入浴料をとって入浴させる公衆浴場。洗湯とも書く。鎌倉時代末に京都祇園社内に銭湯のあったことが記録にあり,室町時代には市中の施設として,ある程度普及していたようである。江戸時代に入ると,江戸をはじめとする大都市に武士,商人,職人,さらに日雇などと呼ばれた都市下層民も含めて膨大な人口が集中し,これら都市生活者を客として営業する銭湯が普及した。例えば江戸時代後期,江戸の中心部では1町に1~2軒の割で銭湯があり,全国各地の城下町,港町などでも銭湯が必ず営業していた。これら銭湯は入浴施設としてだけでなく,遊興,娯楽施設としての役割も果たしており,庶民の社交場としても重要なものであった。近代になっても一般の都市生活者にとって銭湯は欠かせないものであり,公衆浴場数は増加したが,1965年前後から住宅事情の変化による自家風呂の普及などにより,利用者が減少して経営困難から廃業する銭湯が増加した。そのため,経営者だけでなく,風呂のない都市生活者にとっても大きな問題となっている。
銭湯には蒸気浴と温湯浴の2種類があり,古くは前者が風呂屋で,後者が湯屋とはっきり区別されていた。室町末の上杉家本《洛中洛外図》には風呂屋が描かれている。土塀に囲まれた板屋根の粗末な建物で,入った左手が脱衣場,右手が洗い場らしく,垢(あか)取女が客の背中を流している。奥には,板で囲い出入口に垂壁(たれかべ)のついた蒸気室のようなものが描かれている。この形式の風呂屋は江戸初期まで盛んだったらしく,慶長~寛永(1596-1644)ころの風俗画にはしばしば描かれている。外観については特別に銭湯らしい装置というものもなかったようで,大衆向けの風呂屋はごく粗末な板屋根の小屋のようなものである。ぜいたくな風呂屋では蒸気室の入口に唐破風(からはふ)をつけたり,洗い場を広くとり,休憩室を設けたりしているが,外観は一般の町屋と変りはない。蒸気室の出入口を引戸に改良したのが戸棚風呂であるが,これが湯屋にとり入れられるようになった。すなわち,引戸の中の小室に湯槽を据えて,膝ぐらいまで湯を入れ,湯と蒸気により熱効率をよくしようとするもので,〈風呂六分湯四分〉といわれる。このあたりで風呂屋と湯屋の区別があいまいになった。これがさらに改良されたのが柘榴口(ざくろぐち)である。柘榴口は出入口の引戸をまた垂壁式に変え,湯槽の湯を深くしたもので,〈風呂四分湯六分〉といわれる。柘榴口の場合も唐破風がつけられたが,なかには垂壁の部分に牡丹(ぼたん)と唐獅子などの極彩色浮彫をつけたものもあった。こうした形式になるのは幕末ころと思われるが,このころには外観も二階建てで,男湯,女湯と分かれた湯屋らしい特徴のある建物となり,二階は男湯の休み場となっていた。柘榴口は,内部が狭くて暗く,不衛生であったため,明治に入ると禁止されるようになり,ほぼ明治30年(1897)ころにはなくなった。柘榴口が撤去されたかわりに出てきたのがペンキによる風景などの壁画で,1912年が最初という。
外観に大きな変化があるのは東京では関東大震災後で,このころから昭和10年代にかけてしだいに唐破風,千鳥破風を用い,入母屋の妻に木連格子(きつれごうし)に懸魚(げぎよ)や凝った彫物をつけたりした書院造風,または城郭建築風の建物が現れるようになった。宮造りとか御殿造りとかいうが,柘榴口の装飾モティーフが外に出てきたものともいえよう。しかし,これは東京だけで,地方ではあまり見られない。これがさらに1950年の建築基準法で外壁白壁造りとなった。しかし昭和40年代半ばを過ぎると,内風呂の普及,都市生活の変化により銭湯そのものが減少する一方,ビル化でビルの中の一室を銭湯にする形が増加している。
執筆者:玉井 哲雄
