十三湊
じゆうさんみなと
[現在地名]市浦村十三
岩木川の河口、十三湖にある中世から近世にかけての港。「十三往来」に「奥州津軽十三湊於新城」とあり、天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「十三湊下郡潟内トモ言フ」とある。
十三の読み方は中世は「とさ」、近世は「じゅうさん」という。その語源については諸説があり、トサはアイヌ語で、トは湖溜水、サは海辺近く広がる意という。またトサがジュウサンとなったのは、三代藩主津軽土佐守信義の土佐守をはばかったためというが、にわかに決めがたい。ジュウサン説として、弘仁(八一〇―八二四)頃の俘囚爾散南の転訛とする説もある(大日本地名辞書)。また昔この地にあった熊野信仰に関係する十三塚に起源を求める説や、この湖に注ぐ川が一三数えられることによるとする説などがある。
「日本書紀」斉明天皇四年夏四月条に「有間浜に、渡嶋の蝦夷等を召し聚へて、大きに饗たまひて帰す」とあり、阿倍比羅夫が有間浜で渡嶋の蝦夷らを集めて大いに饗応したという。その位置に諸説あるが、十三付近が妥当とする説もある。十三湖が港湾として利用されたのは中世以後で、安東氏が正和年間(一三一二―一七)に福島城に拠ってからのことと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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十三湊 (とさみなと)
津軽岩木川河口の十三潟(じゆうさんがた)(十三湖)に開かれた中世の港湾。平安末期の津軽四郡建置のころから港湾として整備され,鎌倉期に幕府が蝦夷島支配を重大政策としたのに伴い,蝦夷管轄基地として脚光を浴びた。蝦夷沙汰を担当する北条氏が地頭も兼ね,代官に安東氏を置いて管轄。北条氏滅亡後は,〈十三湊日之本(ひのもと)将軍〉を称する安東氏の本拠地となり,蝦夷地と日本海海運を結ぶ重要港として発展した。1340年(興国1・暦応3)大津波で壊滅的被害をこうむったが,再度復興されたという。〈夷船京船群集し湊は市を成す〉とその繁栄を記した《十三往来》は,このころの作成とみられる。室町中期に安東氏は南部氏との角逐に敗れて蝦夷島・秋田に去ったが,港湾としての地位は変わらず,《廻船式目》奥書の三津七湊の中に挙げられている。1672年(寛文12)津軽藩政下で鰺ヶ沢(あじがさわ)港が整備されるに及び,十三湊は衰微した。青森県五所川原市の旧市浦村十三の地である。
執筆者:遠藤 巌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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十三湊【とさみなと】
津軽(つがる)岩木川河口の十三(じゅうさん)湖に形成された中世の港。現在の青森県市浦(しうら)村(現・五所川原市)にあたる。蝦夷地と日本海を結ぶ港として平安末期から整備され,鎌倉期の北条氏の支配を経て,〈十三湊日之本(ひのもと)将軍〉と称した安東(安藤)氏の本拠地となった。1340年大津波によって壊滅的被害を受けたが復興。《廻船式目》奥書の三津七湊の中にも挙げられるが,近世に入って衰微。近年,発掘調査によって往時の遺構や遺物が発見されている。
→関連項目アイヌ|安東氏|蝦夷管領|コシャマインの戦
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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十三湊(じゅうさんみなと)
じゅうさんみなと
青森県北西部、五所川原市(ごしょがわらし)の十三湖にあった港。「十三」の読みは、中世には「とさ」、近世以降「じゅうさん」と読む。正和(しょうわ)年間(1312~1317)に安東氏が相内(あいない)に福島城を築き、十三湖全体を港湾として利用し、津軽地方最大の港であった。室町時代の廻船式目(かいせんしきもく)に三津七湊(さんしんしちそう)の一つに数えられ、北陸から九州方面まで交通した。近世には、青森、鰺ヶ沢(あじがさわ)、深浦(ふかうら)とともに弘前(ひろさき)藩の四浦の一つであったが、1672年(寛文12)からは岩木川水運と鰺ヶ沢の中継港となった。河口は土砂堆積(たいせき)により船の出入りが困難になり、明治以降は港の機能を失った。
[横山 弘]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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十三湊
とさみなと
青森県北西部の市浦(しうら)村十三(じゅうさん)(現,五所川原市十三)にあった中世~近世の湊。戦国期の「廻船式目」に,全国七湊の一つとあり,上方船・夷船(えぞぶね)が群集したという。これは十三湖北岸の福島城に拠った安藤氏の繁栄の時期と一致する。福島城のある相内(あいうち)地区,現在の水戸口近くの十三地区に多くの寺社跡がある。1995年(平成7)からの発掘調査で,領主館・家臣団・町屋敷地区や港湾施設の存在も明らかになりつつある。近世には弘前藩の四浦(しうら)の一つとして,町奉行以下がおかれた。延宝年間以降は,岩木川水運と鰺ケ沢(あじがさわ)港を小舟で結ぶ十三小廻し体制ができあがった。遺跡は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の十三湊の言及
【青森[県]】より
…[陸奥国]
[本州の最北端]
青森県は,日本海側と太平洋側の交通路が出会う地点であるとともに北海道への渡航点として重要な位置を占めている。古くは日本海経由の西廻航路によって北陸,京都と結ばれ,西海岸の[鰺ヶ沢](あじがさわ),深浦,[十三湊](とさみなと)などの商業港が発達した。1624年(寛永1)青森湊が開港し,太平洋経由の東廻航路が開かれて江戸との交流が盛んになり,東海岸の[野辺地]や[八戸]も商業港として発達した。…
【鰺ヶ沢[町]】より
…【佐藤 裕治】
[鰺ヶ沢湊]
津軽藩の港町で,同藩四浦の一つ。中世に繁栄した十三湊(とさみなと)に代わり,寛文年間(1661‐73)より上方廻米の積出港となった。津軽平野の岩木川を下した米は十三湊経由で海上を鰺ヶ沢湊に運ばれ,雇船の北国・上方船が敦賀,大坂に回漕された。…
【市浦[村]】より
…南部は十三湖(じゆうさんこ)が占め,北部は津軽山地北部にあたる山地からなる。[十三湖]の湖口にあたる十三は,中世には[十三湊](とさみなと)と呼ばれ,豪族安東氏の拠点として栄えた。1340年(興国1∥暦応3)大津波をうけ一時衰退するが,近世には鰺ヶ沢,深浦,青森とともに津軽藩の四浦に数えられ,岩木川舟運によって運ばれた津軽平野の米や山地からのヒバの積出港であった。…
※「十三湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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