デジタル大辞泉 「風呂」の意味・読み・例文・類語
ふろ【風呂】
1 入浴のための設備。また、その場所。湯による温浴のほか、蒸気浴・熱気浴がある。古くは、蒸気を室内に籠もらせた「蒸し風呂」が普通であったが、江戸時代初期に浴槽に湯をたたえた「
2 ふろや。
3 1に入ること。入浴すること。「祖父は
4 塗りおわった漆器を入れて乾かす
5
[下接語]据え風呂・
[類語]風呂場・浴室・バス・バスルーム・湯殿・蒸し風呂・浴場・内湯・内風呂・サウナ・シャワー
入浴方法には,密閉した部屋にこもらせた蒸気で蒸す〈蒸気浴〉と,湯槽(ゆぶね)にみたした温湯に入る〈温湯浴〉がある。現在日本では風呂といえば温湯浴が一般的であり,その湯槽および湯そのもの,または洗い場なども含めた部屋(浴室)ないし建物のことを風呂と呼んでいる。しかし風呂をこのような意味で用いるようになるのは,温湯浴が入浴の主流になる江戸時代後期以後の比較的新しいことであり,古代・中世から近世の前半ころまでは,風呂とは蒸気浴(蒸し風呂)のことであった。フロという語は壁に囲まれた部屋を意味するムロ(室)のなまりとの説もある。もう一方の温湯浴の設備,建物に対しては,〈湯屋〉ないし〈湯殿〉が用いられていた。このように〈風呂〉と〈湯〉の言葉はその内容に応じてはっきりと区別され,中世の後半から近世にかけて都市で普及する〈銭湯〉でも,その施設内容により〈風呂屋〉と〈湯屋〉は区別して用いられている。以下では蒸気浴と温湯浴の両者をあわせて入浴施設の風呂として扱う。
古い時代の入浴施設については明らかでないが,奈良時代以前にさかのぼる貴族の生活様式を伝承していると考えられる大嘗祭で行われる廻立殿儀式では,温湯浴による禊(みそぎ)を行っている。これは廻立殿の湯槽に別の釜屋で沸かした湯を汲んで入れる取湯式であり,当時から豪族,貴族の間では温湯浴が行われ,そのための設備も作られていたことがわかる。一方,蒸気浴の起源も古いと考えられる。天武天皇が壬申の乱の際の矢瘡を治したという伝説のある,京都八瀬の竈(かま)風呂は近世まで都名所の一つに数えられていた。これは,荒壁で人の入れる穴蔵のような竈を作り,中で青松葉,青木を焚き,灰をかき出してから塩俵や塩水をかけて湿らせた荒筵(あらむしろ)を敷き,その上に横たわって蒸気に浴するもので,医効があるとされていた。土壁や石を熱して水をかけて蒸気をたてるという類似の形式の蒸し風呂は,岩風呂,穴風呂,釜風呂,塩風呂などの名称で各地にみられ,天然の洞窟などでも簡単に蒸気浴は可能であるので,庶民の間では古くから行われていたと考えられる。奈良時代には大寺院に温室院,温室,湯屋などの名で沐浴施設が作られている。その当時の建物は残っていないが,鎌倉時代以後に再建された東大寺,法隆寺,興福寺などの〈大湯屋〉から判断すると,鉄製ないし木製の湯槽を中央に据え,釜で沸かした湯を入れて使う温湯浴式のものであったらしい。湯槽は鉄製のものは平たい釜のような形であり,木製のものは厚板を組んだ浅く細長い形のもので,《延喜式》(10世紀前半)によれば平安時代の宮中で用いられた木製の湯槽も同様の形をしている。貴族の邸宅である寝殿造には固定された浴室はなく,渡殿などを区切って湯槽を据え,湯は釜殿で沸かして運び,排水用には臨時の樋(とい)を設けている。
