一般的に文献をあつかう学問をいい,書誌学とテキスト・クリティックを主とするもの,あるいは,中国でいう〈目録学〉の同意語として使用されることもあるが,厳密には,ドイツの古典学者A.ベックの《文献学の総覧と方法論》(1877)にいう〈人間精神によって生産されたもの,すなわち認識されたものを認識すること〉とすべきである。ドイツ語のPhilologieは,ギリシア語philologia(学問好き)から出るが,それがしだいにことばの学問(博言学)に限定され,英語のphilologyはその意味で使用される。ルネサンスの時期に,ギリシア・ローマの古典古代の文献が再発見されると,当時の人文主義者たちにとって,学問とはそれらの文献の研究にほかならず,文献学は古典古代学と等しくなった。
ベックは,考古学,言語学などと文献学はいかにちがうかを述べ,歴史とのちがいを例にとれば,文献学は,事実の叙述を目的とせず,歴史記述にこめられた歴史認識の再認識であるという。再認識の方法としては,解釈と批判とが使用される。解釈はそれ自体で理解しようとするもので,批判は部分と全体との比較によって理解しようとするものである。解釈には,文法的,歴史的,個性的,様式的の四つの方法があり,文法的解釈は基礎とはなるが,発話が場と結びついているので,歴史的解釈で補う。発話の中に話者の主体的性向が反映するので,個性的解釈を必要とし,さらに言語形式による様式的解釈で補完する。批判も同様に四つに分かれ,全体と部分とが適合するかどうかを問題とする。文献学の対象として,古代に関する一般的見解を与える一般部門と,生活,宗教,美術,神話,哲学,科学,文学などの特殊部門がある。
しかし,ベック自身もいうように,古典古代以外をも対象として,その方法によって研究できる。日本についていえば,明治時代から,芳賀矢一,村岡典嗣によって,〈国学〉を日本文献学として規定することが提唱された。すなわち,本居宣長は言(ことば)を通して事(わざ)と意(こころ)を明らかにしようとしたが,それは古人の意識したことをそのままに認識して,古代生活の統一的意義を理解しようとするものであった。《古事記伝》は,《古事記》の文法的解釈にとどまらず,歴史,著述事情,文体などあらゆる角度から言語に密着して古道を説くものである。そして,《古事記伝》の方法は,中国の経学(けいがく),特に清朝の考証学または漢学と呼ばれる学問と共通する。漢学は,宋代の朱熹(子)らの経書解釈がみずからの思想によって演繹的に説明するのに反対し,経書の言語そのものに密着して,漢代の注釈や漢以前の文献の言語を参考にして帰納的に解釈したり,批判したりするものであった。また,日本でも,伊藤仁斎,荻生徂徠の古学派の儒家の方法も,ベックの文献学と一致する。
執筆者:清水 茂 ところでプラトンやイソクラテス,アリストテレスにもすでにフィロロギアという語は見えるが,〈文献の研究〉という意味で特にこの語を使ったのはキケロである。古典として特別視されるテキストを正確に解釈する学問としての文献学はアレクサンドリア期のホメロス研究からであろう。〈文献学者〉すなわちフィロロゴスとして自己規定した最古の学者のひとりはアレクサンドリアのエラトステネスであるといわれる。前3世紀にさかのぼるアレクサンドリアのホメロス研究は本文校訂法を生み文法研究を育てたが,ディオニュシオス・ハリカルナッセウスに依って技法研究が加えられローマ時代の注釈術に継承されてゆく。ウァロ,ゲリウス,セルウィウス,プリスキアヌスなどの名が挙げられる。しかし科学的な本文批判が起こるのは15世紀のイタリアからで,コンスタンティノープルからベッサリオンやラスカリス,ガザ等がイタリアに到来したのが契機となり,多くの人文学者が生まれた。そしてオランダのエラスムス,フランスのビュデ,H.エティエンヌ,カソボン,スカリゲル,ドイツのJ.グルーター等の努力でギリシア,ラテン研究の基礎が据えられた。
こうした古典研究は18世紀から19世紀のドイツで〈古代学Althumswissenschaft〉としてF.A.ウォルフと上述のベックの二人によって大成された。1818年のボップによるインド・ヨーロッパ語比較文法,J.グリム,R.K.ラスクのゲルマン語比較文法,F.C.ディーツによる語比較文法は厳密な方法論を提供し,文献学はドイツの学問の様相を呈し,言語,文学,美術,神話,宗教,法律,民俗などを全体的にとらえてある民族の文化の構造を描くのが文献学と考えられるようになった。主として古文献を資料としたため古文書学,校訂法,考古学に重点が置かれ,多くの写本の比較,校合によるラハマン校訂法が生まれ,ドイツ,イギリス,フランス等各国で自国の古文献の校訂叢書が刊行された。こうして文献学は歴史学の一部門として高度の発展を遂げたが,ソシュールによる通時に対する共時の峻別から,言語学が文献学から独立し,文化人類学,社会学もそれぞれの領域を確立したので,文献学は文献資料の解釈のための学問に復し,コンピューターや新しい光学機器等を取入れ,新たな局面を展開しはじめている。
→解釈学
執筆者:松原 秀一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
