功をたてた。その間、伊勢沼田御厨(いせぬまたのみくりや)(三重県松阪市)で起こった地頭代(じとうだい)の押妨(おうぼう)事件に関連して地頭であった重忠が捕らえられ、梶原景時(かじわらかげとき)の讒言(ざんげん)で逆心を疑われた際、頼朝に逆心を抱いていないこと、武士に二言はないから起請(きしょう)文など書く必要はないことを主張し、頼朝に信用された話は有名である。1190年、1195年(建久1、6)頼朝再度の上洛(じょうらく)に先陣を勤めるなど頼朝に仕えたが、1205年(元久2)子重保(しげやす)(母は足立遠元(あだちとおもと)の女)が北条時政(ときまさ)の後妻牧(まき)氏の女婿平賀朝雅(ひらがともまさ)と争って時政に殺されたあと、6月22日重忠も北条軍と武蔵二俣川(むさしふたまたがわ)(横浜市保土ケ谷(ほどがや)区)で戦って討ち死にした。彼の死後、妻(北条時政の女)は足利義純(よしずみ)と再婚し、その子泰国(やすくに)が畠山の家名を継いだ。重忠は大力をもって聞こえたが、また音楽的才能にも恵まれ、その性質は重厚であったと伝えられている。

[新田英治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「畠山重忠」の意味・わかりやすい解説

畠山重忠
はたけやましげただ

[生]長寛2(1164)
[没]元久2(1205).6.22. 武蔵
鎌倉時代初期の武蔵の豪族。武蔵国男衾 (おぶすま) 郡畠山荘の荘司,重能の子。治承4 (1180) 年の源頼朝の挙兵に際しては,大庭景親にくみし平氏側として戦ったが,安房国で勢力を立直した頼朝が武蔵国に入るに際し,頼朝に帰服,以後頼朝の有力御家人として活躍。寿永3=元暦1 (84) 年源義仲討伐の義経軍に加わり,宇治川の戦いで功を立て,文治5 (89) 年の奥州征伐にも活躍。翌建久1 (90) 年と同6年の2度の頼朝上洛には,その先頭をつとめて忠誠心を認められ,頼家の補佐を遺託されたが,元久2 (1205) 年子の六郎重保が,北条時政につながる平賀朝雅と争って殺されたため,北条氏と武蔵二俣川で戦い,敗死した。『平家物語』にその武功が描かれ,『曾我物語』では曾我兄弟の命請いをし,兄弟の敵討ちを助けている。江戸時代後期の『文武二道万石通』の中心人物で,『頼豪阿闍梨怪鼠伝』など小説にも登場する。子の重保も英雄伝説の主人公。

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朝日日本歴史人物事典 「畠山重忠」の解説

畠山重忠

没年:元久2.6.22(1205.7.10)
生年:長寛2(1164)
鎌倉前期の武将。関東平氏秩父氏の一流で,武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県川本町)を名字の地とする在地領主。在庁官人を指揮する職権・武蔵国留守所総検校職を持つ国内最有力御家人。父は重能,母は三浦義明の娘,妻は足立遠元の娘,のち北条時政の娘と再婚。治承4(1180)年8月,源頼朝が挙兵すると,在京中の父に代わって平氏方の大庭景親に属し,外祖父三浦義明を滅ぼした。しかし,同年10月同族豊島氏,葛西氏の斡旋により頼朝に降伏し,鎌倉御家人となる。平氏追討や奥州合戦に武功を挙げた。義父北条時政の後妻牧の方との不和が原因で,従兄弟の稲毛重成により武蔵国二俣川で謀殺された。文治3(1187)年,代官の不法によって拘禁刑に処せられた際,一言の弁明もせずに7日間も寝食を断ったエピソードは著名で,剛勇廉直の坂東武者の鑑と賞賛される(『吾妻鏡』)。

(海津一朗)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「畠山重忠」の解説

畠山重忠
はたけやましげただ

1164~1205.6.22

鎌倉前期の武将。武蔵国の在庁筆頭である有力御家人。秩父平氏の一族で父は重能,母は三浦義明の女。1180年(治承4)石橋山の戦では源頼朝に敵対したが,その後帰服。源義仲や平氏の追討では源義経に従って戦功をあげた。奥州合戦でも活躍し所領をえた。伊勢国の所領沼田御厨の代官の濫妨によって罪を負ったがひとことの弁解もせず,剛毅にして誠実な人物として「吾妻鏡」に記される。秩父氏の家督として武蔵国の御家人を統制したが,武蔵国務を握る北条氏との対立を深めた。1205年(元久2)子の重保が,北条時政の後妻牧の方の女婿平賀朝雅と争って時政に討たれ,重忠も武蔵二俣川で北条義時軍と戦い敗死。

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百科事典マイペディア 「畠山重忠」の意味・わかりやすい解説

畠山重忠【はたけやましげただ】

鎌倉初期の武士。武蔵(むさし)国畠山荘の荘司重能(しげよし)の子。源頼朝挙兵当初は平氏に属して頼朝に敵対したが,のち頼朝に服属。木曾義仲・平氏の追討や奥州征伐に戦功を立て,頼朝の死後はその遺託を受け頼家を補佐。1205年北条氏と争い武蔵二股川で敗死。
→関連項目川本[町]畠山氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「畠山重忠」の解説

畠山重忠 はたけやま-しげただ

1164-1205 平安後期-鎌倉時代の武将。
長寛2年生まれ。畠山重能(しげよし)の子。母は三浦義明の娘。源頼朝につかえる。源義仲や平家の追討などではたらき,頼朝が京都へはいる際に先陣をつとめた。北条時政の娘(政子の妹)と再婚するが,時政の後妻牧の方らにはかられ,元久2年6月22日武蔵(むさし)二俣川(ふたまたがわ)で戦死。42歳。武蔵男衾(おぶすま)郡(埼玉県)出身。通称は庄司次郎。

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旺文社日本史事典 三訂版 「畠山重忠」の解説

畠山重忠
はたけやましげただ

1164〜1205
鎌倉時代の武将
武蔵国畠山荘司,重能 (しげよし) の子。母は三浦義明の娘。1180年石橋山の戦いには,父が平氏の人質となっていたため,源頼朝に敵対し,衣笠に三浦氏を攻めたが,のち服属。平氏追討・奥州征討に功あり,頼朝の信頼厚く頼家の補佐を託された。のち北条氏と対立し,その挑発にあい1205年武蔵二俣川で義時と戦い敗死した。

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世界大百科事典(旧版)内の畠山重忠の言及

【畠山氏】より

…秩父重弘の子重能(しげよし)が武蔵国畠山荘(埼玉県大里郡江南町付近)の荘官となって畠山氏をおこし,一時源義朝に属した。重能の子畠山重忠は,源頼朝の挙兵にあたり,平氏に味方したが,まもなく頼朝に帰順し,有力御家人となり,同国菅谷(比企郡嵐山町菅谷)に居館を構えた。しかし1205年(元久2)子重保が平賀朝雅と争ったことから,一族とともに北条時政に誘殺され,家が絶えた。…

【北条義時】より

…このとき義時は,政子の命を受け,比企一族が頼家の子一幡を擁して小御所にこもったのを攻撃し,のち一幡を殺害した。05年(元久2)継母の牧の方は時政に畠山重忠を讒言(ざんげん)し,時政は義時に命じて重忠を討たせた。義時はやむをえず武蔵の二股川で重忠を討ったものの,重忠の無実を信じており,彼には不本意な事件であった。…

※「畠山重忠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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