荒木寛畝(読み)アラキカンポ

デジタル大辞泉 「荒木寛畝」の意味・読み・例文・類語

あらき‐かんぽ〔‐クワンポ〕【荒木寛畝】

[1831~1915]日本画家。江戸の生まれ。文晁ぶんちょう派、のちには洋画を学び、写実的花鳥画を得意とした。

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20世紀日本人名事典 「荒木寛畝」の解説

荒木 寛畝
アラキ カンポ

明治・大正期の日本画家



生年
天保2年6月16日(1831年)

没年
大正4(1915)年6月2日

出生地
江戸・芝赤羽(東京都港区)

旧姓(旧名)
田中

別名
幼名=光三郎,別号=達庵

経歴
9歳で谷文晁派の荒木寛快に入門、22歳の時師の養嗣子となる。安政3年山内容堂に認められ土佐藩絵師となる。明治5年ウィーン博に「菊花図」で受賞したが、同年容堂の没後洋画に転向油絵川上冬崖などに学び、一時油絵3名家として五姓田芳柳高橋由一と共に並び称された。その後日本画に復帰、日本美術協会や海外の博覧会で受賞を重ねる。31年東京美術学校教授、33年帝室技芸員となり、39年英国ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ会員。40年開設の文展では第1回より審査員を務めた。洋風画を加味した写実的な花鳥画を得意とし、旧派系の重鎮として重きをなした。代表作に「芦辺遊鴨図」「孔雀図」など。

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朝日日本歴史人物事典 「荒木寛畝」の解説

荒木寛畝

没年:大正4.6.2(1915)
生年:天保2.6.16(1831.7.24)
明治期の日本画家。江戸芝赤羽生まれ。旧姓田中,名は吉,幼名光三郎,別号達庵。天保10(1839)年谷文晁系の荒木寛快に入門し,のちその養子となった。安政6(1859)年土佐藩の絵師となるが,維新後,洋画に転向し川上冬崖らに学ぶ。しかし再び日本画に復帰。明治20(1887)年設立の日本美術協会の重鎮として活躍し,31年東京美術学校(東京芸大)教授,33年帝室技芸員となる。また33年パリ万博で銀賞,37年セントルイス万博で2等賞を受賞。南北合派に洋風を加味した花鳥画を得意とした。代表作「孔雀図」(1890,宮内庁蔵)など。門下生によって読画会が組織された。

(佐藤道信)

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百科事典マイペディア 「荒木寛畝」の意味・わかりやすい解説

荒木寛畝【あらきかんぽ】

日本画家。江戸生れ。旧姓田中。文晁派(谷文晁)の荒木寛快の養子となり,一時油絵を川上冬崖に学ぶ。洋画の技法を加味した精緻(せいち)な描写で新しい花鳥画を試みた。1898年東京美術学校教授となる。その門下に嗣子十畝〔1872-1944〕,池上秀畝,西沢笛畝らがいる。代表作に《孔雀(くじゃく)図》《狸》などがある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「荒木寛畝」の意味・わかりやすい解説

荒木寛畝
あらきかんぽ

[生]天保2(1831).6. 江戸
[没]1915.6.3. 東京
日本画家。本姓は田中,名は吉,号は達菴。9歳で荒木寛快に師事し,22歳で師の養子となった。安政6 (1859) 年山内容堂に請われて土佐藩絵師をつとめた。洋画を川上冬崖に学び,一時は五姓田芳柳,高橋由一らと並称されたが,再び日本画を描くようになり,各種展覧会に出品して受賞。帝室技芸員,東京美術学校教授,東京女子高等師範学校教授,文展審査員となった。主要作品『雨中双鶏図』 (東京国立博物館) ,『芦辺遊鴨図』 (同) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「荒木寛畝」の意味・わかりやすい解説

荒木寛畝
あらきかんぽ
(1831―1915)

日本画家。江戸に生まれる。荒木寛快に師事して文晁(ぶんちょう)派を学び、その養子になった。山内容堂(やまうちようどう)に認められ、絵師として土佐藩に仕えたこともある。一時洋画を学んだが日本画に戻り、1873年(明治6)ウィーン万国博覧会で『菊花図』が受賞した。1898年東京美術学校教授、1899年帝室技芸員。1907年(明治40)に開設された文展でも審査委員を務め、また私塾読画塾を開いて後進の育成にもあたった。洋風の写実技法を取り入れた花鳥画を得意とし、代表作に『孔雀(くじゃく)之図』(1890)がある。

[原田 実]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「荒木寛畝」の解説

荒木寛畝 あらき-かんぽ

1831-1915 幕末-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)2年6月16日生まれ。荒木寛快に師事し,その養子となる。花鳥画を得意とし,安政3年土佐高知藩主山内豊信(とよしげ)の絵師となる。維新後,一時洋画を川上冬崖(とうがい)らにまなぶ。明治31年東京美術学校(現東京芸大)教授。帝室技芸員。大正4年6月2日死去。85歳。江戸出身。本姓は田中。幼名は光三郎。名は吉。別号に達庵。代表作に「孔雀(くじゃく)図」「菊花図」など。

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