工業的な生産手段によって大量に生産される製品(工業製品)を人間にもっともよく適合するように計画し、デザインする創造的活動をいう。日本では、工業意匠、工業デザイン、生産デザイン、機器意匠、意匠設計、工業設計、機器設計、製品設計などの訳語をあてており、英語の頭文字をとってIDと略称する。
[古賀唯夫]
IDの対象には、食器、哺乳(ほにゅう)瓶、遊具、灰皿、鋏(はさみ)などの機械的機構を有しない家庭用生活用品から、テレビ、冷蔵庫、洗濯機などの家庭用電化機器、複写機、コンピュータなどの事務用機器、カメラ、顕微鏡などの光学機器、X線撮影装置や超音波診断装置などの医療機器、車椅子(いす)、自動車、モーターサイクルなどの移動機器、バス、電車、新幹線車両、トラックなどの輸送機器、ハンドドリル、ジグソー、旋盤、フライス盤などの生産的な機器・機械というように機械的な機構を有するものが含まれる。
つまりIDは、生活にかかわる道具、機器のうち一品制作の工芸美術や手業による作品ではなく、工業的に大量生産され大ぜいの人々に使われる「もの」すべての計画、デザインを意味する。
[古賀唯夫]
IDは、さまざまな機器、道具を、開発された科学技術を活用して人間によりよく適合させ、生活に役だつように形づくり、使用しうる状態に実体化――形態として統一させる活動である。形態とは、ある組織をもった「もの」「こと」を秩序あるものとしてとらえた形であり、形態として成立させるためには関連する種々の要素を最適な状態に調和させることが必要となる。その要素とは、第一に人間の生物学的特性、心理的特性などの人間要素、第二に機構、構造、材料などの工学的・技術的要素、第三に社会、経済、市場などの環境要素である。
人間が必要からつくりだした製品は本来、人間の身体機能の拡大を目的としたものである。手がなんらかの仕事をするためには、肩、上腕、肘(ひじ)、前腕、手首、手のひら、手指などの機能が複合される。肩は方向舵(だ)、肘は伸縮装置、手首は微調整器、手指は効果器である。手指は、つかむ、にぎる、つまむ、ひっかける、すくう、おさえるなどの作用をし、他の部分と協同して目的動作を行う。このような手の機能を拡大したものが機械であり、足の機能の拡大が移動機器、耳や口の機能の拡大が聴覚機器、通信機器、目の機能の拡大が視覚機器、光学機器となる。これらの製品をデザインするにあたっては、その製品の使用目的、環境を考慮し、製品の機構、構造を使用する人間の身体機能にいかに適合させるかという人間工学的配慮を行い、精神的満足感をも満たすとともに、経済性や、その製品に適した材料の選択など、諸々の点について検討を行い、製品としてまとめあげていく。製品は目的に応じて十分に機能すると同時に、その形態は美的に統一されていなければならない。
IDは個々の製品を対象とするが、以下のような理由によって人間の生活環境のすべてにかかわりあいをもつ。生活環境は一つ一つのものが組み合わされてできる一つのシステムがまたいくつか集まって形成される。IDにおける環境という場合、一つはそのデザイン対象に直接なんらかの影響を及ぼす要素と、いま一つはそのデザイン対象を取り巻く周りの状況、という二つの意味をもつ。前者は人間要素、工学的・技術的要素、環境要素をさし、これらの要素が最適な状態に保たれて初めて製品として成立する。後者は、デザイン対象としての工業製品がその使用目的に、より適合するよう用いられ、または設置される環境をいう。たとえば食生活における機器・器具についてみると、調理、食事、だんらんなどの空間が独立、分離していた時代には、それぞれの空間が必要とする機器具が置かれ使用されていた。しかし、生活様式、食生活の変化、価値観の多様化などによって一つの空間で調理し、食事を楽しみ、だんらんもするという複合化された機能空間へと変化してくると、そこに置かれ、使用される機器具もその変化に対応してシステム化され、その場にふさわしい機能をもたせ、周りの環境との調和を図ることが必要となってきた。事務机・椅子、コンピュータなど事務用家具・機器も、単体のデザインから、事務作業の合理化、効率化のためのワークステーション・システムへと変化し、経済性、快適性、能率性、安全性までも考慮することが要求される。移動機器としての自動車も、それ自体の性能の向上、居住性、空気力学特性、社会的要請による資源の節約としての軽量化、使用者の価値観の多様化に対応したスタイルの変更などだけに考慮を払うのではなく、自動車と住民、自動車と都市計画、自動車と歩行者などというように自動車とそれ以外のシステムについても考慮しなければならない。
[古賀唯夫]
