いけばな

改訂新版 世界大百科事典 「いけばな」の意味・わかりやすい解説

いけばな

自然の植物を対象素材として,〈挿す〉〈立てる〉〈生ける〉などの作業によって器とともに組みたてられ,日本人の生活空間に自然と人間とをつなぐきずなとして成立し,発展をつづけてきた伝統芸術。花道と総称されたこともあったが,現在では〈いけばな〉の呼称が一般化され,国際的にもイケバナで通用している。

植物としての花の生命力に神の存在を見ようとする素朴なアニミズムを基盤として,民俗学の資料などに見る依代(よりしろ)としての花が,まず日本人と植物とのあいだに成立する。常緑のサカキや後世のマツの依代,また春の山入り行事に手折られた花木などはその例証といえよう。これに対して中国から伝来した仏教は,供花(くげ)という荘厳(しようごん)(かざり)を日本人に伝えた。依代は立てた枝そのものに神のよりますものであり,神そのものであるのに対して,供花は供える飾りとしての花であった。この原日本的な依代的樹枝への神聖観と,供花的な花の宗教的装飾性とが習合して,時代とともに独特のいけばなという世界をつくりあげていったとみるべきであろう。挿した花が観賞されたのは,《枕草子》に〈勾欄のもとに,青きかめの大なる据ゑて,桜のいみじくおもしろき枝の五尺ばかりなるを,いとおほくさしたる〉とある記載が有名であるが,このように宗教的な供花荘厳ではなく,瓶に挿した花が観賞されたはじめは,室内においてより,勾欄や縁においての室外であったようである。《古今著聞集》の伝える平安期の菊合せや前栽(せんざい)合せなどのようすは,庭前においてこれを縁から観賞したもので,ことにこの花を寄せ植えにしたような前栽は,後世の草体(そうたい)のいけばなの源流と見ることもできる。鎌倉期になると室内において挿した花が観賞された記録も多くなり,藤原定家の《明月記》などには花瓶に種々の花を立てて,花合せを行ったことが記されており,また室町初期1380年(康暦2)の《迎陽記》には当時舶載された珍しい器に花が立てられ,花合せの行われたようすが伝えられている。この花合せは仏教的行事としての七夕法楽(しつせきほうらく)として行われたことが多い。それはまた美しい草花の多い時期ともかかわりあいがある。供花を立てる花瓶は水瓶(すいびよう)形で,器ののどの部分が細く口がややひろがっているため,挿した形は花が直立するようになり,器ののどの細い部分につめものをして花を安定させる留め方がしだいにくふうされてきたものであろう。室町末期に成立した〈立花(たてはな)〉が,中心となる枝が直立する形を正式な形としたのは,供花のなかでも水瓶形の器に挿して供える花の形をその源流としているからでもある。夏の季節をのぞいて,中心になるものは樹の枝で直立し,それに他の花材がそえられてゆく初期の立花は,飾る花とはいいながら聖性をもった一瓶の花とみなされていて,中国の挿花とはちがって依代的な花への神聖観のうかがえるのは特徴といえよう。

座敷飾の花として立花が成立したのは,室町中末期のことであって,立花の専門家が登場して将軍邸や禁裏において花を立てはじめ,それに従って法式がしだいに定められるようになった。《蔭涼軒日録》に見るように,立阿弥や台阿弥といった人々,また《碧山日録》に記される連歌師としても著名な池坊専慶,《言国卿(ときくにきよう)記》における山科家の雑掌,大沢久守などは,依頼を受けて花を立てた専門家の代表であるとみてよい。室町期の立花の様相を伝える仙伝抄》に谷川流と記載のあるのは,公家邸において花を立てた谷川入道某の伝であろうし,これらの人々の活躍によって草創期のいけばなは,立花という法式を備えたいけばなを出現させる。このような立花成立への試行期には,立花よりもより自由な景観描写的ないけばなも存在していたようで,現在最も古い花書ではないかと考えられる《花王以来の花伝書》には,〈岸くづれの花〉や室外の縁に置いたいけばなが見られ,前栽との関連が注目される。

 日本のいけばなが明確な理念をもって歴史の上に登場するのは,《池坊専応口伝》によってである。〈瓶に花をさす事いにしへよりあるとはきゝ侍れど,それはうつくしき花をのみ賞して,草木の風興をもわきまへず,只さし生たる計なり〉として〈この一流は野山水辺おのづからなる姿を居上にあらはし〉,さらに〈たゞ小水尺樹をもつて江山数程の勝槩(しようがい)をあらはし〉と述べている。これはいけばなとは何かを明らかにし,〈この一流〉という専応の主張を述べることによって,はじめていけばなの存在を世に問うたものだとみてよい。

