(読み)アイ

デジタル大辞泉 「愛」の意味・読み・例文・類語

あい【愛】[漢字項目]

[音]アイ(呉)(漢) [訓]いとしい めでる かなしい おしむ
学習漢字]4年
かわいがりいつくしむ。思いこがれる。いとおしいと思う気持ち。「愛妻愛情愛人愛憎恩愛求愛敬愛最愛自愛慈愛情愛親愛仁愛相愛寵愛ちょうあい溺愛できあい熱愛博愛偏愛盲愛恋愛
対象を気に入って楽しむ。「愛好愛読愛用
二つとない対象を大切にする。「愛顧愛護
大事なものを手放したくないと思う。おしむ。「愛惜割愛
[名のり]あき・さね・ちか・ちかし・つね・なり・なる・のり・ひで・めぐむ・やす・よし・よしみ・より
[難読]愛蘭アイルランド愛宕あたご愛子あやし愛子いとしご愛媛えひめ他愛たわいない愛弟子まなでし

あい【愛】

親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「を注ぐ」
(性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「が芽生える」
ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する
個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への
キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
仏教で、主として貪愛とんあいのこと。自我の欲望に根ざし解脱げだつを妨げるもの。
[用法]愛・愛情――「親と子の愛(愛情)」「夫の妻に対する愛(愛情)」などでは、相通じて用いられる。◇「愛」は、「国家への愛」など、広く抽象的な対象にも向けられる。◇「愛情」は、主に肉親や恋人に対して用いられ、「幼なじみにあわい愛情を抱きはじめた」などという。◇類似の語に「情愛」がある。「情愛」は「愛情」と同じく肉親や恋人間の感情を表すが、「絶ちがたい母子の情愛」のように、「愛情」よりも思いやる心が具体的である。
[類語]恋愛愛恋あいれん恋情れんじょう恋慕れんぼ思慕しぼ眷恋けんれん色恋いろこい慕情ぼじょう恋心初恋狂恋悲恋片恋片思い岡惚れ横恋慕失恋ラブアムールアモーレロマンス

まな【愛/真】

[接頭]人を表す名詞に付いて、非常にかわいがっている、大切に愛し育てている、などの意を表す。「―弟子」「―娘」

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精選版 日本国語大辞典 「愛」の意味・読み・例文・類語

あい【愛】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 親子、兄弟などが互いにかわいがり、いつくしみあう心。いつくしみ。いとおしみ。
    1. [初出の実例]「遊女(あそび)の好むもの、雑芸(ざふげい)(つづみ)小端舟(こはしぶね)、簦(おほがさ)(かざし)艫取女(ともとりめ)、男のあい祈る百大夫」(出典:梁塵秘抄(1179頃)二)
    2. 「親にも超(こえ)てむつましきは、同気兄弟の愛(アイ)なり」(出典:太平記(14C後)二九)
    3. [その他の文献]〔孝経‐聖治章〕
  3. 仏語。
    1. (イ) 十二因縁の一つ。ものを貪(むさぼ)り執着すること。欲愛(性欲)・有愛(生存欲)・非有愛(生存を否定する欲)の三愛その他がある。
      1. [初出の実例]「十二因縁といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色(みゃうしき)、五者六入、六者触、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死」(出典:正法眼蔵(1231‐53)仏教)
      2. [その他の文献]〔倶舎論‐九〕
    2. (ロ) 浄・不浄の二種の愛。法愛と欲愛、善愛と不善愛などをいう。〔北本涅槃経‐一三〕
  4. 子供などをかわいがること。愛撫(あいぶ)すること。幼児をあやすこと。
    1. [初出の実例]「てうちゃくは致しませぬ愛を致しました」(出典:鷺伝右衛門本狂言・縄綯(室町末‐近世初))
  5. (品物などに)ほれこんで大切に思うこと。秘蔵して愛玩(あいがん)すること。
    1. [初出の実例]「慈照院殿、愛に思召さるる壺あり」(出典:咄本・醒睡笑(1628)八)
  6. 顔だちや態度などがかわいらしくて人をひきつけること。あいきょう。
    1. [初出の実例]「都に名高き芸子瀬川竹之丞といへる美君に、今すこし愛(アイ)の増たる生れつき」(出典:浮世草子・風流曲三味線(1706)二)
  7. 人との応対が柔らかいさま。あいそ。
    1. [初出の実例]「まねけばうなづく、笑へばあいをなし」(出典:浮世草子・好色二代男(1684)三)
  8. キリスト教で、神が人類のすべてを無限にいつくしむこと。また、神の持っているような私情を離れた無限の慈悲。→アガペー
    1. [初出の実例]「我は上帝を信じ真理を信じ愛を信ずるなりと」(出典:詩人ブラウニング(1890)〈植村正久〉)
  9. 男女が互いにいとしいと思い合うこと。異性を慕わしく思うこと。恋愛。ラブ。また一般に、相手の人格を認識し理解して、いつくしみ慕う感情をいう。
    1. [初出の実例]「貧きが中にも楽しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛」(出典:舞姫(1890)〈森鴎外〉)

