リヒター(読み)りひたー(英語表記)Adrian Ludwig Richter

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リヒター」の意味・わかりやすい解説

リヒター(Gerhard Richter)
りひたー
Gerhard Richter
(1932― )

ドイツの画家。ドレスデンに生まれる。1948年から舞台や看板のデザインを学びはじめ、58年ドレスデンの美術学校に入学、主に写実主義的な絵画を学ぶ。看板のデザインや写実主義芸術は、旧東ドイツのような社会主義国家では、大いに奨励された芸術だった。

 59年、旧西ドイツのカッセルで開かれていた第2回ドクメンタを見たことを機に当時の前衛に目覚め、同時に西側に渡ることを決意した。61年、西ドイツのデュッセルドルフに移住。同地の芸術アカデミーに学び、ここで後にそれぞれドイツを代表する芸術家となるジグマール・ポルケ、コンラート・リュークKonrad Lueg(1939―96、後コンラート・フィッシャーFischerと改名)らと出会う。またヨーゼフ・ボイスの存在を知る。

 63年、リューク、ポルケと協同でパフォーマンス作品『ポップのある生活――資本主義リアリズムのための示威行動』を発表。「資本主義リアリズム」とはもちろん「社会主義リアリズム」のパロディーであり、しかもそれを「社会主義リアリズム」の本場から来た画家が唱えるという、アイロニーに満ちた作品だった。

 同時に、このころから「写真絵画」と呼ばれる独自の絵画を制作し始める。それは新聞や雑誌などに掲載されたありきたりの写真を選んで、それを写真でいうブレやボケを模しながら拡大し、カンバスに描き写すものだった。これらの作品でわかるように、リヒターは純粋に絵画を目指していたというよりは、ネオ・ダダ的、あるいはポップ・アート的な表現の一つとして、絵画を選択していたのである。

 かつて「絵画を死に追いやるもの」といわれた写真を絵に描いたことに見られる、リヒターの絵画に対する屈折した態度は、その後の長い期間にわたる彼の作品制作にも一貫している。1960年代末には全面が灰色で塗りこめられた「灰色」シリーズ、そして70年代後半からは「抽象絵画」シリーズの制作が始まる。無味乾燥な前者はもちろん、後者も一般的な抽象絵画とは違って、写真のブレやボケを含んだ抽象絵画、写真と絵画が混在しているような作品となっている。しかも、現代画家の多くが具象から抽象へと自作を変化させてゆくのから距離をとって、リヒターは「抽象絵画」シリーズと並行して「写真絵画」も制作している。さらにその後も、鏡やガラスなどを使った立体作品、また写真に抽象絵画の要領で油絵の具を塗りつけた「オイル・オン・フォト」など、いくつかのシリーズを加えながら、複数のスタイルの作品を同時並行的に制作した。

 リヒターの作品のなかには、よりコンセプチュアル・アートに接近したものもある。「写真絵画」のもとになった写真を含む、自身の膨大な写真コレクションを一堂に展示する『アトラス』(最初の発表は1972)、そして西欧の重要な芸術家、作家、哲学者、建築家らの生没年を一覧表にした『調査』(1998)などである。いずれも社会や歴史といったものに対するこの芸術家の洞察が表れている。

[林 卓行]

『ゲルハルト・リヒターほか著、清水穣訳『ゲルハルト・リヒター――写真論/絵画論』(1996・淡交社)』『市原研太郎著『ゲルハルト・リヒター――ペインティング・オブ・シャイン』(1993・ワコウ・ワークス・オブ・アート)』『清水穣著『ゲルハルト・リヒター――オイル・オン・フォト、一つの基本モデル』(2001・ワコウ・ワークス・オブ・アート)』


リヒター(Burton Richter)
りひたー
Burton Richter
(1931―2018)

アメリカの物理学者。ニューヨークに生まれる。マサチューセッツ工科大学(MIT)で物理学を学び、1952年に卒業、1956年同大で理学博士号を取得した。その後、スタンフォード高エネルギー物理学研究所に入所、1963年スタンフォード線形加速器研究所(SLAC:Stanford Linear Accelerator Center)に移り、1967年にはスタンフォード大学教授となった。1984年にSLACの所長に就任している。1975年にジュネーブのヨーロッパ原子核研究機構(CERN(セルン))に行き、1年間研究した。