中世の禅宗寺院では浴室が重視され,東司(とうす)(便所)とともに七堂伽藍の一つに数えられている。この浴室は現存する遺構や《慕帰(ぼき)絵詞》(14世紀半ば)に描かれた浴室の焚き口の状態から判断すると,湯を沸かして蒸気をたて,床を簀の子(すのこ)にした密室に導く蒸し風呂形式である。時期は下るが西本願寺飛雲閣(17世紀初期)の黄鶴台に蒸し風呂の典型がみられる。この浴室部分は簀の子床で,その正面には引違い戸が入って蒸気の量を調節できるようになっており,上部には唐破風(からはふ)の飾りがついている。脇には陸湯(おかゆ)の釜と水槽が設けられている。古代・中世の寺院で風呂が重要な位置を占めるのは,ただ単に僧侶の入浴のためばかりでなく,乞食,病人,囚人などに対する施浴に用いられたからである。衛生施設の乏しい当時にあっては,寺院の風呂は病院としての現実的役割も大きかったのであり,布教活動としても重視されていた。勧進活動などに名を残した重源,叡尊,忍性ら,中世の有力な僧たちは施浴を行い,実際に浴室を建てている。都市の一般の人々を入浴させるいわば公衆浴場もこの寺院の施浴が起源であったと考えられる。このような料金を取って人々を入浴させる風呂は室町時代以前から京都,奈良などの都市に出現するが,公家たちが数人で買い切って入浴することも行われた。これはただ風呂に入るだけでなく,酒宴を催したり,淋汗(りんかん)茶の湯といって湯殿・湯槽を飾りたてて茶を飲み,酒・料理を楽しむ遊びに風呂が使われているのであり,もともと金のかかる入浴が歓楽と結びついて,ぜいたくの一つとなっていたためである。このような風呂と歓楽の関係は,近世になると風呂屋の湯女(ゆな)による酒茶の接待という形でうけつがれる。江戸の湯女は風紀を乱すということで,再三取締りの対象となり,徐々に姿を消すが,江戸時代後期の江戸の銭湯では男湯の二階で茶菓を売っており,人々の娯楽の場としての風呂は形を変えつつも残っていた。
京,大坂,江戸をはじめとした都市が発展をみせる近世には,上層の武士などの書院造の限られた邸宅には湯殿が設けられるが,中・下層の武士や一般庶民は行水ですますか,銭湯に行くことになる。このため城下町をはじめとする全国各地の都市に銭湯が普及した。都市において自家風呂を構えるには,井戸を掘る費用や燃料費がかかり,たいへんなぜいたくであった。ただ江戸時代も後半になると,温湯浴の湯槽に使える結桶(ゆいおけ)が量産されることもあって,徐々に自家風呂が普及するようになる。これを〈据(すえ)風呂〉というが,温湯浴の意味の〈水(すい)風呂〉が転訛したものであろう。その形式は江戸では,桶の下部に鉄や銅で作った筒形の焚き口と通風孔を設け,煙突を上部に出して装置し,木炭か薪を燃やして湯を沸かす〈鉄砲風呂〉と呼ばれるものが多く,後には熱効率を良くした〈子持風呂〉も考案された。関西では〈五右衛門風呂〉(名称は石川五右衛門の釜煎りの刑にちなむという)と呼ばれた〈釜風呂〉が多かった。これは土竈の上部に平らな鉄釜をとりつけ,この上に円筒形で底のない桶をのせ,釜とのつなぎ目を漆喰(しつくい)で塗り固めたものである。何でも燃料として燃やせるため経済的であった。底は鉄であるため底板は浮かせておき,入るときに沈めるが,これも熱を逃がさずに早く湯を沸かすのに有効であった。この江戸と関西の風呂の形式の違いがかなり珍しいものであったことは,《東海道中膝栗毛》(19世紀初期)で江戸っ子の弥次さん・喜多さんが五右衛門風呂で失敗する話でよく知られる。このほか江戸時代には全国各地にさまざまな風呂の形式があった。佐渡のオロケ風呂や彦根の桶風呂のように,蒸し風呂と水風呂の折衷形式の自家風呂もあった。ただし専用の浴室を設けられるようなところは,江戸時代のうちはまだごく一部であって,農家などでは農作業用の土間の片隅に,間仕切りもなく桶を置いただけの簡単な場合が多かった。浴室が一般住宅に普及するのはやはり近代に入ってからのことであり,庶民住居にまで広く普及するのは昭和30年代以降である。
執筆者:玉井 哲雄