ま‐な【愛・真】

  1. [ 1 ] 〘 接頭語 〙
    1. ( 真 ) 名詞の上に付いて、ほめたたえる気持を添える。「まな井」「まな鹿」など。
    2. ( 愛 ) 人を表わす名詞の上に付いて、非常にかわいがっている、めでいつくしんでいるの意を表わす。「まな児」「まな娘」「まな弟子(でし)」など。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙 ( [ 一 ]が独立して用いられたもの ) ひじょうにかわいい子。愛すべきもの。
    1. [初出の実例]「あしひきの山沢人の人多(さは)に麻奈(マナ)といふ児があやに愛(かな)しさ」(出典:万葉集(8C後)一四・三四六二)

し【愛】

  1. 〘 形容詞シク活用 〙
  2. いとおしい。かわいらしい。慕わしい。→はしきやし
    1. [初出の実例]「昔こそよそにも見しか吾妹子が奥つ城と思へば波之吉(ハシキ)佐宝山」(出典:万葉集(8C後)三・四七四)
  3. 美しい。
    1. [初出の実例]「かの美(ハ)しき越歴機の夢は」(出典:邪宗門(1909)〈北原白秋〉魔睡・邪宗門秘曲)

愛の補助注記

ウルハシのハシと同根か。平安時代以後はの意ではカナシ、ウツクシが栄えた。現代語のカワイイに連なるカハユシは中世以後見られる。


かなしけ【愛】

  1. 〘 形 〙 「かなし」の連体形「かなしき」の上代東国方言。いとしい(こと・もの)。
    1. [初出の実例]「あぢかまの潟に咲く波平瀬(ひらせ)にも紐解くものか加奈思家(カナシケ)を置きて」(出典:万葉集(8C後)一四・三五五一)
    2. 「筑波嶺(つくばね)のさ百合(ゆる)の花の夜床(ゆとこ)にも可奈之家(カナシケ)妹そ昼も可奈之祁(カナシケ)」(出典:万葉集(8C後)二〇・四三六九)

めだし【愛】

  1. 〘 形容詞シク活用 〙 ( 動詞「めでる(愛)」から派生したもの ) 愛(め)ずべき状態にあるさま。愛らしい。ほめたたえるべきである。
    1. [初出の実例]「薬師は 常のもあれど 賓客(まらひと)の 今の薬師 貴かりけり 米太志加利(メダシカリ)けり」(出典:仏足石歌(753頃))

うつくしけ【愛】

  1. ( 形容詞「うつくし」の連体形「うつくしき」にあたる上代東国方言 ) かわいい。
    1. [初出の実例]「大君の命(みこと)かしこみ宇都久之気(ウツクシケ)真子(まこ)が手離り島伝ひ行く」(出典:万葉集(8C後)二〇・四四一四)

いとし【愛】

  1. 〘 形容詞シク活用 〙いとしい(愛)

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改訂新版 世界大百科事典 「愛」の意味・わかりやすい解説

愛 (あい)

愛の過不足なく普遍妥当な定義を求めることは,愛の様態の多岐性,愛の解釈の恣意性,愛の用語の混交性のために,困難というより,不可能であり,無意義である。

 人類の愛の様態は,異なる自然環境と社会組織の制約のもとに形成された結果,顕著な特性をもつまでに分化している。それらは,習俗の根強さによって,保守的な大衆を羈絆(きはん)する一方,反生物学的・非人間的なゆがみによって,自覚的な個人に対する権威を失墜しつつある。それゆえ,愛の主体的な把握を志すものは,歴史的・民族的・文化的・宗教的な姿相の究明と並行して,これらを超えた,自己の人格と整合性をもつ愛の理念の確立に努力しなければならない。

 そこで,既存の説を離れて愛の本質を考える一助に,哺乳類の生態に注目すると,意外な事実が認められる。まず,ピグミーチンパンジーの性行動は,普通のチンパンジーとでなく,人間と酷似する。さらに,ゴリラの雌は群中の母なし子を養護するが,これについでおおらかな父親らしさを発揮するのは,他の類人猿でなくライオンである。また,ひとくちにイヌ科と言っても,オオカミやキツネは番(つがい)となるが,犬や熊はならない。これらの異同が,種の遠近とは別の要因に左右されているのは,雌雄・父子・集団の関係のあり方が,潜在的な可能性の一つのたまたま現れた,不安定なものでしかないことを物語る。つまり,人間の愛には,母子の間の親密性を除けば,動物学的な水準においてすら,確固たる原型が存在しないことになる。とはいえ,まったく次元が違うはずの,人間の愛の心理機構と,原生動物の接合や物理的・化学的な親和現象が,かえって,偶然とは思われぬ類比を示すことも,否定できない。だから,いくら愛が多様だとしても,つきつめてゆけば,恒常的な共通要素がないはずはない。