文書に残って伝承されていることばの総体を理解しようとする学問分野および方法論。現実には対象となる文献はもっぱら古代ギリシア語、ラテン語で書かれた古典作品であり、そのなかでもとくに文芸作品が中心となる。言語学とは異なり、あくまでもまとまった意味のある言説として古典古代の文献を理解することを目的とし、その前提として、文書の本文(テクスト)の伝承過程を検討し、個別箇所における真正な読みを多様な異読のなかから確定する手続を重視する。したがって、専門分化した近代以後の名称としては、「文献学」は本文校訂論とほぼ同義となり、古典作品の解釈という側面は、本文確定のための一手段としてのみ位置づけられる。
古代ギリシアにおける文献学の起源は、書物の普及と密接に関連していた。古典期が過ぎると、後世に伝達すべき古典となる文学作品が整い、書物が普及していった。そのなかでアリストテレスは、あらゆる学問分野について体系的に文書資料の収集を行い、古代ギリシアにおいて確認できる最初の収書家となった。ヘレニズム時代に入り、プトレマイオス王朝下にエジプトのアレクサンドリアがギリシア世界の政治的中心を占め、異民族間に浸透したギリシア文化の植民地としても重要になると、書物はもはや単なる覚え書きではなくなり、正統な古典ギリシア文化の伝統のよりどころとして尊重されるようになった。とくにギリシア文化の基盤をなしていたホメロスの叙事詩は、もともと口誦(こうしょう)文学であったという事情を反映して、本文が流動的状態にあり、ギリシア各地に多種の異本が認められた。王家の庇護(ひご)によりアレクサンドリアには大規模な図書館を伴った研究機関ムーセイオンが設立され、「グランマティケー」(書かれたものに関する学)の専門家である文献学者が出現した。ホメロスの本文を確定するために尽力した学者たちのなかで、ゼノドトス、アリストファネス、アリスタルコスが著名である。
ローマ時代および中世には、もっぱら古典の継承が重視され、文献学もおもに古典の解説に終始したが、ルネサンス時代に至ると、源泉への回帰が志向されるなかで、古典作品もその原状態の回復が重視されるようになった。この時代に「フィロロギア」の名称が文献学のみならず文学研究全般をさすようになったが、ポリツィアーノ、スカリジェルを経て、19世紀のラハマンKarl Lachmann(1793―1851)に連なる本文校訂論の確立は、ルネサンスの源泉回帰を発端としている。
他方、近代ドイツの「新人文主義」の潮流においては、総合への志向が強調された。諸学の総合としての文献学という理念は、元来はヘレニズム時代の万学の学者エラトステネスの自己弁護から生じたものだが、ルネサンス時代にもビュデが教養理念として掲げた例がある。ウィンケルマンの説いた古典古代文化の総合的理解の理想は、ドイツの古典学者ウォルフFriedrich August Wolf(1759―1824)やベックAugust Böckh(1785―1867)によって旧来の文献学と区別された「古代学」Altertumswissenschaftの理念へと受け継がれた。あくまで文献学に主眼を置いたうえではあるが、この教養理念は、20世紀の古典学者ウィラモウィッツ・メーレンドルフUlrich von Wilamowitz-Moellendorff(1848―1931)によっても理想として掲げられた。
近代ヨーロッパ諸言語を系統ごとにまとめて、スラブ語、ゲルマン語、ロマンス語等のそれぞれの「文献学」を学問分野として設定することがあり、さらには非ヨーロッパ系言語を対象とするものにも「文献学」の名称が転用されることがある。
[片山英男]
狭くは,ギリシア語・ラテン語の研究,両古典語によって記されている文献の本文批判と解釈,そのことをとおしての古典文化の考究を内容とする学問分野をさす。ヘレニズム期のアレクサンドリアに興り,古代・中世をへてルネサンス期のイタリアとフランスで開花し,19世紀ドイツにおいて近代科学としての確立をみた。古典古代史研究にとり基礎的な補助科学の位置を占める。他方この語は,欧米では比較言語学などをも意味し,わが国にあっては考証学,国学,近代における日本古典研究をさす場合にも用いられる。イスラームの文献学は,コーランを記録し,その章句を解釈することから始まった。正確な解釈のために,預言者ムハンマドの言行を伝える伝承(ハディース)の収集が開始され,8世紀以降,これらの伝承を吟味するハディース学が盛んとなった。ハディースの真偽を判断する史料批判の方法は,法学,言語学,歴史学などにも導入され,イスラーム諸学の発達を促した。中国における文献学は,儒教の経典における文字の解釈学から始まった。後漢では馬融(ばゆう)や鄭玄(じょうげん)が中心となって経書(けいしょ)に注が施され,唐では孔穎達(こうえいたつ)らが『五経正義』を撰し,解釈の統一が行われた。これらの学問を訓詁学(くんこがく)という。宋・元をへて清代になり,顧炎武(こえんぶ)らが現れると,経書解釈のよりどころを古典に求める傾向が強くなり,それに伴って書誌的分野の研究が活発となった。これを考証学といい,清朝治下の代表的学問として発展した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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