近世初期,江戸では丹前(たんぜん)風呂の名が喧伝され,〈丹前風〉と呼ぶ風俗を生み出した。この銭湯は,現在の神田須田町付近,堀丹後守の邸前にあった何軒かの湯女(ゆな)風呂で,丹後殿前を略して〈丹前〉と呼んだ。容色のすぐれた湯女をかかえて,浴客の垢をかき,髪を洗い,酒席にはべるなどさせて人気を集め,1629年(寛永6)吉原の夜間営業が禁止されたこともあって繁昌した。とくに,津の国屋の勝山という湯女が男装したことにはじまり,町奴,旗本奴などの〈かぶき者〉の間に伊達(だて)で異様な服装や動作が流行した。これがいうところの〈丹前風〉で,厚く綿を入れた広袖のどてら(丹前)や歌舞伎の六法の演技などにいまもその面影をとどめている。湯女風呂は風紀上の理由で1657年(明暦3)に禁止され,以後江戸の銭湯はそれぞれの町内の共同入浴施設といった性格をもつようになった。そして,狭い地域内の人々がたえず顔を合わせるところから,銭湯は町の住人たちの社交場としての役割を果たすようになった。式亭三馬の《浮世風呂》など銭湯を舞台とする小説が書かれたゆえんである。5月5日の菖蒲湯(しようぶゆ),冬至の柚子湯(ゆずゆ)などはいまも行われているが,明治以前は盆と正月の藪入り(やぶいり)の日にはその日の売上げを三助の収入とする〈貰湯(もらいゆ)〉も行われていた。なお,これは江戸にかぎらず船の出入りの多い港ではどこでも見られたものだが,一種の移動式銭湯とでもいうべき〈江戸湯船(えどゆぶね)〉,あるいは単に〈湯船〉と呼ぶものがあった。小舟の中に浴室を設け,停泊中の船の間を漕ぎまわり,湯銭をとって船員たちに入浴させたものである。西鶴の《日本永代蔵》にも書かれているように,それ以前にまず〈行水船〉というのがあり,それを改良して据風呂(すえふろ)を置いた〈据風呂船〉ができ,さらにそれが〈湯船〉になったものであろう,と山東京伝はいっている。
→風呂
執筆者:鈴木 晋一
公衆浴場はおおぜいの人間が集合するところであり,衛生上の危害が生じるおそれがあるため,公衆衛生の見地から公衆浴場法(1948公布)による規制が加えられている。この法律で公衆浴場とは温湯・温泉などを使用して公衆を入浴させる施設をいい,いわゆる銭湯やサウナ風呂がそれにあたる。公衆浴場業を営もうとする者は知事の許可を受けなければならず,設置場所や構造設備が公衆衛生上不適当な場合または設置場所が配置の適正を欠く場合には許可が与えられないこととされている(最高裁判例)。また営業者は,条例で定める換気,採光,照明,清潔など衛生および風紀に必要な措置を講じなければならず,これに反したときは知事は許可の取消しまたは営業の停止を命じることができる。さらに,営業者は伝染病にかかっている者の入浴を拒否しなければならず,また入浴者は浴槽を著しく不潔にするなどの行為をしてはならないとされている。
執筆者:晴山 一穂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
湯銭(ゆせん)をとって入浴させる湯屋のこと。江戸での銭湯の初見は、1591年(天正19)江戸・銭瓶(ぜにがめ)橋の近くで、伊勢(いせ)与市という者が初めて銭湯風呂(ぶろ)を営業し、永楽銭一文で入浴させたので、人々が珍しがって入ったという。しかし京都、大坂などではそれ以前から銭湯のごときものがあったと思われ、その起源は鎌倉時代中期ごろまでさかのぼるともいわれる。江戸の湯屋の看板は、昔は弓に矢をつがえた形のものを出したが、これは「ゆいいる」という謎(なぞ)で、「射(い)入る」と「湯に入る」をもじった洒落(しゃれ)であった。のちには紺地に「男女ゆ」あるいは「ゆ」とだけ書いた木綿(もめん)旗を出したが、京坂ではこのような看板は使わなかった。文化(ぶんか)年間(1804~18)には江戸中に銭湯が600軒余りあったといわれる。