 あらゆる愛の基本が,〈なにものかにひかれること〉である点に着眼すると,〈ある主体の,特定の対象にいだく,全体的または部分的な,合一の欲求〉といった,愛の概括的な定義さえ,導き出すことができる。この一見無内容な定義が露呈させるのは,愛と食,愛と死の,根源的な相似性と相関性である。〈合一〉とは,相互発展的な〈融合〉でもありうるが,〈対象を吸収する(食う)〉か〈対象に吸収される(食われる)〉かに偏しやすく,後者への欲求の極限は,生存の緊張から逃れるために個体を解消しようとする,〈死へのあこがれ〉にほかならない。こうして,生命に内在する,ある単一の力が,生命過程において,食・愛・死の欲求を順次発現させることと,生物学的に見た愛の機能が,生と死の中間項としての,新たな生命の産出であることが,了解できる。また,〈合一の欲求〉が,本来の利己性を超えて,対象の利益の顧慮から,〈自己犠牲〉にまで進むことも,強烈な〈情緒〉と〈苦楽〉をともなうことも,納得がゆく。

 しかし,フロイトの説く〈リビドー〉と異なり,万有の本源から発して,全存在に遍満しなければならない,〈ある単一の力〉とは,いったいなにか。それが,なぜ,いかにして,〈合一の欲求〉を生じさせるのか。これらの疑問に答えることは,宇宙・生命・意識の発生の理由を明らかにすることにひとしいから,とうてい,われわれの悟性と科学的認識のなしうるところではない。以上の定義と解釈は,あくまでも,常識的な立場から,愛の骨格だけを没価値的に示そうとした,一つの試みにすぎない。いくつかの宗教と形而上学は,これと多かれ少なかれ異なる見方で,愛の本質と原因に関する思弁を展開し,なかには,複数の愛をはっきりと区別するものもある。代表的なものの一部を,比較のために要約すれば,つぎのごとくである。

プラトンの説く,〈エロスerōs〉の愛は,自己に欠けたものへの欲求である点,上記の〈欲求説〉に近い。しかし,その欲求が,対象自体よりも,対象に発現する,より高い美しさ,完全さ,価値に向かい,究極は〈一者〉との合一を目ざすというのは,〈イデア説〉と同根である。プラトン個人の,〈死へのあこがれ〉が反映しているのかもしれない。

 新約のキリスト教の愛は,とくに,〈アガペagapē〉というギリシア語で呼ばれる。新約の神は,愛ゆえに人間を創造した,〈愛の神〉であるが,神自身の本質も愛だとされる。〈神の人への愛〉にこたえる〈人の神への愛〉として,己を捨て〈神の愛〉に入るとき,人間は,〈愛の神の子〉として,〈人の人(隣人,敵)への愛〉をはたしうる,〈愛の人〉となる。いっさいが神すなわち〈与える愛〉を原因とするから,〈欲求〉ではなく,さきの定義は適用できないが,このような愛の観念を成立させた心理の底には,やはり,父なる絶対者への〈合一の欲求〉が潜んでいる。

愛に関するサンスクリット語の類義語は,仏典に現れるだけで数十に達するが,訳語が一定でないことがある反面,10以上の語を一様に〈愛〉と訳したりするので,漢訳からは原語を判別できないことが多い。もっとも重要な原語(梵=サンスクリット語,巴=パーリ語)に,標準的な漢訳と解説を付加すると,以下のようになる。

 梵巴〈カーマkāma〉:〈愛・愛欲〉。原義は〈欲求〉一般であるが,しばしば〈愛欲・性愛・性行為〉を指し,インドでは古来,人生の三(ないし四)大事と認められているが,仏教では,もちろん,否定されるべき〈煩悩〉とみなされる。ただし,巴〈アッタatta-(梵アートマātma-)・カーマ〉:〈自己愛〉が,〈自分をたいせつにすること〉として肯定されているのは,注目に値する。

 梵〈トゥリシュナーtṛṣṇā〉,巴〈タンハーtaṇhā〉:〈愛・渇愛〉。原義は〈渇き〉で,英語〈thirst〉,ドイツ語〈Durst〉と対応し,英語〈dry(乾いた)〉などと同源で,〈十二支縁起〉の一つとして,〈苦〉の原因とされている。際限なく増大してゆく〈欲望〉というのが,仏教の基本的な,愛の見方である。

 梵〈プレーマンpreman〉,巴〈ペーマpema〉:〈愛・愛念・慈〉。〈愛情〉のことで,肯定も否定もされうるが,〈他人・衆人を愛すること〉と〈人々に愛されること〉とは,仏教徒としても大事であるとされた。前者を,〈慈〉と訳すこともある。

 梵巴〈ラーガrāga〉:〈愛・愛染・貪愛〉。〈心が真赤に染まるような,激しい性愛〉のことで,仏教はその規制を説いたが,後代のタントラ的密教においては,〈男女交合〉を〈涅槃(ねはん)〉〈仏道成就〉とさえみなすようになった。

 梵〈マイトリーmaitrī〉,巴〈メーッターmettā〉:〈慈・慈悲〉。原義は〈ミトラmitra(友)〉に由来する〈友情・友愛〉であるが,仏教では,とくに〈いつくしみ〉として尊重される。

