出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
江戸中期の江戸の材木商。姓は神田氏。通称奈良茂。初代勝義の寛永年中(1624-44)から深川霊岸寺に住し,3代逢勝早世のあと,弟の4代勝豊は材木商に奉公し28歳のとき独立,日光東照宮修復工事の御用材納入を請け負って巨利を占めた。東湊町一丁目に本居を構え,地震,大火の多発に加え,元禄期(1688-1704)の寺院建立・土地造成ブームに便乗して公営工事の請負業者として,短期間に巨万の富をきずいた。同時期の紀伊国屋文左衛門とともに特権的投機商人の典型とされる。1710年(宝永7)店じまいし,隠居落髪して安休と号し,14年(正徳4)60歳ぐらいで没。5代広璘(1695-1725)は弟勝屋(安左衛門)とともに13万両余の遺産を継いだが,父安休の遺誡に背き驕奢を好み,吉原,芝居茶屋などでの豪遊ぶりが世に喧伝されたことは《江戸真砂六十帖》など,後年の文学・随筆類に記されている。菩提寺は深川霊巌寺別院雄松院。
執筆者:鶴岡 実枝子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
元禄(げんろく)時代の材木商。一代で富豪に成り上がった。略称奈良茂(ならも)。豪商紀文(きぶん)と並び称された。姓は神田、名は勝豊、剃髪(ていはつ)して安休と号す。茂左衛門は代々の通称で、勝豊は4代目。日光東照宮修築の際、材木調達を請け負い、ぬれ手に粟(あわ)の大もうけをしたという。以後、寺社を盛んに建立した徳川綱吉(つなよし)政治の時流に乗り、幕府の材木御用達(ごようたし)として巨富を積んだ。しかし将軍綱吉が没した翌年の1710年(宝永7)には材木商を廃業、安楽に暮らせる貸家業に転じた。正徳(しょうとく)4年6月13日没。法名は還到院楽誉西谷安休居士。遺産は13万2000両余で、内訳は家屋敷30か所(沽券(こけん)高4万4000両余)、現金約4万8000両、貸金4万両。莫大(ばくだい)な遺産は長男広璘と次男勝屋が遊興にふけり散財したが、紀文のように完全には没落せず、幕末まで中流の江戸町人として面目を保ち存続した。
[竹内 誠]
1655?~1714.6.13
江戸中期の江戸の材木商人。通称奈良茂(ならも)。姓は神田,諱は勝豊,安休と号す。寛永年間以来代々深川霊岸島に居住。茂左衛門勝豊は4代目にあたる。伝承によれば,勝豊は裏店住いの車力ないし小揚人足の子で,材木問屋奉公ののち独立,日光東照宮の修復用材調達請負を契機に巨利を得,一代で急成長したという。勝豊は貸金と不動産所得を柱とした家産維持を子孫に遺命したが,5代目茂左衛門広璘と弟安左衛門勝屋は遊興で膨大な遺産の多くを使いはたし,以降同家の経営は衰退した。紀文(きぶん)(紀伊国屋文左衛門)・奈良茂と併称される英雄的豪商としての伝承は,4代目の出世譚と5代目兄弟の行状をあわせて形成されたと考えられる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…江戸時代の大商家にあっては,経営基盤が親族・同族の上に拡大され,その全体の秩序を維持することが困難になった時点で,家制度を確定する家法が生み出された。元禄期(1688‐1704)の投機型商人として一代で産をきずいた奈良屋茂左衛門の1714年(正徳4)の遺言状は,死後の財産管理についての指針を示した家法の先駆的なものといえる。17世紀以降三都に呉服・両替店を設けた三井家の家法は,初代高利の1694年の遺書を祖型とし,1722年(享保7)2代高平の《宗竺遺書》によって確定したといわれ,また大坂随一の豪商鴻池家の場合も,その家法とされる23年の《家定記録覚》は経営の基礎を固めた3代宗利の作成した《先祖之規範幷家務》を集大成したものである。…
…元禄期(1688‐1704)には幕府の建築事業が多かったため,御用材の調達を請け負う大商人が出現した。紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門は代表的商人である。とくに紀文は遊里での豪遊などで著名であった。…
※「奈良屋茂左衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新