「インダストリアル・デザイン」ということばは、機械による大量生産方式を確立したアメリカにおいて1919年に使われたといわれる。同年にティーグWalter Dorwin Teague(1883―1960)がデザイン事務所を設立し、1926年にID事務所とし、続いてゲデスNorman Bel Geddes(1893―1958)が1927年、ドレイフスHenry Dreyfuss(1904―72)とローイRaymond Loewy(1893―1986)が1929年にID事務所を開設するなど、デザイン活動が活発化し、その職能がはっきりとした形となってくる。その後、第二次世界大戦の直前、ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカへ移住してきたバウハウスの主要メンバーであるグロピウス、ミース・ファン・デル・ローエをはじめとしてモホリ・ナギ、バイヤーHerbert Bayer(1900―85)らによってバウハウスの理念がアメリカで展開され、大戦以降のアメリカをはじめ、世界各国のIDの発展に大きく貢献した。
[古賀唯夫]
IDの発生を歴史的にみると、近代の工業生産方式を確立した産業革命の時代にまでさかのぼる必要がある。イギリスにおける18世紀中ごろから19世紀中ごろまでの産業革命は工業化生産によって、さまざまな製品を大量に供給するようになり、それまで上流階級のみが所有できた質的水準の高い工芸品や日常生活用品は、機械技術で模倣され、民衆の手の届く価格で提供された。このような傾向は一面で様式の混乱と質の低下とともに生活文化をも低下させた。機械化の乱用について最初に警鐘を鳴らしたのがコールHenry Cole(1808―82)であった。彼は芸術美を機械による生産方式に適用し、製品を美的、質的に改良して大衆の趣味の向上を図ろうとした。一方、機械化による生産を否定し、手工芸によって造形的にも製品の質の向上を図ろうという美術工芸運動(アーツ・アンド・クラフツ運動)Art & Crafts MovementをおこしたのがW・モリスで、彼は造形理念を実現させたが、結果として彼の作品は一部の人々のコレクションの対象となった。しかしモリスのデザイン運動はベルギーでバン・デ・ベルデを中心としたアール・ヌーボー(新芸術様式)、ウィーンでゼツェッション(分離派)という芸術運動になった(1897)。これらの運動は工業技術による機械生産への新しい様式の模索であったといえる。
機械生産を肯定し、それに適した造形に新しい道を開いたのは、ムテジウスが1907年に始めたドイツ工作連盟Deutscher Werkbund(DWB)の運動である。この運動は建築、芸術、実業の各領域の知恵を集結し、「工業製品の良質化」を図るのが目的であった。そして規格化か個人主義かという論争を経ながら、工業製品の規格化、標準化の運動を推し進め、P・ベーレンスらが工作連盟の思想を実現し、機能主義思想を形成していった。この運動はヨーロッパ各地に波及し、1910年オーストリアに、1913年スイスに工作連盟が生まれ、1915年にイギリスに「目的への適合」をモットーとしたデザイン産業協会が結成され、第一次世界大戦後、バウハウスへと受け継がれていく。
バウハウスは、建築を主体としたすべての創造的芸術の統合と造形的活動の基本には手業があり、芸術家は工芸あるいは手工作に戻るべきであるという造形理念のもとに運動を進め、1923年には「芸術と工業技術――新しい統合」という理念が加えられ、機能主義的な可能性を実践していった。やがてナチス・ドイツの弾圧によって解散させられたが、アメリカでその理念を普及させ、第二次世界大戦後のデザイン教育と工業に大きな影響を与えた。
[古賀唯夫]
アメリカにおけるIDが職能として確立した背景には、18世紀から19世紀前半にかけての工作機械の発明が大きくかかわっている。アメリカの技術の特徴は新大陸の生活が要求するさまざまなものを発明し生み出すことを最大の目的としていた点であり、まず広大な国土を労働力の不足を補いながら開拓していくための機械化による能率の向上が必要であった。マコーミックCyrus Hall McCormick(1809―84)は農業機械をつくり、E・ホイットニーは製品の各部分を標準化し、かつ互換を可能にする互換性製造方式によるマスケット銃の製造のために工作機械を発明した。互換性生産方式はコルトの連発拳銃(けんじゅう)の生産のほかに一般の生活機器の生産にも採用され、20世紀初頭にはフォードによる自動車の大量生産へと発展した。一方、家庭用機器の機械化も進んだ。たとえばエネルギーが石炭からガス、電気と移るにしたがい、鋳物のレンジからガスレンジ、電気レンジへと変化し、掃除機、アイロンなども機械化された。これらは機能本位につくられたが、造形的にはヨーロッパの工芸品の意匠や装飾が模倣されているにすぎなかった。