室町期の〈たてはな(立花)〉は安土桃山期から江戸初期にかけて,後に〈りっか(立花)〉と音読みにされるいけばなを完成させる。座敷飾の花であった立花は,その初期に宗教的色彩の強いものであったが,しだいにその宗教性を薄めて一瓶の立花として観賞される芸術作品へと発展した。池坊専応の道統を継承した専栄や専好などの六角堂池坊の代々の執行たちは,禁裏や柳営に招かれ花を立て豪壮で華麗な安土桃山期の文化様相のなかで立花を大型化させ,座敷飾の一部としての立花を独立した立花(りつか)と呼ぶ芸術作品に昇華させていった。初期立花が土拍子口(とひようしぐち)という中国舶載の花觚(かこ)をその真の花瓶と定めていたのに対して,花瓶も国内製の大型の立花瓶が生産されるようになった。それまでのいけばな器の大半が,他の用を持つものの転用であったのに比べ,花のための器の生産が行われるようになる。初期の立花が花瓶も小型で1mに足らぬものであったものが,江戸初期には2mに近い大きさのものとなる。立花(りつか)を大成させたのは2世専好で,ことに寛永期(1624-44)には後水尾天皇の庇護を受け,立花を特に愛し,その心得もあった天皇によって,しばしば立花の会が催された。享保期(1716-36)の近衛予楽院(家煕)の《槐記(かいき)》によれば,〈凡そ立花の中興は専好に止まりたり 専好を名人とす〉とあり,また後水尾天皇の立花の会については,〈紫宸殿より庭上南門まで,双方に仮屋を打ちて出家町人にかぎらず,其事に秀たる者は皆立花させて双(なら)べられたり〉とあって,その壮観がしのばれる。立花の初期には構成する役枝(やくえだ)も少なかったが,この時代には七つの役枝が定まり,後の九つの道具による定型化が始められる。

 専好の後の門弟たちは,寛永期から元禄期(1688-1704)にいたる社会経済の発展期のなかで,それぞれ個性ある立花を制作して活躍した。この立花を受容したのは富裕な町人たちで,とくに京・大坂の分限者の子弟たちであった。立花はそれまでには禁裏,柳営を中心とする公卿衆や上流武家たちによって支持されたものであり,後水尾天皇に見るごとく,公家文化の一つともみなされていた。したがって元禄期の町人たちにとっては,立花を習うことは公家文化の一つを教養として身につけたのしむことであった。元禄期の井原西鶴が,〈立花は宮,御門跡がたの手業なり〉とし,近年は町人たちが立花を習い覚えて,接木の椿の枝をもぎとったり,鉢植えウメモドキをひき切り,霊地の荷葉を折ったり,神山の杉を取り寄せたりするわがままのふるまいは,〈草木心なきにしもあらず,花のうらみも深かるべし,是只一日のながめ,世のつひえなり〉と,この立花流行を批判するほどのものであった。こうした立花の盛行期には多くの立花師たちが輩出し,大住院以信,高田安立坊周玉,桑原富春軒仙渓など専好の門人たちが活躍した。出版活動としての立花の教導書の刊行や立花図の作品集的刊行も多く,十一屋太右衛門による《立花(りつか)大全》や,富春軒による《立華時勢粧(りつかいまようすがた)》をはじめ,立花愛好者たちの需要にこたえた刊本が数多く出版されている。立花は巨大化し元禄期の立花師,藤掛似水猪飼三枝による南都大仏殿の開眼供養における献花は,松一色による対瓶の大立花で,高さ12mに及ぶものであったと記録される。富春軒が草体の立花であるとした〈砂之物〉は立花の変形で,かつての前栽の流れをくむものであるが,盤に立てられた横に構成が展開されていく形式のもので,大住院の作品にはこの形式による大作が多い。

室町期に立花に対して,法式を定めず自由なかたちにいれるものとされていた〈なげいれはな〉は,安土桃山期に茶の湯のいけばな,茶花として千利休によって確かな地位が与えられた。元禄期の町人たちのあいだには,立花とともに茶の湯が流行していた。そのため,この茶花という形式を定めない自由ないけばなは,茶の湯の席だけではなく日常的な座敷の床にいけるものとして町人たちに受けいれられることになった。数寄屋造の座敷空間では,大型化した立花に代わってなげいれはなが床を飾ることとなり,抛入花として再びいけばなの主流となる傾向があらわれはじめた。元禄期から享保期へとこの傾向は強くなり,本草学や園芸の隆盛となるにしたがって,植物としての生命ある花の存在への関心が高まり,形式と技術をともなわぬ自由な抛入花が立花に代わって新しく評価されはじめる。享保期から明和・天明期(1764-89)にかけては,抛入花から生花へと日本のいけばなが変化をとげる過渡期であって,抛入花と立花の優劣論や,寛延年間(1748-51)の落帽堂暁山のごとく五常の道を説き〈義あつて花を生くればいけはななり〉などの所論を重ねて,草木の出生(しゆつしよう)を明らかにし,それに従って花を生けるこそ本義であるとする,安永・天明期(1772-89)の是心軒一露の《草木出生伝》の出現までの道をたどる。明和から安永・天明期にかけては生花の諸流派が多数の成立をみた時代で,千家流,松月堂古流,古田流,遠州流,庸軒流,源氏流,但千流,正風流,千家我流,相阿弥流,宏道流,石州流,東山流などの流派が,それぞれの主張にもとづいて生花の教導をはじめた。生花がその花形(かぎよう)を明確に定めるのは文化・文政期(1804-30)であって,陰陽五行説や地水火風空の五大を説いて花形を形成しようとした松月堂古流からはじまって,やがて天地人三才格による花形の定めが一般化し,円形の天に内接する正方形の地の図形を,さらに半切した三角形(鱗形)を求め,天枝・地枝・人枝の3本の役枝によって花形を定める,当時として最も合理的な未生斎一甫の考え方によって,生花はその花形を完成したものとみてよい。このことは幕府の倫理強化策とも相まって,生花を婦女子の修徳の習い事として庶民のあいだに浸透させることともなり,多数の社中を擁する流派が成立し組織としての家元制度の基盤が形づくられることとなった。生花の花形が定型化することを嫌った人々のなかでも文人墨客たちは,文化・文政期ころより流行した煎茶道を愛好し,中国の花書《瓶史》の影響を受けて,文人花(ぶんじんばな)を楽しみ,抛入花の中での新しい分野をつくりあげた。盛物(もりもの)とともに隠逸を愛する文人たちに支持された。曲(きよく)・節(せつ)・時(じ)という三当を重要なものとした生花流派の遠州流は,とくにその花形に曲が多く流麗で,その美しい線の構成は,幕末から明治にかけて外国に紹介され,フラワー・アレンジメントに大きな影響を与えた。