江戸前期までは,銭湯などで入浴の際には下帯,腰巻をするのが習慣で,別に持参した下帯,腰巻とつけ替えて入浴し,下盥(しもだらい)で洗って持ち帰った。この下帯を〈ふろふんどし〉,腰巻あるいは身に巻きつける布を〈湯文字(ゆもじ)〉〈湯巻〉といった。また,ぬれたものを包むため,あるいは風呂で敷いて身じまいをするための布を風呂敷といい,その名称は今日も残っている。元禄期(1688-1704)前後からこの風習も乱れたというが,下盥は天保期(1830-44)ころまで使われていた。ゆかた(浴衣)は,ゆかたびら(湯帷子)の略といわれ,朝廷では新嘗祭,大嘗祭などの神事に,天皇が湯あみする際に着用するゆかたびらを〈天羽衣(あまのはごろも)〉と呼んでいた。徳川将軍家では,浴後身体をぬぐうのにゆかたを幾度も着替えて,手拭を用いなかったという。
銭湯では,江戸後期まで男女混浴が行われ,石榴口(ざくろぐち)内部は灯火もなく,男女湯槽の仕切板も不完全なため,風紀を乱すこともしばしばあったという。寛政改革(1787-93)では混浴の禁止が命ぜられているが,隅ずみの銭湯まではなかなか行き届かなかったようである。
また村落生活においては,風呂をめぐって別趣の習俗があった。各家に据風呂は備えてあっても,毎日のように風呂を焚くことはほとんどなく,近隣・縁故者がたがいに呼び呼ばれして利用する慣習があった。これを〈呼び風呂〉といった。一種の共同風呂で,そこで村風の社交の場が形成された。この形は村組単位の共同風呂(モアイ風呂)とさして変わりがなかった。また年中行事や祭と入浴の関連も深く,こうした〈物日〉にはかならず風呂をたてる習わしも一般的である。五月節句の菖蒲湯(しようぶゆ),冬至の柚湯(ゆずゆ),土用丑の日の入浴(丑湯(うしゆ))など,特定の日に薬湯に浴することも注目される。民間療法としての薬湯には多種類の草根木皮が用いられる。風呂水はまた肥料にも利用され,沸かしかえしや,セッケンを嫌うことも肥料としての用途を考えてのことであった。
→銭湯
執筆者:上田 敬二
ギリシア伝説に,シチリアのコカロスKōkalos王の下に逃れたダイダロスを探し求めて来たミノス王を,風呂場で殺す話がある。ギリシア世界にもクラシック(古典)時代以前から浴室があったことを推定させるが,最古の考古史料は前5世紀からである。例えば,オリュンピアで発見された浴場は,矩形の部屋に11個のテラコッタ製浴槽が並び,貯湯槽から容器によって給湯したことが判明している。前348年破壊されたオリュントスの住居跡からも浴室が発見されており,ヘレニズム時代のデロス,ゲラGela(シチリア島)にも浴場施設があった。
浴場が一般化し市民のあいだでその重要性が増すのは,前2世紀のイタリア半島においてである。特にポンペイのスタビアStabia浴場は,ローマ帝政期に入ってから発達する公共浴場(テルマエthermae)の原型として有名。また,ポンペイの富裕市民は,住宅内に数室から成る浴場を有しており,後の別荘住宅(ウィラ)にもその伝統は継承される。ローマの公共浴場が大きく発達したのは,ネロの時代から都市ローマの整備計画が進み,数階建ての集合住宅に浴室を設置することが出火防止のため,禁止されたことによる。浴室を持たない一般ローマ市民は,皇帝が建設した公共浴場(皇帝浴場)を利用するようになる。このため規模も大きくなり,熱浴室(カルダリウムcaldarium),微温浴室(テピダリウムtepidarium),冷浴室(フリギダリウムfrigidarium),更衣室,プールなどを並置するようになる。〈ネロの浴場〉〈ティトゥスの浴場〉〈トラヤヌスの浴場〉などのほか,皇帝浴場の代表例としては現在も保存状態の良い〈カラカラの浴場〉と〈ディオクレティアヌスの浴場〉などがある。ローマ人がいかに浴場を好んだかは,北アフリカのローマ都市タムガディThamugadi(人口約8000)で14の公共浴場が発見されていることや,シリアのドゥラ・ユーロポスやブリタニア辺境のローマ軍駐屯地でも浴場施設が確認されていることからわかる。