 梵巴〈カルナーkaruṇā〉:〈悲・慈悲〉。原義は〈うめき〉であるとも言われ,〈(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと・嘆き悲しむこと〉から,〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。仏陀の〈悲〉はとくに,〈マハー・カルナーmahā-karuṇā(大悲・大慈悲)〉と呼ばれ,〈自分が,だれかに,どれだけのことをしてやる〉という,3条件を意識しない,〈無縁の大悲(無条件の大きな愛)〉だとされている。なお,〈慈悲〉の原語は,上記の2語のどちらか一つ,双方,別の語と,一定していない。

 中国の〈〉には,多くの訓詁があるが,〈人間(男)であること・人間(男)らしさ〉が本義で,早い時期に,〈任(重い任務)〉〈人と人の間でもつべき態度・他者へのいたわり〉などの語感が,複合したものであろう。家父長的な義務感を出発点とし,〈天〉の〈命〉によるという使命感に支えられ,弱者への〈惻隠の心〉とともに,一人前の人間としての責任をまっとうしうる〈能力〉をもつことが,重視された。〈仁〉の,近きより遠きにおよぼす,現実主義的な性格にあきたらず,墨子は,〈兼愛(無私平等の愛)〉(兼愛説)を提唱したが,理想論にすぎぬとして,広く受けいれられなかった。

 以上のごとく,愛の理念は,一つ一つが微妙に力点を異にしており,〈欲求説〉によって総括しようとすれば,本質を見失うものが多い。まして,文芸・絵画・彫刻・音楽などの芸術作品は,概念の網では決してすくうことのできない,愛の具体的な真実を,感性を通して訴えかけてくるのであるから,意味の抽出を急いではならない。

 そこで,現代日本語としての〈愛〉の素性に目を向けると,この語は,本来の中国的な意義と,これと相いれぬインド仏教的な意義とを担って,上代の知識階級の語彙に加わったが,中世・近世を通じてむしろ卑俗な語感をもち,明治になると近代ヨーロッパ語の〈ラブlove〉〈リーベLiebe〉〈アムールamour〉の受皿として用いられ,〈おもい〉や〈恋〉の地位をおびやかすに至ったものである。ところが,西洋文化の源流を伝える,古典語とくにギリシア語では,サンスクリット語の場合と同じく,愛の観念を包括する単語が存在しなかった。英・独・仏の現代語では,愛を表現するのに,一つの名詞がとび抜けて有力になっているから,最近までの日本人は,古代のギリシア人や中世以降のヨーロッパ知識人が,異なる愛の観念を区別するために異なる単語を用いる事実に,気づかなかったのである。

そこで,中国語の〈愛〉の原義と,印欧語の主要な〈愛〉を表現する名詞の素朴な意義とを,順序不同に紹介しておくことにする。

 〈愛〉は,母親の幼児にいだく〈せつない愛情〉が自然な発語として定着したもので,少なくとも中古以後は,〈ai〉という二重母音が,完全に一体ではありえないが別個の存在というにはあまりにも不可分な,母子関係の緊密さを,潜在意識に感じさせていたと憶測される。〈母性愛〉のあらわれであるから,〈与える愛・いつくしみ〉が本義である。

 これに対して,ラテン語〈amor(イタリア語amore,フランス語amour,スペイン語amor)〉は,幼児が母の〈乳房〉を慕う際の発声が起源で,ラテン語〈mamma(乳房)〉,日本語〈mamma(食物)〉,日本語と朝鮮語の〈omo(母)〉と同じく,もっとも発声が容易でしかも吸着行為の口の動きと密接な,両唇音を主体としている。したがって,本来は,〈求める愛〉である。

 英語〈love〉,ドイツ語〈Liebe〉などは,印欧原語〈leubh〉にさかのぼることができ,〈愛・あこがれ・親しみ〉など,広い意味をもっていた。フロイトの〈リビドー〉の原語である,ラテン語〈libido〉は,〈激しい欲望〉を本義とする,この群に属する語である。

 ギリシア語〈erōs〉は,〈性愛〉を指すのが普通であった。これに対して,ギリシア語〈philia〉は,〈philos(形容詞=親愛なる,名詞=友人)〉に由来し,〈友愛・友情〉である。しかし,〈philos〉の原義は,ホメロスが用いた〈自分自身の〉であり,リュディア語〈bilis(自分自身の)〉に代表される,アナトリア語が起源らしい。

 〈自分自身の(もの)〉だから〈いとしい〉という発想は,ほかにもあり,サンスクリット語〈priya(いとしい)〉〈preman(愛)〉がその例であるが,〈priyā(いとしいもの,形容詞・女性形)〉に対応するものとして,北欧や古代高地ドイツ語の女神名〈Frigg〉〈Frīja〉があり,英語の〈Friday(金曜日)〉に名残りをとどめる。また,〈自分自身の(からだ)〉だから,奴隷でなく〈自由〉だというのが,英語,ドイツ語〈free〉〈frei〉(自由な)の原義であり,〈自分の(側に立つ人)〉というのが,英語,ドイツ語〈friend〉〈Freund〉(友人)の本義である。

 ギリシア語〈agapē(愛)〉は,動詞〈agapaō(好意をもつ・愛情をもつ・好む・満足する)〉から,比較的おそく造られた語で,〈性愛〉であることはまれだったので,新約の用語として採用された。

