藤原為経(読み)ふじわらのためつね

改訂新版 世界大百科事典 「藤原為経」の意味・わかりやすい解説

藤原為経 (ふじわらのためつね)

平安末期の歌人生没年不詳。1115年(永久3)ころ生まれ,87年(文治3)には生存か。初名盛忠。法名寂超大原の三寂常磐ときわ)の三寂)の一人。為忠の子。勅撰集には《千載集》に初出。蔵人,長門守,皇后宮少進などを経て1143年(康治2)出家比叡山に登った。大原の縁忍から止観を習う。1134-35年ころの父為忠家両度百首に加わり,56-57年ころ私撰集《後葉和歌集》を編む。70年の住吉社歌合などに出席することもあったが,多くは隠遁いんとん)生活を送った。妻美福門院加賀との間に一子藤原隆信がある。〈ふるさとの宿もる月にこと問はんわれをば知るや昔住みきと〉(《新古今集》)。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原為経」の解説

藤原為経 ふじわらの-ためつね

?-? 平安時代後期の歌人。
藤原為忠の子。母は橘大夫の娘。長門守(ながとのかみ),皇后宮少進。康治(こうじ)2年(1143)出家して寂超と称し,兄為業(ためなり)(寂念),弟頼業(寂然)とともに常磐三寂(ときわのさんじゃく)とよばれた。歌は「千載和歌集」以下の勅撰集に十数首はいっている。私撰集に「後葉(ごよう)和歌集」。「今鏡」の作者ともみられている。永久(1113-18)の初年に生まれ,寿永2年(1183)前後まで生存。美福門院加賀とのあいだに1子藤原隆信がある。初名は盛忠。
格言など】久かたの月ゆゑにやは恋ひそめしながむればまづぬるるそでかな(「千載和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典 「藤原為経」の解説

藤原為経

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:永久3頃(1115)
平安時代の歌人。常盤丹後守為忠の3男。母は橘大夫(俊宗か)の娘(なつとも)。本名は盛忠。美福門院加賀(のちに藤原俊成に再嫁し,定家を生む)との間に似絵作者で歌人でもある隆信をもうけるが,康治2(1143)年官位も妻子も捨てて出家した。法名を寂超と名乗り,兄弟の為業(寂念),頼業(寂然)と共に常盤三寂(大原三寂)と呼ばれた。父為忠の主催する2度の歌合に出詠。西行とも交流があった。また『詞花集』を非難して,『後葉集』を選んだ。『今鏡』の作者ともいわれる。しみじみとした寂寥感のなかに落ち着きの感じられる作風。<参考文献>井上宗雄『増補版・平安後期歌人伝の研究』

(谷知子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原為経」の意味・わかりやすい解説

藤原為経
ふじわらのためつね

平安時代後期の歌人。丹後守為忠の子。初め盛忠といった。長門守従五位上。康治2 (1143) 年出家し,法名,寂超。兄為業 (ためなり。寂念) ,頼業 (寂然) とともに大原に住み,あわせて常磐三寂 (ときわのさんじゃく) ,また大原三寂と呼ばれた。『後葉 (ごよう) 和歌集』の撰者。歌風は『歌仙落書』に「さびたるさま」と評されている。『今鏡』の作者に擬せられる。画家の藤原隆信は,妻美福門院加賀との間に生れた子。

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