執筆者:青柳 正規
古代初期においては,宗教上の重要な儀式の前の〈身をきよめるための入浴〉ということが,重要な要素を占めていたように思われる。古代ギリシアのポリス社会の初期には,アテナイでもスパルタでも温水浴は懶惰なこととみなされていた。しかしやがてはこれらのポリスにも有料の公衆浴場が発生し,古代ローマでおおいに発展した。中世のヨーロッパで公衆浴場の存在が知られるのは12世紀からであり,都市でも農村でも入浴の習慣は一般化した。人々は共同浴場に集まり,当時普及した刺絡(しらく)や瀉血(しやけつ)などの治療を受けたり,薬湯を使うこともでき,保養所のような性格ももっていたという。手工業者や都市の吏員が給与のほかに〈湯銭〉を支給されたり,貧民には喜捨としてそれが与えられたという事実は,入浴が人々にいかに愛好されていたかを示すものである。共同浴場は領主や都市共同体が封として浴場主に授与し,浴場主がその経営の責任を負う場合が多かった。そこでは暴力が禁じられ,犯罪者も追及を免れるという,特別の領域であったという。15~16世紀から,こうした共同浴場は衰退する。ドイツでは特に農民戦争での農民の敗北が影響していた。パリでも1292年に26あった公衆浴場がルイ14世治下には2浴場に減少している。19世紀になっても入浴の習慣は復活しなかった。特に大都市では人口の増大に水の供給が追いつかず,公衆浴場におもむくのは少数のブルジョア層だけで,パリなどの都市でも自宅に浴室を備える者はなかった。
サウナはフィンランド特有の,蒸気浴兼熱気浴の風呂で,農家や別荘にある。木造小屋の中で,石を熱して高温を保ち,時に水をかけて蒸気を浴びる。
執筆者:喜安 朗
アラブ圏にみられる共同浴場は,トルコ人がビザンティン帝国領を占領し,ローマ風の共同浴場の制度を保存しつつ,これに古代からオリエントで発達してきた様式を加味融合させたものである。ハンマームḥammāmと呼ばれ,カイロの下町やダマスクスに細々ながら今でも残っている。内部の構造は入口を入るとマスラハと呼ばれる脱衣所兼用の広間があり,番台にはムアッリム(親方)がいて応対し,茶,タバコの接待がある。現在では斜陽のきわみにあるとはいえ,個室は広間の二階にもあり,大理石を敷きつめた造りは往時をしのばせるものがある。マフザムという下帯または腰巻を受け取り,木のサンダルをはいて奥に入ると,ハラーラという蒸し風呂式部屋がある。湯客は普通浴槽から立ち上る湯気で発汗させ,垢(あか)を取る。男湯ではムカイイスと呼ばれる男性が,体毛を剃ったり,マッサージをしてくれる。女湯ではラッバーナと呼ばれる女性がその仕事に当たる。昔は花嫁は初夜に臨む前の晩に風呂屋の一室を借り切って身づくろいをし,ハンマームにはこのような晴れがましい役目があったが,今は家庭風呂に駆逐されて,うらぶれた観はぬぐい難い。カイロには現在二十数軒の風呂屋が残っているが,風呂屋は午後から朝にかけて開いているため,風呂屋の釜の火はエジプト市民の朝食であるフール・ムダンメス(ソラマメを煮たもの)を夜通し煮込むのに使われ,また貧しい労働者らが宿代りに使ったりしている。
往時はどの街区(ハーラ)にもモスク,クッターブ(寺子屋式学校),スーク(市)と並んでハンマームがあり,金曜日の朝はお祈りの前に朝風呂に入る男たちで賑わった。女性隔離下の社会にあって,風呂屋は女性にとって楽しいくつろぎの場で,お菓子や果物持参で風呂に行き,母親たちは息子の嫁を風呂屋で物色していたという。農村部ではナイル川の水で沐浴する姿がよく見られるが,ターサという真鍮(しんちゆう)の行水用たらいは嫁入道具の一つである。