 ラテン語〈caritas(愛・愛情)〉は,形容詞〈carus(イタリア語・スペイン語caro,フランス語cher,親愛なる)〉に由来し,ギリシア語〈agapē〉の訳語とされて,キリスト教的〈愛〉を指すようになり,さらに,〈愛〉にもとづく〈慈善〉の意をもつようになった(カリタス)。英語〈charity〉の語源でもあるこの語が,サンスクリット語〈kāma(欲求・愛欲)〉と同根であるらしいのは,いかに語の意味内容が移ろいやすいかということのよい見本である。
執筆者:

孔子は門人の質問に答えて,仁とは〈人を愛するなり〉と言っている。〈人を愛する〉仁は,〈己を正す〉義とともに儒家の強調するところとなるが,この愛は無差別の博愛ではない。まず家族を愛し,つぎに国家,さらに国家の集合である天下へと愛情の輪をしだいに拡大してゆく。愛は段階的に〈近きより遠くへ及ぶ〉べきものであり,なんじの敵を愛せよ,といった発想は儒教にはない。これに対して墨子は〈兼愛〉すなわちすべての者を無差別に愛せよ,と主張した。これは儒家の説く仁,すなわち家族や国家という共同体を本とする愛とは異質であり,むしろその否定の上に成立する人類愛である。親疎遠近の区別を設けない,無差別の愛を,孟子は〈己の親と他人の親を区別しないのは,禽獣の愛である〉と激しく非難している。〈兼愛〉無差別の人類愛は,中国にはなじまないのか,あるいは墨子のように宗教の裏づけがあって初めて可能なのか,秦漢帝国の成立とともに急速に衰滅してしまった。
執筆者:

漢訳仏典には,大別して煩悩の汚れをおびた愛と煩悩の汚れをおびない愛の2種がある。前者は,恩愛,渇愛,貪愛,欲愛,愛着などと熟して用いられて,もっぱら煩悩の側面を表し,十二因縁の一つたる愛もこの意味である。したがって,仏典においては,そのような盲目的執着をなくせ,と説いている。後者は,法愛,愛楽(あいぎよう),慈愛,また愛語などと熟して用いられるもので,このような意味での愛は,仏教語としては,むしろ〈慈悲〉の語で適切に言い表されることが多い。したがって,中国仏教の展開にあたっても,〈愛〉をしりぞけ〈慈悲〉をすすめるのが一般であった。たとえば《弘明集(ぐみようしゆう)》に収められている釈玄光の〈弁惑論〉には,ゆらい人間は色塵には染まりやすく,愛結(ぼんのう)は消しがたいものであるとあり,劉勰(りゆうきよう)の〈滅惑論〉には,妻は愛累(貪愛のわずらい)であり,愛累は神(こころ)を傷つけるから愛を滅さねばならぬ,と説いている。
執筆者:

歴史的に〈愛〉は日本語本来のことばではなく,中国から輸入された,いわゆる漢語である。この事実は,日本語が,もともと,〈愛〉とか〈愛す〉という語を,ことばとして所有していなかったことを物語っている。〈愛〉あるいは〈愛す〉という気持ちを表現する必要があれば,古くは,和語に依存して,名詞〈おもひ〉,動詞〈おもふ〉を用いたこと,たとえば〈にくむ〉の反対語として動詞〈おもふ〉をあげた《枕草子》第71段の記事によってもうかがうことができよう。《枕草子》と並んで,《源氏物語》にも,〈愛〉〈愛す〉の語は1例も使用されていない。

 このように平安女流文学においては,〈愛〉〈愛す〉が使用されていないのに対して,平安末期の仏教説話集《今昔物語集》では,これらの語が頻用されている。しかし,この現象は,必ずしも時代の新古のみによるものとは考えられない。院政時代の古訓集成とも称すべき《類聚名義抄》に,〈寵〉〈恩〉〈恵〉〈寛〉等々の漢字をアイスという語で読むことが示されている以上,漢文訓読の世界では,相当はやくより〈愛す〉という語が普及していたことを推測させる。

さかのぼって,《万葉集》巻五,山上憶良〈思子等歌一首〉の前に置かれている〈釈迦如来,金口正説,等思衆生,如羅睺羅。又説,愛無過子,至極大聖,尚有愛子之心,況乎世間蒼生,誰不愛子乎〉という漢文の序も,〈愛は子に過ぎたりといふこと無し。至極の大聖すらに,なほし子を愛する心有り。況んや世間の蒼生,誰か子を愛せざらめや〉というふうに,当初から,〈愛〉を字音語のまま読んでいた可能性が強い。

 憶良の〈思子等歌〉は子に対する愛を切切と訴えた名歌として知られている。〈瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ〉。しかし,憶良は,このような絶ちがたい子への愛が,釈迦の戒めた煩悩にほかならないことを十分に知っていた。仏教の知識を踏まえて述作された漢文の序は,その線に沿って,〈愛執は子に勝るものはなく〉〈無上の聖人でさえ,子に愛着する心はある。まして,凡人たるもの,子に愛着せずにいられようか〉という意であったと解される。

