花をいけるのに使われる器物。花器には,花をいける目的で作られたものと,別の用途で使われたものが花をいけるためにも利用される場合とがある。花器の起りは草花の生命を保つために水をいれた器物であるが,仏前に供える供花(くげ)の瓶子(へいし)のように,仏具である場合もあった。觚(こ)(祭器)や尊(そん)(酒器),そして鼎(てい)(食器)などの日常の器物が花器に応用されることもあった。
いけばな史において花器が注目されるようになるのは,鎌倉時代の中ごろからであり,中国から胡銅や青磁の花器が輸入され,唐物(からもの)として珍重されてからである。ひきつづき室町時代にも唐物花器は尊重され,公家や僧侶,そして上流武家たちは花会(かかい)の形式をかりて花瓶合せを催し,唐物花器の優劣を競う遊びを行った。花器は贈答のための進物にも用いられ,三具足(みつぐそく)や五具足(いつぐそく)の花瓶として座敷飾の重要な道具にもなった。同じころの宮廷では,大沢久守のように,飯筒(はんとう)や馬盥(ばだらい)を花器として,立て花をたてることもあった。足利将軍の唐物中心に対して,和物の利用であった。こうした花器への関心の高まりは,いけばなについても,花と花器との調和から生まれる構成美を成立させることになり,ひいては,花器が花をいけるための器物として,明確な役割をもつことになった。《仙伝抄》にも,花と花器の取合せの心得は,すでにあらわれている。桃山時代になると,巨大な立華が,権力者の象徴として,秀吉などに喜ばれたが,これには大型の平鉢や盤が使われた。いっぽう侘茶(わびちや)を大成した千利休は,竹花入やふくべ,備前,信楽(しがらき)などの素朴な焼物の花器を,茶の湯の花器に使いはじめた。これはそれまでの花器が,人工的な焼物であったのに対し,できるだけ自然な風情をあらわす器物であった。また茶の湯にはじまる竹の花器は,17世紀の中ごろからあらわれる抛入(なげいれ)花でも,しばしば用いられた。それは抛入花の系譜が,茶の湯の花にもつながりがあったためであり,また,花器の形態が,花型と結びつくようになったためである。したがって,花器の役割も大きくなり,さらに重視されるようになった。18世紀に入って,生花(せいか)様式が誕生すると,新しく流派が生まれたが,各流派は,それぞれの主張によって,特定の花器を設け,独自にそれを使用するようになった。これには生花様式の花型が,花器に支配されることが最も強く,花器の形によって,ほとんどその花型が決定されるという事情もあった。そのため,各流派の主張を花器によって強調することができたのである。いっぽう18世紀の中ごろから,都市を中心とした花器製造の手工業が発達し,花器の多様化が進み,いろいろの花器が製造されるようになった。当時の花器は,各流派の《百瓶図》や《百華図》といわれるいけばな図譜によって,知ることができる。たとえば,青銅器,染付の磁器,青磁,舟形,竹籠,胡銅,ふくべ,竹筒,つるべ形などが,一般に広く使われた。この傾向は,明治時代になっても,あまり変わっていない。1892年の《風俗画報》10月号に載せてある花器の図では,竹製が20種,籠が7種,金属器が6種,陶磁器が13種,水盤形が3種であった。大正期から昭和期になり現代まで,花器は材質,形態,色彩などにわたって多彩となり,多様化しながら続いてきた。なかでもいけばな様式の変遷にともなって,花器の趣向がさまざまに展開してきた。たとえば立華では,真(しん)の花型には胡銅や青磁のもの,行(ぎよう)の花型ならば水盤のもの,草(そう)の花型には日用雑器や竹器,籠器が用いられた。生花では,真の花器には細口や寸胴のもの,行の花器には薄端(うすはた)や広口,草の花器には水盤や釣花器,あるいは二重切が使われた。明治以後に成立した投入や盛花でも,一定の形式に拘束されない様式でありながら,投入には細口の丈の高いものがよく,盛花には広口の平盤なものが基調であるとされている。しかし自由花がおこり,とくに造形いけばなになると,花材が植物でない異質の素材をふくむこともあって,花器はいっそう多彩に自由化するようになった。材質も,石,セッコウ,鉄,プラスチック,ゴムなどを使った創作花器や変形花器もあらわれた。こうした花器の多様な展開は,造形芸術としてのいけばなの発展に即応しながら続いてきたものである。
→いけばな
執筆者:水江 漣子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