1909年フォードは大衆の足がわりとしての自動車T型フォードを一車種大量生産(フォードシステム)で世に送り出す。年間の生産台数は1911年に約4万台であったが1923年には約170万台となり、価格も当初850ドルから295ドルまで下がった。しかし1927年には27万台となり生産を中止した。この急激な不振の原因として大衆の心理に気づかなかったことがあげられる。つまりそれまで自動車は地位の象徴であったが、T型フォードの出現によりだれもが同じ車を所有できるようになり、その意味は失われ、それが購買意欲の減少となったのである。このような状況のなかで地位を誇示することのできるより高級な車をという欲求が現れた。それにこたえたのがゼネラル・モーターズ社のフル・ライン・ポリシーである。自動車の外観を重視してスタイリング部門やアート・アンド・カラーセクションが設置され、自動車におけるスタイリング時代の幕開きとなり、それ以降、大量生産、大量販売のために毎年モデルチェンジが行われるようになった。
1929年の経済大恐慌下、企業家は滞貨をさばく方法としてIDに注目し、大量生産品の「リ・デザイン」re-designを行った。ストリーム・ライン(流線形)が流行したのもこの時期である。ストリーム・ラインはベル・ゲデスNorman Bel Geddes(1893―1958)が機関車の機能上の要求から空気力学を基礎としてデザインに取り入れたものであったが、流線形が「モダン」ということばのかわりとなり、製品機能に関係なくさまざまな製品に取り入れられ、「ストリーム・ラインの政治」「ストリーム・ラインのビジネス」などのことばまで生まれた。この時期からIDはデザイナーのデザイン思想とは関係なく企業の大量生産、大量販売の手段として企業のなかへ浸透していき、アメリカの高度大衆消費時代を到来させる。このようにアメリカのIDは、理論から出発したヨーロッパと異なり、現実から出発し発展したものといえる。
[古賀唯夫]
日本におけるIDは第二次世界大戦後に始まったといっても過言ではないが、デザインに関する芽生えは1873年(明治6)に開催されたウィーン博覧会に参加したときからといえる。明治政府は富国強兵と殖産興業政策のもとにウィーン博への参加を決め、佐野常民(つねたみ)とお雇い外国人のワグネルを中心にして、伝統的な美術工芸品を出品し、海外諸国に宣伝し、ひいては国力の誇示、輸出の振興と、あわせてこの機会をとらえて外国文化の吸収を図った。そしてそのために25名の伝習生を派遣し、博覧会見学後にヨーロッパ各地の学校や工場でいろいろな技術を学ばせた。この伝習生のなかには陶磁器製造法の納富介次郎(のうとみかいじろう)(1844―1918)、河原忠次郎(1851―90)、ガラス製造法の藤山種広、石版、画術、地図の岩崎教章(のりあき)(1832―83)、工作図画の平山英三(えいぞう)らがおり、彼らが新時代の美術・工芸、工業などの先駆者となり、振興と発展の原動力となった。1875年に工部大学校(現東京大学工学部)に工部美術学校が設置され、1887年には東京美術学校(現東京芸術大学)と、納富介次郎による石川県金沢区工業学校(現石川県立工業高校)が設置され、日本のデザイン教育がスタートした。その後、明治末期にかけて高岡工芸学校、高松工芸学校、東京高等工業学校、東京府立工芸学校などが設置され図案科がつくられていった。
デザイン運動も活発化し、1913年(大正2)には平島精一の工芸振興に関する建議書が契機となって、輸出雑貨の品質、意匠の改良のために「第1回農商務省図案および応用作品展」が開催され、大正時代に入ると柳宗悦(むねよし)らの「民芸運動」がおこり、1920年には堀口捨己(すてみ)ら6名が過去様式からの分離を宣言して「分離派建築会」を組織した。1927年(昭和2)にはドイツ工作連盟、バウハウスなどの運動を伝え聞き、関西に「日本インターナショナル建築会」が設置され、森谷延雄(もりやのぶお)(1893―1927)らは「木ノ芽会」をおこし、モリスの精神を継いで職人とデザイナーの協力から生まれる人間的、手芸的な家具を試作した。1928年には蔵田周忠(かねただ)(1895―1966)、豊口克平(とよぐちかつへい)(1905―91)らが「型而工房」を設立して建築と生活の結合、生活用品の合目的化、機械生産および規格化による量産工芸を主張した。同年、日本固有の工芸技術を科学的に研究し、輸出の振興をねらって工芸指導所(後の工業技術院製品科学研究所)が設立される。