沈周(読み)シンシュウ(英語表記)Shěn Zhōu

デジタル大辞泉 「沈周」の意味・読み・例文・類語

しん‐しゅう〔‐シウ〕【沈周】

[1427~1509]中国明代の画家長州江蘇省)の人。あざなは啓南。号、石田せきでん・白石翁。低迷していた南宗画を復興し、呉派の祖となった。著「石田集」など。ちんしゅう。

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精選版 日本国語大辞典 「沈周」の意味・読み・例文・類語

しん‐しゅう ‥シウ【沈周】

(「ちんしゅう」とも) 中国、明代の文人、画家。字(あざな)は啓南。号は石田。白石翁と自称した。江蘇相城里の人。詩集に「石田詩鈔」などがあり、画は宋の董源や巨源の流れをくむ水墨山水画にすぐれ、唐寅文徴明仇英と共に明の四家と称せられる。代表作「夜坐図」「杖藜遠望図」。(一四二七‐一五〇九

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改訂新版 世界大百科事典 「沈周」の意味・わかりやすい解説

沈周 (しんしゅう)
Shěn Zhōu
生没年:1427-1509

中国,明代の文人,書画家。蘇州府長洲県(現,江蘇省呉県)相城里の人。字は啓南。号は石田,白石翁。沈石田の呼称でも知られる。沈氏は元代以来の相城里の名家で,代々官途には就かず処士として家産の経営に努めた。祖父の沈澄は学問にすぐれ文芸を好み,多くの文人と交遊し,父の沈恒,叔父の沈貞も学問,詩画をよくし,沈周の家は蘇州近郷の文化の中心的存在として繁栄した。沈周は群書を博覧し,詩文書画にすぐれたが,科挙には応ぜず生涯処士として隠逸的な文雅の生活を送った。詩は白居易,蘇軾(そしよく),陸游を,書は黄庭堅を学び,画は沈恒,沈貞のほか陳寛,杜瓊(とけい),劉珏に師事し山水,花卉(かき)雑画をよくした。とくに山水画は董源,巨然,元末四大家を師法としたが,中でも黄公望,呉鎮の影響が著しい。文人画に新境地を開き,その周囲には呉寛,李応禎,朱存理ら多くの文人が集まった。門下より以後の蘇州画壇を指導した文徴明,唐寅(とういん)などを輩出し呉派の祖として後世の画家に非常に重んじられた。代表作に《杖藜遠眺図》(ネルソン・ギャラリー),著に《石田集》がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「沈周」の意味・わかりやすい解説

沈周
ちんしゅう
(1427―1509)

中国、明(みん)代中期の文人画家、詩人。周は名。字(あざな)は啓南(けいなん)。号は石田(せきでん)、白石翁。長州(江蘇(こうそ)省蘇州(そしゅう))の人。江南の書画に精通した文人の家系に生まれる。才能に恵まれたが仕官せず、83歳の高齢で亡くなるまで、市井にあって芸術三昧(ざんまい)の生活に終始した。折り目正しい性格で、学識も深かったので石田先生と敬称され、書の祝允明(しゅくいんめい)をはじめ多くの秀才がその周辺に集まった。その門下から明末の蘇州画壇の中心となる文徴明(ぶんちょうめい)、唐寅(とういん)を出し、また文徴明から董其昌(とうきしょう)を経て盛んとなる南宗画の祖となった。沈周は広く宋元(そうげん)の名跡を模写、研究し、中年に元末の四大家の黄公望(こうこうぼう)、晩年には同じく四大家の呉鎮に傾倒したと伝える。画題は山水、人物から花卉(かき)、禽魚(きんぎょ)に及んだが、とくに山水画を得意とし、また文人墨戯としての花卉雑画もよくした。

[星山晋也]


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百科事典マイペディア 「沈周」の意味・わかりやすい解説

沈周【しんしゅう】

中国,明代の画家。江蘇省長洲の人。字は啓南,号は石田,白石翁。代々書画に巧みな家に生まれ,詩人としてもすぐれる。元末四大家に私淑,遺品からみて呉鎮の影響が特に強かったらしい。筆力の強い,濃淡のコントラストの激しい画風が特徴。門下に文徴明があり,呉派文人画の祖とみなされる。
→関連項目陳淳唐寅南宗画文徴明

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「沈周」の意味・わかりやすい解説

沈周
しんしゅう
Shen Zhou

[生]宣徳2(1427)
[没]正徳4(1509).8.2.
中国,明の文人画家。長洲 (江蘇省呉県) 相城里の人。字は啓南,号は石田,白石翁。代々書画に長じた名家に生れたが,科挙を受けずに糧長として徴税事務をとったほか,一生を在野の文人として終った。絵は水墨の花卉雑画にも巧みであったが山水画は明代随一といわれ,詩文にも長じた典型的文人画家。門下から祝允明 (しゅくいんめい) ,唐寅 (とういん) ,文徴明らの俊才が出て沈 (周) ・文 (徴明) と並称され,呉派文人画の祖となった。代表作に『 仿大癡山水図』 (上海博物館) ,『夜坐図』 (台北,故宮博物院) ,著書に『石田集』がある。

沈周
ちんしゅう

沈周」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の沈周の言及

【呉派】より

…明代前半に栄えた職業画工による浙派に対する語。沈周(しんしゆう)が元末四大家の画風を復興したことに始まり,文徴明とその周辺画家により様式的完成に導かれた。文徴明の親族や弟子たちの活動は16世紀後半に及び,呉派の全盛時代を築いた。…

【山水画】より

…いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って浙派と称され,後者は沈周(しんしゆう)を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため,呉派と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗(ほくしゆう),呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗(なんしゆう)とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る,南宗画の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。…

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