 MIT在学時代には加速器サイクロトロンを用いて水銀のアイソトープの同位体交換や微細構造を研究した。やがて、素粒子物理学に興味を抱き、スタンフォード高エネルギー物理学研究所でγ(ガンマ)線による電子・陽電子対の研究を行った。その後、SLACにおいて高エネルギー電子・陽電子衝突装置(SPEAR:Stanford Positron Electron Asymmetric Ring)を設計、建設し、素粒子の研究を続けた。1974年に新種の重い素粒子を発見、ψ(プサイ)粒子と名づけたが、この粒子は4番目のクォークであるチャームクォークの存在を実験的に証明するものであった。ほぼ同時にティンが同じ粒子を発見してJ粒子と名づけていたため、のちにJ/ψ粒子とよばれた。「新種の重い粒子(J/ψ粒子)の発見」により、1976年ティンとともにノーベル物理学賞を受賞した。

[編集部 2018年8月21日]


リヒター(Jeremias Benjamin Richter)
りひたー
Jeremias Benjamin Richter
(1762―1807)

ドイツの化学者。ヒルシュベルク(現、ポーランドのイェレニャ・グラ)の商人の子。1778年軍の土木部隊に入隊、化学を独学。1785年ケーニヒスベルク大学入学、数学を学ぶ(1789年、博士)。ブレスラウの鉱山局(1795)やベルリン磁器製作所(1798)に化学技術者として勤務。化学結合における量的割合測定に精励し、化学量論という概念を提唱した。『化学量論の基礎』(1792~1794)において、一定量の塩基を中和する酸量とその逆の値を求めた。また、二つの中性塩が中性の他の塩に複分解し、前者から後者の組成が算出できることも示した。ここには定比例の法則が含まれており、中和表は最初の当量表であった。この重要性は、フィッシャーErnst Gottfried Fischer(1754―1831)の紹介(1802)により認められるようになった。

[肱岡義人]


リヒター(Hieronymus Theodor Richter)
りひたー
Hieronymus Theodor Richter
(1824―1898)

ドイツの鉱物化学者。ドレスデンの生まれ。フライベルク鉱山学校に学び、1871年同校教授、1875年校長となる。助手時代の1863年、色覚異常であった教授のライヒを助け、分光分析によって青色スペクトルを放つインジウムを発見し、その単離にも成功した。吹管分析に優れた試金家であった。

[内田正夫]


リヒター(Karl Richter)
りひたー
Karl Richter
(1926―1981)

ドイツのオルガン奏者、指揮者。ライプツィヒ音楽院でオルガンを学び、1949年有名な聖トマス教会のオルガン奏者に任じられた。51年旧西ドイツに移ってミュンヘン聖マルコ教会オルガン奏者となる。同年ミュンヘン・バッハ合唱団を、55年同管弦楽団を組織し、その指揮者としても活動、ほどなくこれらの団体を世界的に知られるものに育て上げた。69年(昭和44)両団体と初来日。さらにミュンヘンとアンスバッハで開かれるバッハ音楽祭の音楽監督を務めるなど多彩な活動を展開した。リヒターの生み出すバッハは、緊張感に富む劇的な一面と叙情的・ロマン的な一面をあわせもち、第二次世界大戦後のバッハ演奏に一時期を画した、と評されている。

[岩井宏之]


リヒター(Eugen Richter)
りひたー
Eugen Richter
(1838―1906)

ドイツ第二帝政期の政治家。死去するまで、プロイセン議会・帝国議会議員を務め、ドイツにおける職業政治家の最初の一人でもあった。進歩人民党に属し、財政専門家として頭角を現し指導者となる。自由主義の原則の立場から、帝国政府の中央集権的政策を激しく攻撃、議会におけるビスマルクの論敵として名をあげ、政治評論活動を通じ、当時もっとも知名度ある政治家であった。1884年左派自由主義政党を統一して自由思想家党を結成したが、彼の独断的指導への反発から党は1893年に再度分裂した。その後自由思想家人民党を組織したが、実際の政治的影響力は低下した。

[木村靖二]


リヒター(Hans Richter、画家、実験映画制作者)
りひたー
Hans Richter
(1888―1976)

ドイツ生まれの画家、実験映画制作者。ベルリンで生まれる。初めキュビスムの影響を受ける。1916年チューリヒ・ダダに加盟。19年以降スウェーデンの画家エッゲリングViking Eggeling(1880―1925)とともに音楽的な主題による抽象的デッサンの絵巻物、『プレリュード』(1919、ニュー・ヘブン、エール大学)、『赤と緑のフーガ』(1923、ニューヨーク、H・リヒター遺産)などをつくる。この試みをさらに発展させて、21年完全に抽象的な最初の実験映画『リズム21』を制作した。23~26年ベルリンでデ・ステイルの刊行物・雑誌『G』の共同発行者として活躍。41年ナチスに追われてアメリカに亡命、デュシャンエルンスト、マン・レイらと交流し、シュルレアリスム風の映画『金で買える夢』(1944~47)、『8×8』『ダダスコープ』(1960)をつくった。スイスのロカルノ近郊ムラルトで没。