また1935年には「用即美」を唱えて高村豊周(とよちか)(1890―1972)、豊田勝秋(1897―1972)、内藤春治(はるじ)(1895―1979)、山崎覚太郎(1899―1984)らが「実在工芸美術協会」を設立し、翌年には生活用品を含めた第1回実在工芸美術展を開催、インダストリアル・アートを目ざす新進作家たちの活動の場となった。このほか北原千鹿(せんろく)(1887―1951)の主宰する「工人社」、蓮田修吾郎(はすだしゅうごろう)(1915―2010)らの「工芸青年派」、金子徳次郎(1913―2004)、小杉二郎(1915―81)らによる工業デザイン的な「型会(かたちかい)」、須藤雅路(まさじ)(1900―79)、小池岩太郎(1913―92)らによる「生活意匠連盟」は実業界と連携し日用器具類の新しいデザインを目ざした。このように日本の当初のデザイン運動は工芸的な色彩が強かった。1933年(昭和8)タウトが来日し、工芸指導所の嘱託となり工芸指導にあたるなどIDの運動は工芸指導所を中心として推し進められ、1940年ごろには産業としての工業部門も成長し、生活面でも家庭電化製品の普及の兆しもあった。しかし第二次世界大戦によって産業界も軍需生産へと向かい、デザイン活動も挫折(ざせつ)した。
第二次世界大戦後、産業界は軍需産業から民需産業へと転換した。しかし生産活動の中心は戦時賠償としての工業製品の生産およびアメリカ占領軍家族用住宅2万戸、家具95万点、家庭用電化製品をつくることであり、占領軍総司令部のDesign Branchの指導のもとに、工芸指導所が家具の設計を行い、家具メーカー、電気メーカーが生産にあたった。このことがその後の技術の発展に役だった。デザイン活動としては「アメリカ生活文化展」や「アメリカに学ぶ生活造形展」などが催された。1950年(昭和25)ごろには各製造業にデザイン部門が設置され、1951年東京芸術大学に工芸計画科、千葉大学に工業意匠科が新設され、その後芸術系大学にデザイン科が設けられID教育が進められた。1952年には日本インダストリアル・デザイナー協会が設立され、毎日新聞社による新日本工業デザイン展、翌年新日本工業デザイン・コンクールが開かれ、1955年に国際工芸美術協会、1956年に日本デザイナー・クラフトマン協会が設立された。工芸指導所は1952年に産業工芸試験所と名称を変え、欧米のデザイン情報の調査を行い、1956年からは毎年外国の著名なデザイナーや人間工学者などを招き、講習会を開催した。一方、海外貿易振興会(日本貿易振興機構の前身)は産業意匠改善研究員を外国に派遣し日本のIDの発展に貢献した。1957年には通商産業省(現経済産業省)に「グッドデザイン商品選定制度」(Gマーク制度)が創設された。このようにして日本のIDは第二次世界大戦による立ち後れを取り戻し、今日では国際的にも認められる独自のIDをつくりあげている。なお、Gマーク制度は、1998年(平成10)に財団法人日本産業デザイン振興会(1969設立)主催の「グッドデザイン賞」となった。
[古賀唯夫]
1957年発足のGマーク制度の目的は、「安全で耐久性があり、使いやすい機能を有し、造形的に優れた独創的な工業製品(商品)を選び、消費者の購買の目安にすること」である。1958年に7点のGマーク商品が選定され、以後、毎年多くの商品が選定された。1982年には申請点数3075点、選定点数877点で、制度発足以来のGマーク商品の合計は7744点に達した。初期にはGマーク商品は売れない商品の代名詞といわれたが、近年は選定されることが販売促進の要(かなめ)であるという視点から各企業とも積極的な姿勢を示している。しかし過去のGマーク選定商品中、長く生産され続けたものは、椅子、テーブルウェア、灰皿、ファイル、巻尺など、メカニズムをもたない商品がほとんどで、他は翌年あるいは2~3年でモデルチェンジされて市場から姿を消している。こうした状況は技術革新、企業間競争の激しさを物語るものであるが、Gマーク制度本来の目的に合致するものではない。なお、Gマーク、グッドデザイン賞あわせて2002年度までに約2万8000点が選定されている。