銭湯は普通の白湯(さゆ)であって、薬湯などとの兼業は江戸にはなかった。浴槽のある室への入り口は、流し場との間に垂れ下がった仕切りの羽目板があり、いわゆるざくろ口で、浴客はその下のすきまをくぐって入る。ざくろ口は上のほうに破風(はふ)の形のものとか種々の彫り物などで飾ったものが多かった。江戸では、ざくろ口より浴槽を三、四寸高くするため、槽の中に入っていると外が見えないが、京坂では槽のほうが三、四寸低いので流し場のほうが見える。構造上、内部には湯気がこもって暖かかったので、明治になってざくろ口を廃止した当時は、頭が寒いという声もあった。
入浴には手拭(てぬぐい)と糠(ぬか)袋を持参した。婦女は洗顔などにかならず糠袋を使うが、男子は糠洗いをする者が10人に2、3人程度で、残りの者は使わなかったという。流し場から番台に続く板の間に衣服を入れる棚があり、鍵(かぎ)を用いるものもあれば、番号をあわせてあけるものもあるが、番台だけでは衣服の出し入れを監視するのはむずかしいので、板の間に別に監視人を置いたりした。俗にいう板の間稼ぎを防ぐためである。
江戸時代初期には、湯屋に湯女(ゆな)という女を置く、いわゆる湯女風呂などもあった。なかでも堀丹後守(ほりたんごのかみ)の屋敷前にあった湯女風呂は、丹後殿前を略して「丹前」風呂とよばれ、有名であった。七つ(午後4時)になると一般の入浴客を断り、昼間に客の垢(あか)を流した湯女に身支度を整えさせ、上り場(脱衣場)に屏風(びょうぶ)などを立てて座敷風にし、三味線、小唄(こうた)などとともに売春する者もあったが、これはその後風紀上の理由で禁止された。そこで湯屋は湯女のかわりに三助を使ったが、遊客用の二階が不用になったのを利用し、男客のための休息の場として湯茶の接待をしたり菓子類の販売もした。碁、将棋なども備えていたため、自然と暇な連中が集まって雑談、放談の場となり、当時の世相内容を知るかっこうの場所となった。江戸時代には、上士屋敷とか大家以外は自家内に湯殿の設備がないので、一般庶民はすべて銭湯を利用した。また、あっても主人家族のみが使用し、下男、下女、番頭、小僧などは、仕事が終わったあとに銭湯にやらされたのである。これらのため銭湯はたいへん繁盛した。また当初は男女混浴の銭湯が多く、たびたびの禁令で、入口、板の間、流し場と別々になっていった。しかし、浴槽は一つで中央を仕切っただけのものが残り、すっかり改まるまでには日時を要した。銭湯は衛生上の問題もあるので、浴槽、湯桶(ゆおけ)、流し場などを掃除し清潔を保つために、毎月の定休日を定めてある。とくに江戸時代には火災の心配も大きく、強風のときなどは焚(た)かないことになっており、そのほか公式行事の際も、万一の大火を恐れて休日とした。その日には、簡単な浴場の修理や湯桶のたがの締め直し、また晴天であれば、道に湯桶を重ねて乾かしたりした。
明治になって政府は、1869~70年(明治2~3)混浴の禁止、79年ざくろ口の廃止など禁令を出し、衛生上、風紀上の管理を強化したが、容易に改まらなかった。大正時代の初めには、壁に富士山などの風景を描いたペンキ絵が出現した。また屋根が唐破風(からはふ)造になって外観が変化したのは関東大震災後、昭和に入ってからである。江戸時代以来の銭湯は、公衆浴場として庶民の保健衛生のため、また社交場としても存続してきたが、自家風呂の普及により1970年(昭和45)ころから減少している。
[稲垣史生]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…もう一方の温湯浴の設備,建物に対しては,〈湯屋〉ないし〈湯殿〉が用いられていた。このように〈風呂〉と〈湯〉の言葉はその内容に応じてはっきりと区別され,中世の後半から近世にかけて都市で普及する〈銭湯〉でも,その施設内容により〈風呂屋〉と〈湯屋〉は区別して用いられている。以下では蒸気浴と温湯浴の両者をあわせて入浴施設の風呂として扱う。…
※「銭湯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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