日本大百科全書(ニッポニカ) 「風呂」の意味・わかりやすい解説
風呂
ふろ
「ふろ」の語源は室(むろ)から転じたものといわれ、窟(いわや)または岩室の意味である。石風呂(いわぶろ)(または岩風呂)というものが、瀬戸内海沿岸あたりからしだいに発達して周辺に広がっていった。海浜の岩窟(がんくつ)などを利用した熱気浴、蒸し風呂の類(たぐい)である。また自然の岩穴でなく、石を土などで築き固めた半球形のものもある。これらの穴の中で、雑木の生枝、枯れ枝などをしばらく焚(た)くと、床石や周辺の壁が熱せられ、そこに海藻などを持ち込み、適当な温度になったところで中の灰をかき出すか、または灰をならして、塩水に浸した莚(むしろ)を敷き、その上に横臥(おうが)して入口をふさぐ。暖まると外に出て休養し、また穴の中に入るということを何回か繰り返す。雑木の枝などを燃やすことによって、植物に含まれる精油その他種々の成分が穴の中にこもり、また海藻を持ち込むことは、水蒸気の中に塩分とかヨード分が含まれることになるので、往古の人にとって保健療治の効果は大なるものがあったに違いなく、自然に獲得した知恵としては驚嘆に値する。瀬戸内海沿岸および島などに弘法大師(こうぼうだいし)の広めたと伝える石風呂遺跡の多い理由も、これらのことから理解しやすい。
沿岸各地にみられる石風呂に対し、内陸には釜(かま)風呂とよぶものがある。代表的なものは京都府八瀬(やせ)の竈(かま)風呂で、この始源はきわめて古い。その構造は、内側の直径、高さともに約2メートル、厚さ約60センチメートルの荒壁造りのまんじゅう形で、壁の下方に約60センチメートル平方の穴をあけ、これが出入口であり、焚口(たきぐち)でもある。内部の床には石を敷き、外の土間と同一平面にある。山野の生枝を竈内で燃やし、灰をかき出してから塩俵(しおだわら)または塩水でぬらした荒莚を敷く。塩俵からあがった水蒸気が竈内の煙を焚口から追い出すのを待って竈内に入り、入口を閉じ木枕(きまくら)をして横臥する。焚き終わってから2~3時間後が湿熱のいちばんよいころとされ、竈内の温度が下がったと思えば、あらかじめ持ち込んだ生枝で天井を払うようにすると、温度はふたたび上がる。20~30分ほどで発汗すると外に出て、隣接の「五右衛門(ごえもん)風呂」に入り汗を流す。基本的にはこのような構造、加熱方法であるが、材質として荒壁と石積みの違い、燃料として生枝と枯れ枝の違い、燃料の焚き方のくふうの差などで、所により種々の竈風呂、石風呂があった。江戸にもこの八瀬の竈風呂を模した塩風呂というものがあり、奇を好む遊客を集めた。
古来、日本人が神を礼拝、祈願する場合には、沐浴(もくよく)して心身を清める風習がある。この禊(みそぎ)の慣習は、宮中などにおける御湯殿(おゆどの)の儀というような儀礼的な行事の一つとなった。また仏教の伝来とともに、浴仏の行事、衆僧の洗浴などの目的で寺院に温浴の設備がつくられた。その後、寺院参詣(さんけい)の大衆も僧尼に倣い、潔斎とか保健のため温浴の希望の者も多く、衆生済度(しゅじょうさいど)の目的にもかなうため大衆専用の温浴設備を設けたのが大湯屋である。光明(こうみょう)皇后の奈良・法華寺浴堂における施浴の所伝は、ことに有名である。こういう施浴が、入浴というものの心身に与える爽快(そうかい)さを衆人に知らしめて、しだいに入浴習慣を身につけていったものであろう。諸大寺の温堂の風呂は、しだいに上流公家(くげ)、武将らの住居、別荘などに模倣し取り入れられ、保健衛生面のほかに遊楽的なものとなっていった。今日に残る代表例として、京都・西本願寺に移築された飛雲閣の黄鶴台(おうかくだい)がある。飛雲閣は、聚楽第(じゅらくだい)のなかに豊臣(とよとみ)秀吉の邸(やしき)としてつくられたものという。中の浴場は板敷きで、ほぼ中央に流し溝があり、浴場の西南隅に破風(はふ)造りの蒸気浴室があって、床から約45センチメートルの高さの所に引違い戸があり出入りできる。内部は簀子(すのこ)板敷きで、その下の釜から水蒸気があがる蒸し風呂である。浴室の外に陸湯(おかゆ)と水槽がある。身体を暖め発汗して垢(あか)を浮かせ、湯や水を浴びて洗い流す方式である。このほかに湯槽をつくって湯を移し入れ、湯槽の中に身体を浸すという入浴方式がある。蒸し風呂と洗い湯の両種であるが、しだいに両者は混同されて、ともに湯屋、風呂屋とよばれるようになった。
庶民の家屋が密集し都市も発展してくると、町湯というものができてくる。この営業用の町湯がいつごろから出現したかはつまびらかではない。しかし平安時代から鎌倉時代にかけてはすでにあったものと思われる。江戸の銭湯の初めは、徳川家康入府の翌年、1591年(天正19)銭瓶(ぜにがめ)橋のほとりに伊勢(いせ)与市が建てたものという。幕藩体制のもとで、江戸には参勤交代の諸大名の家臣、商工業に従事する町人たちが増加し、それを相手とする湯女(ゆな)風呂などができて、だんだん増加していった。湯女を置いて、昼間は浴客の垢を掻(か)き、髪をすき、湯茶の接待をした。また夜になると上がり場に屏風(びょうぶ)をしつらえて座敷構えにつくり、酒色の相手をした。しかし幕府は風紀上の問題から湯女風呂をとりつぶしたので、湯屋は自粛して男の三助にかえた。当時は一般に、自家に入浴設備をもつことは特別な富家でもなければ考えられず、下級武士や庶民は銭湯を利用した。銭湯もいろいろサービスしたので繁盛し、明治に至ったのである。
[稲垣史生]