いけばなの一流派。江戸時代中期,明和年間(1764-72)に成立をした生花(せいか)の流派。現在では明和6年《瓶花群載》に花形図の載せられている,今井一志軒宗普をその祖としている。宗普の花論については不詳だが,その弟子安藤涼宇は湯島天神下に住み,大名屋敷などに出入りして古流としての流派形成の基盤をつくり,江戸市中を中心として発展させた。寛政年間(1789-1801)ごろより涼宇門下で古流中興の祖といわれた関本理遊の活躍によって関東一円から北陸にかけて流派の組織がひろがっていった。理遊は文化・文政年間(1804-30)という江戸後期文化の華やかな時代に,未生流などの花形理念形成の刺激を受け,古流の花形の規矩を明確化し出版活動とあわせ古流の声名を高めた。4世関本理恩はこの涼宇の花形理念をさらに発展させてそれを理論づけ,未生流に対して古流生花としての天地人三才格の理論化を行った。明治時代には理恩の後,分派をする傾向を生じ,ことに金沢の古流会頭近藤理清が5世家元となって,古流の中心が関東と北陸に分かれて以来その傾向はいっそう強まった。さらに大正・昭和にかけて分派した古流は東京において各会派の合同による〈花友会〉を結成した。その活動は現在〈古流協会〉によって受け継がれている。古流松藤会,古流松応会,古流松禹会などをはじめとする15会派が中心となっているが,流派名に古流の名を冠していないものもある。
→いけばな
執筆者:工藤 昌伸
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いけ花流派。江戸中期、明和(めいわ)年間(1764~72)ごろに生花様式をもって江戸に発生したいけ花流派の一つ。一般には今井一志軒宗普(そうふ)を創流者としているが、その系譜は明らかではない。門下に松応斎安藤凉宇(りょうう)(1735―1807)があり、さらに松盛斎関本理遊(1772―1849)に引き継がれ古流の名が広まった。理遊は『古流生花百瓶(ひゃくへい)之図』(1803刊)をはじめ多くの出版物を上梓(じょうし)しその普及に努め、門人は江戸、北陸をはじめ全国に及んだ。理遊の跡を理恩(1806―78)が継ぎ、今日の古流の実際上の祖とみなされる。彼は、古流の花型の特徴である水際の立ち上がりの傾斜角度を決定づけ、真、行、草の花型を確立した理遊の理論を整理し、その意味づけを施し、自らの肩書を「古流家元生花宗師」とした。理恩は明治維新後のいけ花の衰退期に際し、当時の金沢の会頭松務斎近藤理清らに後事を託し、ここに古流の中心が関東と北陸に分かれ、これを契機に流派分立の気運がおこり多くの分派を生じた。明治中期いけ花復興の気運により東京復帰が行われ、1898年(明治31)総合団体「花友会」の結成をみ、昭和になって「全国華道古流協会」の発足となり、1966年(昭和41)そのうちの一つ古流松藤(しょうとう)会が社団法人を結成、71年東京・文京区小石川に「古流アカデミー」を完成させた。現在、古流協会所属の会派は15。古流松藤会、古流華耀(かよう)会、古流松禹(しょうう)会、古流松慶会、古流松麗会、古流寿松会、古流理恩会、古流かたばみ会、古流松線会、古流花盛会、古流曙(あけぼの)会、古流松濤(しょうとう)会、古流松鳳(しょうほう)会、古流松盛会、古流松応会である。
[北條明直]
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