明治中期に盛花(もりばな)という新しい形式のいけばなが創案された。盛花ははじめは自然主義的なものであったものが,やがて洋花を使った色彩豊かな盛花が考案されるようになってから,洋風なテーブルの上に置くことのできるいけばなとして,大正年間にかけて非常に流行した。安達潮花はこれを当初飾花(かざりばな)とも呼んだが,当時のブルジョア層の応接間という新しい室内空間に機能するものとして発展していった。こうした新しい形式の盛花の出現に刺激されて,西川一草亭に代表される文人花の長所に注目し,形よりも理念を先行させたいけばなを目ざして山根翠堂たちによる自由花の運動がはじめられた。明治の修養主義から大正の教養主義の時代へと,いけばなの自由花もまた人間の教義としてのいけばなを問い,その確立を志した。この運動のなかから昭和初年にはより先鋭的に芸術としてのいけばな確立をめざしたのは,重森三玲,勅使河原蒼風,中山文甫たちによる〈新興いけばな宣言〉であったが,昭和10年代からの戦争突入によってこの運動も挫折してしまった。戦後の急激ないけばなの近代化は,勅使河原蒼風,中山文甫,小原豊雲たちによって展開され,使用する素材の領域を拡大して鉄や石や鳥の羽根,貝などの無機物までを含めていけばなの造形活動を行った。前衛いけばな運動と呼ばれたこの運動は,当時の前衛美術と提携して出発したものだったが,やがてその政治性を否定していけばなはその芸術的側面においてのみ運動を続けた。しかも前衛いけばなの運動は数多くの作家を生みながら,しだいに流派組織の中に組みこまれ,流派はかえって前衛運動とは背反する中央集権的組織をつくりあげていった。前近代的な家元制度は,戦後の若い女子勤労者等の参加による弟子の急激な拡大に対応して,組織の企業化が目だちはじめ,新たな流派企業組織へと変貌をとげてしまった。現代のいけばなはこのような状況のなかで,しだいにいけばなの果たす社会への機能に対して注目するとともに,改めていけばなの意味を問う傾向が強まっている。造形と生命ある植物である花という素材のあいだで,現代いけばなの新しい試行が続いている。
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百科事典マイペディア 「いけばな」の意味・わかりやすい解説

いけばな

生花,活花の字を当てる。挿花(さしばな)の一技法。花卉(かき),草木を花器にさし,自然美を表す芸術。室町初期,床の間の飾り花として発達し諸流を生む。当時はたて花,すなわち立花(りっか)が主で,江戸期に生花,総称としての花(華)道の名が起こる。大流に池坊小原流草月流未生流古流,安達式(東京)があり,仏教諸宗派の経営するものに,嵯峨流(大覚寺),御室流(仁和寺),高野真流(高野山)などがある。第2次大戦後,旧習を破る前衛いけ花も発展。→花器
→関連項目家元勅使河原宏

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世界大百科事典(旧版)内のいけばなの言及

【池坊】より

…いけばなの一流派。池坊とは,元来,京都六角堂で知られる頂法寺の坊の名であり,六角堂は室町時代には洛陽七観音の一つとして,貴賤の信仰をあつめた。…

【抛入花伝書】より

…いけばなのなかの抛入の啓蒙書。1684年(貞享1)刊。…

【フラワー・アレンジメント】より

…古くはブーケ・アートbouquet artなどと呼ばれていた。これらは日本古来のいけばなに対し〈西洋風いけばな〉として区別して扱われている。フラワー・アレンジメントでは花を対称および非対称に配置するなど幾何学的な象徴性や哲学性を重視し,さらに自由な創意に基づき花の形や色彩の組合せによって,高い装飾性が目ざされる。…

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