 儒教における〈愛〉は〈ネンゴロニシタシム心〉(《和漢新撰下学集》)であったが,仏教において,〈愛〉は〈十二因縁〉の一つであり,因果応報の理をまぬかれない。〈愛〉にもとづく後世の悪報は,《今昔物語集》の説話の随所に力説されている。あるいは,わが子を溺愛した罪のために馬身と生まれた親。あるいは,庭前の橘を愛した罪によって小蛇の身を受けた男など。《今昔物語集》がとりあげた〈愛〉は,以上のごとき仏教的見地から見た悪念としての〈愛〉であるが,この考え方は,仏教色の濃厚な中世文学の全般を覆っている。たとえば,〈法華を行ふ人は皆 忍辱鎧を身に着つつ 露の命を愛せずて 蓮の上にのぼるべし〉(《梁塵秘抄》)。

 仏教思想による〈愛〉は,男女間においては愛欲,そのもっともいまわしい形態は性愛であると考える。動詞の〈愛す〉も,したがって,中世以降,しばしば性愛の行為をさして使用される場合があった。〈愛〉は,単なる心理ではなく,肉体の生理と直結していたのである。このような用法が普及するに及んでは,〈愛〉という語に神聖な意味・感情を与えることは,きわめて困難となる。室町末期,キリシタンの宣教師が,キリスト教の〈愛〉を説こうとして,本邦の〈愛〉という語を採用しなかった理由はこの点に求められる。彼らは,伝道の便宜上,仏教的な漢語を意識的に多量に導入したが,〈愛〉の語だけは忌避した。彼らは,日本にあって好ましからざる意味を持つ〈愛〉の語を避け〈大切〉〈御大切〉という語を代りに使用した。キリスト教における〈愛〉の概念が,漢語〈愛〉によって示されるようになったのは,明治初年以後のことである。

しかし,日本人の精神構造のなかには,元来,キリスト教におけるような,神と人との間の,また,人と人との間の対等の〈愛〉を理解しうる地盤がない。近代の日本人は,なまじ,キリスト教を通じてヨーロッパ系の〈愛〉を輸入したために,われわれの内部に定着しうべくもない〈愛〉の実在を錯覚してしまった。《近代日本に於ける“愛”の虚偽》と題する論文を書いた伊藤整が,〈心的習慣としての他者への愛の働きかけのない日本で,それが愛という言葉で表現されるとき,そこには,殆んど間違いなしに虚偽が生まれる〉〈男女の結びつきを翻訳語の〈愛〉で考える習慣が日本の知識階級の間に出来てから,いかに多くの女性が,そのために絶望を感じなければならなかったろう〉と慨嘆したのは,まさにその意味においてであった。
執筆者:

愛とは,自分にとって価値のある対象を慕い,いつくしみ,またはそれに引きつけられていく精神的過程と考えることもできよう。対象の種類により,隣人愛,友愛,人類愛,祖国愛,真理への愛,神への愛など,さまざまの愛がなりたちうるが,その基本は異性間の愛情にあると思われる。ただし,S.フロイトによると,この〈異性愛〉もはじめからそういうものとして成立するのではなく,幼児が自分の指を吸う行為などにみられるように,まず自分自身の身体を対象とする〈自体愛(オートエロティズム)〉として芽生えたのち,自己という存在全体にむけられて〈自己愛〉へとすすむ。水面に映った自分の姿にあこがれ,水に落ちておぼれ死ぬギリシア神話の美少年ナルキッソスの場合がこれで,その名にちなみ,〈ナルシシズム〉とも呼ばれるが,成長後も,ある種の神経症や精神病では,退行してこの状態を再現することがある。ふつうは自他の分離の完成とともに,自分以外の他者が愛の対象として選ばれるようになるが,その場合でも〈同性愛〉の段階をへて初めて〈異性愛〉という最終的な愛の様態に到達する。とはいえ,精神分析では,愛の基底に性衝動(リビドー)の発達過程を想定しており,したがって〈愛〉というより〈性愛(セクシュアリティ)〉と呼ぶのがふさわしく,こうした考え方に対して,フロイトは〈愛〉のなかに性欲の二次的上部構造しか見ていないというM.シェーラーの批判や,彼の自然科学的・機械論的体系が〈愛〉をはじめから奇形化してしまったというM.ボスの反論などもある。

 シェーラーやボスをふくめて〈愛〉を人間と人間の人格的な関係とみるのが現象学派や人間学派で,たとえば実存分析のV.E.フランクルによると,〈愛する〉とは,交換可能で無名(アノニム)な対象でなく,〈汝〉と呼べる相手の価値をその一回性と独自性において肯定することを指し,その意味で〈愛は盲目〉などでありえない。こうした〈我〉と〈汝〉を結ぶ愛の両数的様態はL.ビンスワンガーでも強調され,すなわちこの様態のなかで〈我〉と〈汝〉はともにみずからの豊かな可能性を実現するだけでなく,世界の無限性と永遠性に参与すると説かれる。〈愛〉がその本質として超越的契機を含むことは明らかで,この点は〈具体的なものを通して絶対者と全体者に向かう運動〉というK.ヤスパースの〈愛〉の規定にもうかがえる。