[野村太郎]


リヒター(Adrian Ludwig Richter)
りひたー
Adrian Ludwig Richter
(1803―1884)

ドイツの画家、版画家、挿絵画家。ドレスデンに版画家カール・アウグストCarl August R.(1770―1848)の子として生まれ、父に版画を学ぶ。出版社の奨学金を受けてイタリアに赴き、同地でコッホJoseph Anton Koch(1768―1839)について油彩を学ぶ。1836年ライプツィヒの出版社と契約を結び、60年代までに2500点に近い挿絵を制作した。それらは主としてドイツの民話・童話に取材した木版画で、ユーモアを交えた優雅な作風は、19世紀におけるもっとも国民的な画家として広くドイツの家庭で親しまれた。油彩では、イタリアとドイツの細密な風景を描いた。回想録『あるドイツ画家の思い出』(1885)がある。ドレスデンで没。

[野村太郎]



リヒター(Hans Richter、指揮者)
りひたー
Hans Richter
(1843―1916)

ハンガリーの指揮者。ウィーン音楽院で作曲、バイオリン、ホルンを学ぶ。ホルン奏者として活動ののち指揮に転じ、ミュンヘン、ブダペスト、ウィーンの各歌劇場指揮者を務めた。1876年バイロイト祝祭劇場の杮落(こけらおと)しでのワーグナー『ニーベルングの指環(ゆびわ)』全曲初演を指揮。75~98年ウィーン・フィルハーモニー、97~1911年ハレ管弦楽団、1904~11年ロンドン交響楽団の指揮者として活躍。ワーグナー、ブルックナーブラームスの作品の紹介と普及に尽力した19世紀後半の名指揮者。

[岩井宏之]


リヒター(Hans Werner Richter、作家)
りひたー
Hans Werner Richter
(1908―1993)

ドイツの作家。ウーゼドム島(北東ドイツ)生まれ。第二次世界大戦に招集され、俘虜(ふりょ)生活を体験。1946年、A・アンデルシュと文学雑誌『叫び』を発刊。理想主義的で忌憚(きたん)のない主張のため、翌年、占領軍から禁止されると、文学の零からの再出発を志向する作家を集め「グループ47」(47年グループ)を組織。戦後30年間西ドイツ文学の主流となるこの集団のまとめ役をつとめたほか、『敗者たち』(1949)以下、一連の反戦的長編小説を発表。

[高辻知義]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リヒター」の意味・わかりやすい解説

リヒター
Richter, Charles Francis

[生]1900.4.26. オハイオ,ハミルトン近郊
[没]1985.9.30. カリフォルニア,パサディナ
アメリカの地震学者。スタンフォード大学物理学科を卒業後,1928年にカリフォルニア工科大学で学位取得。 37~70年同大学地震研究所教授。地震マグニチュードに関するスケールの1つ,リヒタースケール (震央から 100km離れた位置に置かれた特定の地震計が示す最大振幅をμm〈マイクロメートル〉単位で測った値の常用対数) を考案 (1935年) 。北アメリカの地震の巣といわれる南カリフォルニアを監視,B.グーテンベルクとともに地震のエネルギーや規模に関する研究を続け,地震エネルギーとマグニチュードとの関係を表すグーテンベルク=リヒターの式を見出すなど,地震の定量的把握と研究の基礎を与えた。第2次世界大戦後の 59年,フルブライト交換教授として来日し東京大学地震研究所に滞在した。

リヒター
Richter, Burton

[生]1931.3.22. ニューヨーク,ニューヨーク
[没]2018.7.18. カリフォルニア,スタンフォード
アメリカ合衆国の物理学者。マサチューセッツ工科大学に学び,1956年学位取得。同年スタンフォード大学の研究員となり,1967年教授。1974年,スタンフォード線形加速器センター(→SLAC国立加速器研究所)で新素粒子(ψ粒子)を発見した。これは 4番目のクォークチャーム)の存在を示すものである。同時期に,サミュエル・ティンも同じ素粒子を発見し,J粒子と命名。この素粒子は J/ψ(ジェープサイ)と呼ばれ,その業績によって 1976年ティンとともにノーベル物理学賞(→ノーベル賞)を受賞した。

リヒター
Richter, Hans Werner

[生]1908.11.12. バルト海,ウーゼドム島
[没]1993.3.23. ミュンヘン
ドイツの小説家,評論家。第2次世界大戦直後,アンデルシュと協力して雑誌『叫び』 Der Rufを発刊,雑誌そのものは占領軍によって発禁となったが,引続きいわゆる「47年グループ」を創設,以後指導者として数多くの文学者を育成した。作品には,戦争体験を描いた処女作『うちのめされた人々』 Die Geschlagenen (1949) ,自伝的な『砂の中の足跡』 Spuren im Sand (53) ,『白ばら,赤ばら』 Rose weiß,Rose rot (71) ,『ある7月の日』 Ein Julitag (82) など。