→温泉
執筆者:奴田原 睦明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
「ふろ」の語源は室(むろ)から転じたものといわれ、窟(いわや)または岩室の意味である。石風呂(いわぶろ)(または岩風呂)というものが、瀬戸内海沿岸あたりからしだいに発達して周辺に広がっていった。海浜の岩窟(がんくつ)などを利用した熱気浴、蒸し風呂の類(たぐい)である。また自然の岩穴でなく、石を土などで築き固めた半球形のものもある。これらの穴の中で、雑木の生枝、枯れ枝などをしばらく焚(た)くと、床石や周辺の壁が熱せられ、そこに海藻などを持ち込み、適当な温度になったところで中の灰をかき出すか、または灰をならして、塩水に浸した莚(むしろ)を敷き、その上に横臥(おうが)して入口をふさぐ。暖まると外に出て休養し、また穴の中に入るということを何回か繰り返す。雑木の枝などを燃やすことによって、植物に含まれる精油その他種々の成分が穴の中にこもり、また海藻を持ち込むことは、水蒸気の中に塩分とかヨード分が含まれることになるので、往古の人にとって保健療治の効果は大なるものがあったに違いなく、自然に獲得した知恵としては驚嘆に値する。瀬戸内海沿岸および島などに弘法大師(こうぼうだいし)の広めたと伝える石風呂遺跡の多い理由も、これらのことから理解しやすい。
沿岸各地にみられる石風呂に対し、内陸には釜(かま)風呂とよぶものがある。代表的なものは京都府八瀬(やせ)の竈(かま)風呂で、この始源はきわめて古い。その構造は、内側の直径、高さともに約2メートル、厚さ約60センチメートルの荒壁造りのまんじゅう形で、壁の下方に約60センチメートル平方の穴をあけ、これが出入口であり、焚口(たきぐち)でもある。内部の床には石を敷き、外の土間と同一平面にある。山野の生枝を竈内で燃やし、灰をかき出してから塩俵(しおだわら)または塩水でぬらした荒莚を敷く。塩俵からあがった水蒸気が竈内の煙を焚口から追い出すのを待って竈内に入り、入口を閉じ木枕(きまくら)をして横臥する。焚き終わってから2~3時間後が湿熱のいちばんよいころとされ、竈内の温度が下がったと思えば、あらかじめ持ち込んだ生枝で天井を払うようにすると、温度はふたたび上がる。20~30分ほどで発汗すると外に出て、隣接の「五右衛門(ごえもん)風呂」に入り汗を流す。基本的にはこのような構造、加熱方法であるが、材質として荒壁と石積みの違い、燃料として生枝と枯れ枝の違い、燃料の焚き方のくふうの差などで、所により種々の竈風呂、石風呂があった。江戸にもこの八瀬の竈風呂を模した塩風呂というものがあり、奇を好む遊客を集めた。
古来、日本人が神を礼拝、祈願する場合には、沐浴(もくよく)して心身を清める風習がある。この禊(みそぎ)の慣習は、宮中などにおける御湯殿(おゆどの)の儀というような儀礼的な行事の一つとなった。また仏教の伝来とともに、浴仏の行事、衆僧の洗浴などの目的で寺院に温浴の設備がつくられた。その後、寺院参詣(さんけい)の大衆も僧尼に倣い、潔斎とか保健のため温浴の希望の者も多く、衆生済度(しゅじょうさいど)の目的にもかなうため大衆専用の温浴設備を設けたのが大湯屋である。光明(こうみょう)皇后の奈良・法華寺浴堂における施浴の所伝は、ことに有名である。こういう施浴が、入浴というものの心身に与える爽快(そうかい)さを衆人に知らしめて、しだいに入浴習慣を身につけていったものであろう。諸大寺の温堂の風呂は、しだいに上流公家(くげ)、武将らの住居、別荘などに模倣し取り入れられ、保健衛生面のほかに遊楽的なものとなっていった。