 こうした〈愛〉の可能性が自己中心的なせばまりや孤立の不安によって隠蔽されるようになると,そこにさまざまな〈性〉の障害が現れてくる。サディズムマゾヒズム,露出症,フェティシズム,のぞきなどの〈性倒錯〉がそれで,これらは〈性〉の衝動性の次元に還元すべき性質のものではない。ただし,〈愛〉の原理が近代資本主義社会の根底にある交換や消費の原理と両立しにくいことも確かで,新フロイト派のE.フロムは現代社会ではその矛盾を象徴するような〈愛〉の病理がすでに進行しつつあると警告している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「愛」の意味・わかりやすい解説


あい

愛は文学、道徳、哲学、宗教いずれの観点からいっても、もっとも根本的な観念の一つである。とりわけ、キリスト教の文化圏ではこの観念をめぐって思想が展開していった。東洋にも、「仁」とか「慈悲」という思想がある。孔子(こうし)(孔丘(こうきゅう))の「孝悌(こうてい)は仁の根本である」ということばからもわかるように、仁は親子兄弟という血縁に根ざす親愛感に発するもので、この感情を無縁の人にまで広げていくことが仁道である。孟子(もうし)(孟軻(もうか))は「惻隠(そくいん)の心は仁の端(はじめ)なり」(『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)・第29)と説き、人を慈しみ、哀れむ同情の心から愛への展開を論じている。墨子(ぼくし)(墨翟(ぼくてき))は「天下互いに兼愛すべし」(『墨子』兼愛篇(へん))と主張し、親族と他人を区別しない平等の愛を唱えた。仏教でいう「慈」は真実の友情で、「悲」は哀れみ、優しさを意味する。両者はほとんど同じ心情をさしており、中国や日本では、慈悲という合成語で一つの観念として表される。親鸞(しんらん)は仏の広大無辺な慈悲を太陽の光に例え、人間を超えて一木一草に至るまで仏の大慈大悲に浴するものとみなした。作家伊藤整(せい)によれば、「他者を自己とまったく同じには愛しえないがゆえに、憐(あわ)れみの気持ちをもって他者をいたわり、他者に対して本来自己がいだく冷酷さを緩和する」というのが東洋的な知恵のあり方で、この考えから、孔子の「己の欲せざるところを人に施すなかれ」という教えが出てくるのだという。他人を自分と同じに愛することの不可能が自明の前提になっていて、そこから相互に相手を哀れみ、いたわりあう愛が生まれてきたというわけである。キリスト教はこの不可能に挑戦し、「己のごとく汝(なんじ)の隣人を愛すべし」と命じる。イエス・キリストは十字架の死によって、真の愛は自己を犠牲にしなければ達成することができないことを自ら示した。そういう絶対の愛が原型として考えられていたからこそ、常人には不可能と思われる厳しい生き方が命じられたのであろう。

 ギリシア語では愛は、エロスerōsとアガペーagapēとピリアphiliaという三つの語によって示される。これらは、愛にとって本質的な三つの位相をそれぞれ指示しているように思われる。エロスは情愛に根ざす情熱的な愛で、哲学者プラトンの『パイドロス』でいわれるように、しばしば狂気の姿をみせ、究極的には一者と合一し、真実在に溶け込むことを求めている。地上において肉体的生存を続けている限り、神的なものとの一体化を実現することはできないから、忘我恍惚(こうこつ)を求め続けていけば、エロスは必然的に死と結び付く。エロスの哲学者プラトンが生涯、真実在との出会いを求め続けたあげく、「生より死が望ましい」という一見奇怪な結論に達したのは、その意味では当然の成り行きであった。

 キリスト教的なアガペーの愛は、こういうエロスの愛と根本的に相違する。神と人間との間には、哲学者キルケゴールが「無限の質的差異」と名づけたものが介在する。だから神と人間との融合も、実体的合一もおこりえない。ただあるのは、神と人との交わりである。神と人とは絶対の深淵(しんえん)によって隔てられていながら、どうして交わることができるのであろうか。そこにこそ、イエスの真の存在意義が認められる。イエス・キリストはいわば、神と人間との仲保者であった。神の子イエスがこの地上に人間の肉において生まれたということが、いわば神の愛の唯一の証(あかし)である。「われわれはイエス・キリストによってのみ神を知る。この仲保者がないならば、神とのあらゆる交わりは断ち切られる」(パンセ)。そういうアガペーの愛にあっては、自我の神に向かう高まりも、熱狂的解体もない。神と人との間の交わりが可能となるためには、二つの主体が向かい合って存在しなければならない。同様に、人と人とが向かい合って存在することによってのみ、隣人としての愛の交わりも可能となるのである。

