ネルチンスク条約(読み)ねるちんすくじょうやく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネルチンスク条約」の意味・わかりやすい解説

ネルチンスク条約
ねるちんすくじょうやく

1689年に清(しん)とロシアがネルチンスクで結んだ条約。清がヨーロッパ諸国と結んだ、最初の対等の条約である。17世紀中ごろからロシア人が黒竜江(アムール川)方面に進出してきたので、清との間に紛争が絶えず、清はロシアに対し1670年ごろから逃亡者の引渡しを求め、1680年代に入るとさらにロシア人の撤退を求めたが、ロシアはこれに応ぜず、ついに清軍がアルバジン城を囲んだ。そこでロシアは清と和を講ずるためゴロビーンを派遣し、彼と清の索額図(ソンゴトウ)がネルチンスクに会してこの条約を結んだ。条約締結に成功したのは、ロシアは清と国交を開いて交易を行うことを望み、清はロシアと講和してモンゴルで威を振るうジュンガルガルダンを孤立させることを望んだためであり、さらに清の全権団にラテン語通訳として同行した2人のイエズス会士ペレイラとジェルビヨンの周旋に負うところも多い。

 調印は9月7日(陰暦7月24日)で、要点は次のとおりである。(1)境界はアルグン川、シルカ川に注ぐゴルビッツァ川、石の山(外興安嶺(こうあんれい))とする。ただし、海に注ぐウディ川と外興安嶺の中間の地は未決定とし、後日決定する。(2)アルグン川南岸のロシア人の家屋は北岸に移し、アルバジンの城塞(じょうさい)は破壊し、すべてを撤去する。(3)不法越境を禁止し、違反者は本国官憲が引渡しを受け、罪の軽重に応じて処罰する。(4)過去の逃亡者は不問に付すが、将来はすべて捕らえて引き渡す。(5)旅券を持つ者は往来と交易を許される。(6)条約を守る。また条約文を刻した石碑を境界に建ててもよい。

 なお、調印の際、清の全権は、破壊したアルバジンの地には永久に建造物を設けず、住民を置かないと誓約したとロシア側はいうが、清は否定した。

 条約締結後、ロシアの隊商の北京(ペキン)貿易が隆盛になるが、通商と外交の関係が不明確であった。未決定部分の境界は長い間放置されてきたが、1858年のアイグン条約で黒竜江を境界と定める際の口実に利用される結果となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。後年ソ連では、この条約は清軍の強圧のもとで結ばれ、批准条項を欠き、現地での境界設定がなかったと批判し、欠陥条約視した。

[吉田金一]

『吉田金一著『近代露清関係史』(1974・近藤出版社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ネルチンスク条約」の意味・わかりやすい解説

ネルチンスク条約
ネルチンスクじょうやく
Treaty of Nerchinsk

1689年ロシアと清国との間に初めて締結された国境画定のための条約。 16世紀末イワン4世 (雷帝) の晩年以来モスクワ公国はコサックによるシベリア征服を推し進めてきたが,17世紀中葉 E.P.ハバロフの率いる軍隊がアムール川流域に進出しその地を征服してから,そこの先住民より貢租を徴収していた清国勢力と衝突するようになった。同世紀後半を通じて数度の戦闘が両国間に交えられたが,1680年代の「六年戦争」ののち,ともに平和的解決を望むようになり,ロシアの要塞ネルチンスクにおいて長い交渉が行われた。その結果,両国は外興安嶺とエルグン川,シルカ川支流のゴルビツァ川の線を国境と定めることで同意に達した。この条約により,モスクワはアムール低地を清国に明渡し,以後 19世紀後半にいたるまでアジアでの南進をはばまれたが,清国との貿易関係を樹立することができた。

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