ロシア社会民主労働党のなかで、当面する革命をブルジョア革命であると考え、そのために広範な大衆的基盤にたつ幅広い活動家を集めた党の建設を目標としたグループ。メンシェビキは少数派の意で、ボリシェビキ(多数派)と対立した。当初、マルトフ、プレハーノフらを理論的指導者とした。1903年のロシア社会民主労働党第2回大会の党人事問題で、レーニン派と対立したマルトフ派が少数派となったため、のちにメンシェビキとよばれるようになった。ボリシェビキとの対立は、組織問題から綱領、戦術問題にまで及び、1906年の統一党大会でも、「1905年革命」の敗北をプロレタリアートの孤立化に求め、ブルジョア民主主義派との提携を主張している。第一次世界大戦が始まると、戦争に対する態度の問題で、メンシェビキ内は祖国防衛戦争を支持するプレハーノフ派、反戦国際主義を主張するマルトフらの少数派などに分裂した。1917年の二月革命後は、中央派がSR(エスエル)党とともにソビエト内で多数となり、5月には自由主義者との連立に踏み切って、第二次臨時政府に参加したが、同年の十月革命前後には大衆に対する影響力を失った。メンシェビキは十月革命に反対し、その一部はシベリアなどの反ソビエト派政府に参加したが、1921年、メンシェビキの指導するジョージア(グルジア)政府の崩壊により、国内での基盤を喪失した。
[藤本和貴夫]
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…(5)社会主義への道 1892年最初の社会主義グループ〈メサメ・ダシ(第三グループ)〉が結成された。後のザカフカスのメンシェビキ,ボリシェビキの指導的活動家の多くがこの組織から出発した。1902年のバトゥーム・ストライキ,03年のロシア南部のストライキなど労働運動が展開された。…
…その後,ロシア・マルクス主義の父とよばれたプレハーノフらは若手のレーニン,マルトフらとともに新聞《イスクラ》に拠って本格的な革命政党の形成をめざし,1903年の第2回党大会以前から合法マルクス主義や経済主義の各潮流と対立関係にあった。しかし,この大会では党規約第1条をめぐって,西ヨーロッパ型の大衆政党を志向するマルトフと,少数の前衛的革命党観を有するレーニンとの間に対立が生じ,前者を支持する少数派(メンシェビキ)と多数派(ボリシェビキ)との分裂が生じた。その後プレハーノフらがメンシェビキを支持したため,レーニンらは《イスクラ》から離れ,《フペリョードVperyod(〈前進〉の意)》紙を創刊し,独自な潮流としてのボリシェビズムができあがる。…
…地主たちは一時は領地放棄を考えたが,やがて実力自衛策をとり,全体として右翼化する。 12月2日,ペテルブルグ・ソビエト,農民同盟,社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ),エス・エル党,ポーランド社会党の6者が,国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉を発すると,態勢を立て直し弾圧の機をうかがっていた政府は,翌日,ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕した。12月7日モスクワで始まった大抗議ストに対し,当局は武装自衛隊に攻撃をしかけ,バリケードをつくって抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕した。…
…大会には数千名のメンバーをかかえる26組織の代表57名が参加,21日間の日程で綱領,規約,戦術などをイスクラ派優位の中で決定した。しかしブンドと経済主義者は中途で退場し,イスクラ派も党組織問題で,党員を職業革命家に限ろうとするレーニンらボリシェビキ派と大衆的労働者党を主張するマルトフらメンシェビキ派に分裂した。レーニンの《何をなすべきか》(1902)の見解表明以来党内に芽生えた対立がここに公然と衝突したのである。…
※「メンシェビキ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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