 ピリアの愛も、相互に独立な理性的存在者の間に成り立つ友愛である。哲学者アリストテレスによれば、人は「自分自身と同じ考えをもち、同じ事柄を望む人」や「自分自身とともに悲しみ、ともに喜ぶ人」を愛するという。つまり、親が子を愛するように、自分自身と等しい者を愛するということで、ピリアの愛は結局、利己愛に帰着する。利己愛に堕さないようにするためには、志を同じくしない者でも、あるいは愚者や悪人をも愛さなければならない。それには、ピリアの愛がアガペーにまで高まる必要があるだろう。だが、神ならぬ身で人類すべてを平等に愛することができるはずがなく、それを実践していると自称すれば、たちまち偽善に陥る。けっして偽善に陥ることのない愛は、自己愛的なエロスのみで、ピリアは、エロス的要素を失う度合いに応じて、虚偽の愛に陥りがちとなる。こうしてピリアの愛は、アガペーとエロスの両極の間を揺れ動くことになる。

[伊藤勝彦]

『プラトン著、藤沢令夫訳『パイドロス』(岩波文庫)』『アリストテレス著、高田三郎訳『ニコマコス倫理学』(岩波文庫)』『伊藤整著『近代日本人の発想の諸形式』(岩波文庫)』『今道友信著『愛について』(講談社現代新書)』『伊藤勝彦著『愛の思想史』(1980・紀伊國屋書店)』『伊藤勝彦著『夢・狂気・愛』(1977・新曜社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「愛」の意味・わかりやすい解説


あい
love

愛は人間の根源的感情として,全人類に普遍的であり,人格的な交わり,あるいは人格以外の価値との交わりを可能にする力である。ときに憎しみの対立概念とみなされることがあるが,根源的な生命的原理としては,それをも包括するものである。愛は歴史的に,地理的に,さらには交わりの形において諸相をとる。古代ギリシアにおける愛はエロスと呼ばれ,これは肉体的な愛からさらに真理へいたろうとする憧憬,衝動を含んでいる。キリスト教における愛すなわちアガペーは,人格的交わり (隣人愛) と神への愛を強調し,これを最高の価値として自己犠牲により到達されるとした。ルネサンスにおいて愛は再び人間謳歌の原動力ともみなされたが,これは愛の世俗化を意味するものともみられ,工業化の進む現代はその傾向をますます強めている。愛は人間の根源的感情であるところから,ヒンドゥー教でのカーマ,儒教における,仏教における慈悲などすべての文化圏にもみられる。また愛の現れ方は一様ではなく,性愛や友愛,愛国心,家族愛など交わりの諸相によって異なる。交わりの関係がかたよった場合には,異常性愛や憎しみに近い偏執的愛に変ることもあるが,これはもはや本来的な愛とはいえない。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【イタリア文学】より

…なぜなら,俗語によって神の教えを説いたこの詩集は,何よりもまず,ラテン語文献の本拠とも呼ぶべき教皇庁に向かって発せられた批判の書であり,アッシジの貧者が傾きかけた精神の教会を支えようとする強い意志の改革者であることは,あまりにも明らかであるからだ。一方,吟遊詩人たちがオック語やオイル語(フランス語)の文学を北イタリアにしきりにもたらしているころ,プロバンスの恋愛詩を積極的に取り入れ,俗語詩を真っ先に開花させたのは,シチリアのホーエンシュタウフェン家の宮廷であった。フェデリコ(フリードリヒ)2世はパレルモの宮廷に各地から人材を集め,みずからも詩を書いたが,それは決して王侯の手慰みではなかった。…

【エンペドクレス】より

…彼の哲学を解釈するにあたって,もっとも大きな問題はこの二つの著作の関係である。《自然について》は地水火風の四元素(四大)と,愛と憎という二つの力とを中心にして展開する宇宙論である。愛は四元素を結合する力,憎は分離する力であるが,この二つの力の勢力の消長交代によって宇宙は四つの時期に区分されながら永遠に回帰する。…

【仁】より

…孔子が仁を自己の思想の核心を表現する概念として定立してより,孔子学派では〈人間らしさの極致〉を表徴する最高の徳目となった。仁の内容について孔子自身いろいろに説くが,〈己立たんと欲して人を立てる〉ことと説かれ,〈己の欲せざる所は人に施すことなかれ〉という〈恕(じよ)〉の精神をうちに含む愛を基本として,〈人を愛する〉ことと一般化される。儒家は愛に差等を設けることを是認するから,子の親に対する愛である〈〉の実践が仁を実現する第1段階であるとされ,身近なものへの愛から出発して,その愛の及ぶ範囲を順次拡大してゆけば,終極的には人類愛に到達すると考える。…

【仏教】より

… 同じ内容を組織的に説いたのが,前述の〈四諦〉である(諦は真実,真理の意)。教理上の説明を加えると,(1)苦諦(くたい) 人生には生老病死の四苦のほか,愛(いと)しい人に別れ,怨み憎しみある者に出会い,求めるものは得られず,この身は無常な諸要素(五蘊(ごうん)――肉体(色)と感覚(受),表象(想),意思(行),認識(識)の諸心理作用)の集合にすぎない,という合計8種の苦悩がある。(2)集諦(じつたい) この苦を集め起こすもの,つまり苦の原因としては,煩悩と総称される心のけがれ(むさぼり,にくしみ,無知など)がある。…

※「愛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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