いけばな流派の一つ。江戸時代文化年間(1804-18)に未生斎一甫(みしようさいいつぽ)(1761-1824)によって創流された。一甫は幕臣山村家の生れ。名は不詳だが山碩(さんせき)と号した。江戸で遠州流を学んだというがその系譜は明らかではない。また古流なども学んだようだが,のち諸国を遍歴,40歳台に但馬国の上田家に滞留し,その間に未生流を創流したといわれる。一甫は当時一般に天地人の三つの役枝によって構成していたいけばなの花形を,〈天円地方説〉にもとづいた鱗形(うろこがた)という三角形の中に収めることを考案してより合理的な理念を与えた。いけばな流派の中でも,もっとも理論的な花形の規矩をもった流派として著名。大坂においてその活動が行われ2代広甫がこれを継承し,明治時代には多くの分派を生じた。また関西地方に広く発展し,関東の古流,関西の未生流と並び称せられている。現在はその本流は肥原家によって受け継がれ肥原碩甫によって全国的な活動が行われている。未生系の分派の数はきわめて多く,未生の名を冠さない場合もある。
→いけばな
執筆者:工藤 昌伸
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いけ花流派。創流は19世紀初頭で、未生斎一甫(いっぽ)による。一甫は氏を山村、山碩(さんせき)と号し、関東に生まれ、諸国遍歴ののち大坂に住み、未生流を広めた。のち盲目となり、盲目の華道家として知られ、『本朝挿花百練』などのいけ花理論書を著した。2代目広甫(こうほ)は嵯峨(さが)御所に仕官し、法眼(ほうげん)の位を得、未生御流(おんりゅう)を開いている。現在は10代目で、家元は肥原慶甫(ひはらけいほ)。
文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)に大成した未生流は、その特徴として「虚実等分(きょじつとうぶん)」の説をあげ、草木の出生を尊重するが、あるがままの自然の姿ではなく、その奥にある自然の本体を抽出することを眼目とし、「方円の説」を用い、天地人三才格の生花(せいか)の理論づけを行った。その後、伝統ある格花(かくか)とは別に、大正時代には現代様式のいけ花を取り入れたが、8代目康甫の弟中山文甫(ぶんぽ)は、未生流の旧態に飽き足らず、未生流を離脱して、別に「未生流中山文甫会」を1954年(昭和29)創立した。この内紛は未生流にとって少なからぬ動揺をきたしたが、伝統ある未生流の地歩は崩れず、今日なお関西を中心に全国的な組織をもつ流派として、いけ花界に重きをなしている。分流派も多く、100をもって数えるほどである。
[北條明直]
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