渡辺洪基(読み)わたなべこうき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「渡辺洪基」の意味・わかりやすい解説

渡辺洪基
わたなべこうき

[生]弘化4(1847).4.12. 越前武生
[没]1901.5.24. 東京
明治の官吏,東京大学総長。福井藩士の家に生れる。幼名孝一郎。漢学を学び,江戸に出て佐倉の蘭学者佐藤舜海師事。開成所,福沢諭吉塾に学び,慶応3 (1867) 年医学所出仕,明治2 (69) 年大学助教となり,1873年外務大録として外務省に入り,イタリア,オーストリア在任岩倉遣外使節には二等書記官として随行,次いで外務省大書記官として『外交志略』編纂を主宰した。 79年学習院院長,84年工部少輔,85年東京府知事を歴任,翌年3月森有礼のもとで制度を改正し東京大学の総長に任じられ,90年駐オーストリア特命全権公使となる。これより先 82年元老院議官をつとめたが,92年には衆議院議員,1900年には勅選貴族院議員となり,また政友会創立委員でもあった。

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朝日日本歴史人物事典 「渡辺洪基」の解説

渡辺洪基

没年:明治34.5.24(1901)
生年:弘化4.12.23(1848.1.28)
明治時代の官僚。越前(福井県)武生の医師渡辺静庵と妻蔦埜の長子に生まれた。2歳のとき福井で最初の種痘を父より受く。維新前,佐倉の佐藤舜海 に医学,福沢諭吉の塾(のちの慶応義塾)で洋学を学び,医を捨て政治兵学をとることを決意。戊辰戦争では旧幕府側につくが許され,明治2(1869)年政府に出仕,4年岩倉遣外使節団に随行。帰国後,外務省に勤務。11年学習院次長として学内規則を整備。13年太政官法制部主事として集会条例を起草,民権派から攻撃された。18年東京府知事,19年初代帝大総長,その後駐オーストリア公使,貴族院議員,立憲政友会創立委員などを歴任した。

(吉家定夫)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渡辺洪基」の解説

渡辺洪基 わたなべ-こうき

1848*-1901 明治時代の官僚,政治家。
弘化(こうか)4年12月23日生まれ。渡辺静庵の長男。佐藤舜海,福沢諭吉の塾でまなぶ。明治4年岩倉遣外使節団に随行。外務省,太政官につとめ,元老院議官,東京府知事,帝国大学初代総長などを歴任。25年衆議院議員,のち貴族院議員。政友会創立に参画した。明治34年5月24日死去。55歳。越前(えちぜん)(福井県)出身。

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