池坊専応(読み)イケノボウセンオウ

デジタル大辞泉 「池坊専応」の意味・読み・例文・類語

いけのぼう‐せんおう〔いけのバウ‐〕【池坊専応】

[1482~1543]戦国時代の僧・華道家。それまでの立花方法を整理し、生け花を初めて理論的に大成した。著「専応口伝」「君台観左右帳記」。

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朝日日本歴史人物事典 「池坊専応」の解説

池坊専応

生年:生没年不詳
室町末期の高才な立花の宗匠。「せんのう」ともいう。京都頂法寺(通称六角堂)中の池坊(池房)に住房した僧。得度,入院の時期,ともに不明。花の師も定かでない。立花の構成要素「七つ道具」の規範の基を定め,形は円,釣り合いは前短後長右長左短,真・副・請・正真(小真)・見越・流枝・前置などによって作られる,とした。立花の大成者は専応といっても過言ではない。宮廷女官の『御湯殿の上の日記』に「いけのはうはなたてさせらるゝ」とあり,このころ「はなたて」「たてはな」の語が用いられていたことが分かる。専応は,同朋衆文阿弥のように「当世の人の心にかなふ……すい(粋)に花たつる」技の持ち主とは異なる,天皇や高貴の「御前の花をさす」「風興」の花人であった。その著作で最も古い,大永3(1523)年本『花一道 座敷のかざり』(『池坊専応口伝』として知られる)の序文に,立花の美しさを「只,小水尺樹を以て……千変万化の佳興をもよをす,宛仙家の妙術」と述べている。嗣は池坊専栄。 池坊が家元を称するのは寛政期(1789~1801)以降のことで,40世専定のころからである。平成期の伝承者は45世池坊専永。<参考文献>村井康彦・赤井達郎『古代中世芸術論』(日本思想体系23),岡田幸三「専応の華伝書」(『万葉の庭』6号)

(岡田幸三)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「池坊専応」の意味・わかりやすい解説

池坊専応
いけのぼうせんのう
(1482―1543)

15世紀の初頭から中期にかけて活躍した池坊のいけ花名手。1525年(大永5)3月5日、青蓮院尊鎮(しょうれんいんそんちん)親王御所で花会を催したとき、池坊の立花が非常にみごとなところから、「池坊は六角堂の執行(しぎょう)で花の上手(じょうず)なり」と賞賛されたことが『二水記』にみえ、また1530年(享禄3)10月25日、池坊として初めて宮中に召されて花をいけているなど、当時の池坊活躍の中心には、つねに専応があったと考えられている。現在発見される専応の伝書は、東京国立博物館に『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』として所蔵されている大永(たいえい)3年(1523)12月付けのものを最初として、天文(てんぶん)11年(1542)11月付けの『続群書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)』に収録された『専応口伝』まで数種の伝書があるが、これは室町時代の花道書の代表的なものとして知られている。とくに冒頭の一節は、とかく技法論に終始しがちな花道書のなかで、当時のいけ花の思想的見解を述べたものとして注目される。いけ花はただ花の美しさを賞するだけのものではなく、自然の姿を現し、宇宙の理(ことわり)を示すものだという形而上(けいじじょう)学的解釈をいけ花に与えている。

[北條明直]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「池坊専応」の意味・わかりやすい解説

池坊専応
いけのぼうせんおう

[生]?
[没]天文12(1543)
室町時代後期の立て花の作家。京都,頂法寺池坊の住僧で,池坊専慶から 11代目にあたる。立て花様式の末期で第1期の整備期に活躍し,それまでにあった諸系統を結集統合して池坊生け花の発展に寄与した。禁裏でも生けるようになり,「池ノ坊御前ノ花ヲサスナレバ一瓶ナリトコレヤ学バン」と『多胡辰敬家訓』にみえる。伝書に『池坊専応口伝』 (1542) がある。作品図は残っていない。 (→池坊 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池坊専応」の解説

池坊専応 いけのぼう-せんおう

1482-1543 戦国時代の華道家。
文明14年生まれ。京都頂法寺(六角堂)の僧。立花の名手で,禁裏や青蓮院宮家へ出入りしてその支持をえる。池坊立花を体系的に構成し,天文(てんぶん)11年「池坊専応口伝(くでん)」をあらわした。天文12年死去。62歳。名は「せんのう」とも。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「池坊専応」の解説

池坊専応
いけのぼうせんのう

1482~1543

「せんおう」とも。戦国期の立花(たてはな)師。立花を造形芸術にまで高め,池坊が立花界の主流になる契機をつくった。晩年の伝書「池坊専応口伝(くでん)」は歴代に継承され,池坊華道の基本を示すものとして「大巻」の名称で現在も門弟に授けられている。

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世界大百科事典(旧版)内の池坊専応の言及

【池坊】より

…15世紀の中ごろ,8代将軍足利義政の時代には,同朋衆をはじめ多くの花の名手があらわれたが,池坊の寺僧にも巧みに花を立てるものがあった。1462年(寛正3),池坊専慶が金瓶に草花数十枝をたてたのを《碧山日録》は,〈皆その妙を嘆ずる也〉とつたえ,1525年(大永5),池坊専応は《二水記》のなかで,〈池坊六角堂執行花上手也〉と記されている。16世紀の中ごろは,いわゆる天文口伝書の時代であるが,《池坊専応口伝》や《専栄花伝書》がつたえるとおり,いろいろの立花(たてはな)の系統が池坊のなかにまとまってゆく時期であった。…

【池坊専応口伝】より

…池坊専応によるいけばなの伝書。《専応花伝書》ともいう。…

※「池坊専応」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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