今日に残る代表例として、京都・西本願寺に移築された飛雲閣の黄鶴台(おうかくだい)がある。飛雲閣は、聚楽第(じゅらくだい)のなかに豊臣(とよとみ)秀吉の邸(やしき)としてつくられたものという。中の浴場は板敷きで、ほぼ中央に流し溝があり、浴場の西南隅に破風(はふ)造りの蒸気浴室があって、床から約45センチメートルの高さの所に引違い戸があり出入りできる。内部は簀子(すのこ)板敷きで、その下の釜から水蒸気があがる蒸し風呂である。浴室の外に陸湯(おかゆ)と水槽がある。身体を暖め発汗して垢(あか)を浮かせ、湯や水を浴びて洗い流す方式である。このほかに湯槽をつくって湯を移し入れ、湯槽の中に身体を浸すという入浴方式がある。蒸し風呂と洗い湯の両種であるが、しだいに両者は混同されて、ともに湯屋、風呂屋とよばれるようになった。
庶民の家屋が密集し都市も発展してくると、町湯というものができてくる。この営業用の町湯がいつごろから出現したかはつまびらかではない。しかし平安時代から鎌倉時代にかけてはすでにあったものと思われる。江戸の銭湯の初めは、徳川家康入府の翌年、1591年(天正19)銭瓶(ぜにがめ)橋のほとりに伊勢(いせ)与市が建てたものという。幕藩体制のもとで、江戸には参勤交代の諸大名の家臣、商工業に従事する町人たちが増加し、それを相手とする湯女(ゆな)風呂などができて、だんだん増加していった。湯女を置いて、昼間は浴客の垢を掻(か)き、髪をすき、湯茶の接待をした。また夜になると上がり場に屏風(びょうぶ)をしつらえて座敷構えにつくり、酒色の相手をした。しかし幕府は風紀上の問題から湯女風呂をとりつぶしたので、湯屋は自粛して男の三助にかえた。当時は一般に、自家に入浴設備をもつことは特別な富家でもなければ考えられず、下級武士や庶民は銭湯を利用した。銭湯もいろいろサービスしたので繁盛し、明治に至ったのである。
[稲垣史生]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
壁で囲まれた部屋を表すムロ(室)に由来する語という。日本の風呂は,古くは発汗を目的とする医療施設で寺院などに付設され,蒸気浴を主とする蒸風呂であった。これを石風呂・竈風呂(かまぶろ)などとよび,湯を使う風呂は湯屋とよばれた。湯屋は,別に沸かした湯を湯槽(ゆぶね)にいれて使うもので,膝くらいまでの湯をいれ蓋をかぶせて入る,半蒸半浴式の風呂もあった。江戸中期以降になって現在の据風呂(すえぶろ)の形式が普及した。農家の風呂は,残り湯を堆肥用に使うため,厩(うまや)や便所の近くに作られた。各家庭に風呂が作られるようになるのは近年のことで,貰い風呂やモヤイ風呂などの習俗が広くみられた。端午(たんご)の節供の菖蒲湯(しょうぶゆ)や冬至(とうじ)の柚湯(ゆずゆ)の習俗は,現在も広く行われる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報
…そこで牛馬の力を利用する犂を中国から来たという意味で〈唐犂(からすき)〉といい,手と足で,ことに刃床部の肩に足をかけて土に押し込む鋤を〈踏鋤(ふみすき)〉,なまって〈ふんずき〉と呼んで区別することもある。西洋のシャベルも鋤の一種であるが,日本の在来型は鍬の刃床部と同じように,風呂と呼ばれる木製のブロックに鉄を鍛造してつくった刃先をはめこんだものである。鋤の使用は古く,稲作の伝来からまもなくと考えられるが,これは刃先も木製であった。…
※「風呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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