花をいけるための器物。花を飾る風習は『万葉集』などにも例をみるが、花器に対する記載はない。『枕草子(まくらのそうし)』に、中国からの輸入品であった大型の青磁の瓶にサクラの枝を挿したことがみえている。12世紀の鳥羽僧正(とばそうじょう)の作と伝える『鳥獣人物戯画』には、猿僧正が蛙如来に供花(くげ)している図があり、瓶子(へいじ)が用いられている。14世紀初めに成立した『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』にも、瓶子に挿した花木の図がある。それよりややのちに成立した『慕帰絵詞(ぼきえことば)』にも、瓶子に花木を挿した図があり、左右に燭台(しょくだい)、香炉が置かれている。三具足(みつぐそく)とよばれる形式で、仏前供養の方式が諸事の飾りに適用されたものである。これらの瓶子はいずれも中国輸入の磁器と推定される。15世紀なかばに成立した『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』は、室町時代の将軍足利義政(あしかがよしまさ)の側近による室内装飾の記録として有名なものだが、これには花器が特記され、青磁と胡銅(こどう)に分けられている。ともに中国からの舶来品である。中国では宋(そう)代のころから室内に花を飾る風潮が盛んとなり、殷(いん)、周時代の祭器をモデルとした玉器、青銅器があり、さらに磁器製の花器が、宜窯、均窯、竜泉窯といったところで製作されていた。室町時代の末に七夕法楽(たなばたほうらく)といわれる花会(かかい)が盛んとなるや、日本における中国花器の利用が活発となった。胡銅が全盛で、ついで銀瓶、磁瓶であった。明(みん)の張謙徳の著『瓶花譜』に、春冬は銅器、秋夏は磁器を用いるとし、日本も多くこれに倣ったが、七宝(しっぽう)器、ガラス器も用いられている。
こうした中国系花器の利用の一方では、公卿雑掌(くぎょうざっしょう)の大沢久守などは、飯筒や馬盥(ばたらい)といった日常器物の転用を図り、唐物(からもの)に対する和物(わもの)の利用を考えていた。こうした系譜がやがて草庵(そうあん)風のわび茶を大成した千利休(せんのりきゅう)らによって、茶室の花の花器に、竹の筒、竹籠(たけかご)、ふくべ、備前(びぜん)や信楽(しがらき)などの素朴な焼物を花器として用いる風潮を高め、やがて生花様式を生むに至って17世紀中ごろから各種の和風花器の展開をみるようになる。いけ花が室内装飾の芸能として定着し、また江戸時代の手工業の発達とともに、諸流派の輩出に伴い各流派はその主張によって特定形式の花器を使用し始めた。なかには奇をてらったもの、装飾過剰のものも少なくないが、おおよそ、青銅器、染付花器、青磁、舟形、竹籠、鼓胴形、ふくべ、つるべ形、竹筒が一般に広く利用されている。
明治末から大正期にかけて盛り花がおこると、平鉢(ひらばち)形式の水盤の使用が盛んとなり、さらに自由花への発展はコンポート形式をはじめ、各種の変形花器を生み出すようになった。今日のいけ花では、従来の花器の独自性はむしろ希薄となり、花材も花器も一体とみなしての造形性が重んじられている。またジュラルミン、アルマイト、コンクリート、鉄、プラスチック、ベークライトなどによる創作花器の使用もまた盛んである。
どんな材質、どんな形を用いる場合でも、花と花器との調和はきわめてたいせつで、昔から花材の背丈と花器の高低は、一般には高いものには低いもの、低いものには高いものが用いられ、また強い鋭い花器には柔らかい形の花が、柔らかい花器には強い花が、さらに花器の力が弱ければ花態に空間を多くして、器をできるだけ露出するといった手法が用いられている。花器の色彩との関係も重要で、白い花瓶に白い花、赤い鉢に赤い花といった効果をねらう場合もあるが、多くは、はでな花を古備前や籠などの渋い花器にいけて強弱明暗の調和を求め、また花器の色が強すぎる場合は、花材で器の一部を隠して色量感を弱くする手法がとられる。また、ビワ、ボタンのような重厚で面の大きい花材には、金属性の銅器類を選ぶとか、秋草のような花材に対しては籠のような軽快な器を用いて瀟洒(しょうしゃ)な調和を図るといった花器の資質の選択も重要である。その意味から陶磁器は、その質、色合い、形がさまざまで、多様の使い分けができる代表的花器として広く用いられている。
[北條明直]
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