今日、人間が生活上必要とする道具・機器のほとんどは工業製品であり、その生産計画はマーケティング理念に基づいてたてられている。日本の戦後の計画の変遷を概観すると、その第1期は、復興と個人の生命維持が最大課題の時期である。人々の欲求は生理的欲求、安全欲求が優先し、加えて「ものがある」ことだけでも価値があり、「つくれば売れる」状況であった。企業は消費者の意向を積極的に反映させることなくものを生産した、生産者志向の時代といえよう。第2期は、経済の立ち直りにより生産性が向上し、生産が需要を上回った時期である。人々の欲求は不足充足、人並み志向という社会的欲求の時代であり、企業は何が売れるかという点を考えて生産した販売志向の時代である。第3期は経済高度成長の時期であり、基本的耐久消費財は普及し、人々の欲求は個別、個性的になり、企業は消費者が何を求めているかということを考える消費者志向の時代であり、企業が消費者のなかに新たな欲求をつくりだし、操作する、製品の大量生産・大量消費の現象が顕著となる。そして物質的な欲求が満たされたとき、人々の間には人間性の回復、人間としての価値ある生活を望む自己実現ともいうべき欲求が現れ、自分自身で生活設計をする傾向も強くなった。企業も人々の生活の諸側面を総合的にとらえて個々の製品を計画し生産するという第4期のライフ・スタイル志向の時代が到来した。このように消費者は受動的状態から能動的状態へと変化しつつある。しかし、製品に対する欲求がその消費者自身によって具体的な形でイメージされることはきわめてまれであり、やはり企業によって示され、準備された状態をまって製品に対する欲求や必要が具体化するのが一般的である。IDの本来のあり方は人々の欲求を操作し、大量生産・大量消費に協力することではない。ライフ・スタイル志向の時代を迎えている今日、IDの役割を再検討することが必要となっている。
今日の人間生活における諸環境はそのほとんどが健常者を対象に計画され、デザインされている。しかしその社会には200万人近い身体障害児・者が生活し、他方、老齢人口の急速な増加傾向などもある。そして健常者に比べてなんらかのハンディキャップをもつ人々が生活上で必要とする道具・機器類は、自由に選択できるほどに準備された状態にはない。健常者を取り巻く状況がライフ・スタイル志向の時代にあるのに比べ、心身になんらかの障害をもつ人々のそれは生産者志向の段階にも至っていないといって過言でない。この物的環境の改善のためにリハビリテーション工学がある。ここでは主として人間の形態、機能特性を解析・定量化し、高度の科学技術による電動義肢・装具などを開発し、障害をもつ人の社会復帰に大きな力となっている。しかし、健常者の日常生活をみると、そこでの生活機器具のすべては、科学技術の進歩とともに開発された技術を生活の場で応用し、改善してきた結果である。IDが障害をもつ人々の物的環境の改善にかかわろうとするときには、高度の科学技術のみに目を向けるのではなく、それらの人々の全生活を中心に既存の技術を活用して社会復帰を促進し、充実した生活に役だつ製品を形づくることがまず求められる。そして開発途上の新技術を活用しようとするときには、健常者に対するそれ以上にその製品が生活にどのような影響を及ぼし、どのような変化を与えるのかなど、その生活像をイメージすることが必要である。
人間が計画し、つくりだした製品は、人間の生活を変化させる力を有している。製品を計画しデザインするにあたっては、将来の技術の進歩の予測、人間の欲求、価値観、生活意識の変化などを予測し、人間生活のあるべき姿を、製品を通して提案していくことが求められている。
[古賀唯夫]
『H・リード著、前田泰次・勝見勝訳『インダストリアル・デザイン』(1957・みすず書房)』▽『W・ブラウン、フェルトヴェーク著、阿部公正訳『インダストリアル・デザイン』(1972・彰国社)』▽『勝見勝著『現代デザイン入門』(1975・鹿島出版会)』▽『工業デザイン全集編集委員会編『工業デザイン全集』(1982・日本出版サービス)』▽『森典彦編『インダストリアル・デザイン――その科学と文化』(1993・朝倉書店)』▽『斎藤忠男他著『インダストリアル・デザイン』(1993・住まいの図書館出版局)』
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…もともとアングロ・サクソン系のデザインという言葉には,意匠と計画という二つの意味があり,この二つの意味を同時に表す言葉が他の言語では見つからなかったからである。たとえばフランス語ではesthétique industrielle(字義どおりには〈産業美学〉)という言葉がよく使われたが,それではインダストリアル・デザインの,とくに意匠について語るにすぎない。また,イタリア語でprogettazioneと呼ばれたこともあるが,この場合では計画に比重がかかってしまう。…
※「インダストリアルデザイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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