マクダウェル(英語表記)Edward MacDowell

改訂新版 世界大百科事典 「マクダウェル」の意味・わかりやすい解説

マクダウェル
Edward MacDowell
生没年:1861-1908

アメリカの作曲家,ピアニスト,教育家。幼時からピアノを学び,1876年パリ音楽院に留学してピアノを学び,その後フランクフルトの音楽院などでピアノおよび作曲を修めた。82年ワイマールにリストを訪ね,リストの推薦によってピアノ独奏曲《第1現代組曲》(1881)と《ピアノ協奏曲第1番》(1881)がヨーロッパで出版された。ピアニストとしても活躍し,当時ヨーロッパで認められた最初のアメリカの音楽家の一人である。88年帰国し,96年コロンビア大学の初代音楽学部長に就任したが,大学当局と対立し1904年辞任した。交通事故のため晩年の3年間は廃人同様の生活を送った。作曲家としてはドイツ・ロマン派の流れを汲む音の詩人で,ピアノ曲集《森のスケッチ》(1896)の中の《野ばらに》と《水蓮に寄す》はいまも愛好されている。マリアン夫人(1857-1956)は夫の愛した避暑地ピーターバラ(ニューハンプシャー州)に〈マクダウェル・コロニー〉をつくり,いまなお音楽家や作家に開放されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マクダウェル」の意味・わかりやすい解説

マクダウェル
MacDowell, Edward (Alexander)

[生]1860.12.18. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]1908.1.23. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の作曲家。ニューヨークでピアノを学び,1876年よりパリ音楽院,1878年よりフランクフルト音楽院に留学,続いてドイツに滞在し,1888年に帰国。翌1889年自作の『ピアノ協奏曲第2番』をニューヨークで演奏し名声を博した。1896~1904年はコロンビア大学音楽部の初代学部長を務めたが,大学当局と意見が合わずに辞任し,精神的過労のため悲劇的な晩年を送った。死後住居跡に夫人によりアメリカの作家,作曲家のための夏季の芸術村が建設された。作風はヨーロッパのロマン派の伝統を継いでいるが,アメリカインディアンに取材した組曲『インディアン』 (1892) などアメリカ独自の音楽も作曲した。

マクダウェル
McDowell, Ephraim

[生]1771.11.11. バージニア,ロックブリッジ
[没]1830.6.25. ダンビル
アメリカの外科医。腹部外科の先駆者。エディンバラ大学で医学を修め,1795年アメリカに帰り,ダンビルで開業。 1809年 12月に 47歳になる J.クロフォード夫人の約 9kgもある卵巣腫瘍の摘出に成功,夫人はその後三十余年間健康に過した。さらに2人の手術を行い,17年に成績を報告したが,この手術は従来不可能とされていただけに,多くの疑惑と不信を買った。しかし,24年までに卵巣摘除術を 12例手がけ,死亡は1例のみであった。ほかにヘルニアや膀胱結石の手術でも好成績を収めている。

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百科事典マイペディア 「マクダウェル」の意味・わかりやすい解説

マクダウェル

米国の作曲家,ピアノ奏者。ニューヨークに生まれ,パリとドイツで音楽を学んだ。1882年ワイマールにF.リストを訪ね,その推薦で《ピアノ協奏曲第1番》(1881年)などがヨーロッパで出版された。ニューヨークのコロンビア大学教授などを歴任。作品はドイツ・ロマン派の流れを汲み,ピアノのためのソナタ,協奏曲,小品のほか,三つの交響詩,歌曲などがある。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「マクダウェル」の解説

マクダウェル

1860年、ニューヨーク生まれ。作曲家、ピアニスト、教師。幼少の頃から芸術的才能があり、8歳の時にピアノを習始める。1876年にパリに留学し、マルモンテルにピアノを師事、サヴァールに理論を学ぶ。187 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

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