リヒター
Richter, Eugen

[生]1838.7.30. ジュッセルドルフ
[没]1906.3.10. ベルリン
ドイツの政治家。左派の自由主義者で,1867年北ドイツ連邦議会 (統一後は帝国議会) ,69年にはさらにプロシアの下院に列し,まもなくドイツ進歩党の領袖となった。 84年に進歩党がドイツ自由思想家党に吸収されると,その指導者となり,93年にその右派が自由思想家連合を結成して離脱するまで,大きな力をふるった。マンチェスター派自由主義の闘士として,ビスマルクの経済政策,社会政策に一貫して反対した。著書に『回想録』 Erinnerungen (2巻,1894~96) などがある。

リヒター
Richter, Karl

[生]1926.10.15. プラウエン
[没]1981.2.15. ミュンヘン
ドイツのチェンバロ・オルガン奏者,指揮者。代々教会のオルガン奏者をつとめる家に生れる。 1946年からライプチヒ音楽院で K.シュトラウベ,G.ラミーンらに師事。 49年聖トマス教会の,51年ミュンヘンの聖マルコ教会のオルガニストとなり,またミュンヘン音楽大学でオルガンを教える。 53年ミュンヘン・バッハ合唱団,55年同管弦楽団を組織,盛んに演奏活動を行なった。師の跡を継いで,カトリックの強いミュンヘンでプロテスタント教会音楽を定着させ,教会カンタータの全曲連続演奏などバッハ演奏の第一人者といわれた。

リヒター
Richter, Jeremias Benjamin

[生]1762.3.10. ヒルシュベルク
[没]1807.4.4. ベルリン
ドイツの化学者。故郷のギムナジウムを卒業後,プロシア軍工兵隊に入隊 (1778) 。のちケーニヒスベルグ大学に入学 (85) ,数学,哲学を学ぶ。シュレジエン地方の鉱山局に技師として勤務,1798年ベルリン磁気製造所に迎えられた。ミュンヘンおよびペテルブルグ科学アカデミー会員。当時としては性急に過ぎる化学の数学的体系化を意図し,化学量論の基礎を築いたが,同時代人にはほとんど顧みられなかった。

リヒター
Richter, Franz Xaver

[生]1709.12.1. ホレシャウ
[没]1789.9.12. ストラスブール
ボヘミアの作曲家。 1740年ケンプテン司教座修道院副楽長,47年マンハイム宮廷楽団に入り,69年以降ストラスブール大聖堂の楽長をつとめた。 J.シュターミツや I.ホルツバウアーと並ぶマンハイム楽派初期の大家。交響曲 69のほか,協奏曲,室内楽を作曲。ストラスブールに移ってからはミサ曲 30ほかの宗教音楽を残した。

リヒター
Richter, Curt Paul

[生]1894.2.20. コロラド,デンバー
[没]1988.12.21. メリーランド
アメリカの心理学者,生物学者。ジョンズ・ホプキンズ大学医学部教授。動物行動の生理的生化学的要因について広範な研究を行い,現代の生理心理学の発展に寄与。主著『医学と精神医学における生物時計』 Biological Clocks in Medicine and Psychiatry (1965) 。

リヒター
Richter, Adrian Ludwig

[生]1803.9.28. ドレスデン
[没]1884.4.19. ドレスデン
ドイツの画家,版画家。ローマにおもむきナザレ派の画家と親交をもった。帰国後 1828~35年マイセン製陶所素描学校教師,36~77年ドレスデン美術学校教授。イタリア,ドイツのロマン主義的な風景画や,小市民の生活を情感をこめて描いたが,特に木版による,物語,童話,詩集などの挿絵を得意とした。

リヒター
Richter, Hans

[生]1888.4.6. ベルリン
[没]1976.2.1. ロカルノ
ドイツ生れのアメリカの画家,映画制作者。 1916年チューリヒのダダ運動に参加。やがて実験映画の制作を始め,1940年代に入るとナチスから逃れてアメリカに亡命。主要作品は絵画『秋』 (1917) ,実験映画『金で買える夢』 (44~47) ,『8×8』 (60) など。

リヒター
Richter, Hieronymus Theodor

[生]1824.11.21. ドレスデン
[没]1898.9.25. フライベルク
ドイツの化学者。フライベルク鉱山学校冶金学教授 (1871) ,同校長 (75) 。 1863年,F.ライヒの助手として分光器を用いた吹管分析により,閃亜鉛鉱中にインジウムを発見,その抽出に成功した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報