日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゴルトシュミット」の意味・わかりやすい解説
ゴルトシュミット(Richard Benedict Goldschmidt)
ごるとしゅみっと
Richard Benedict Goldschmidt
(1878―1958)
ドイツ生まれのアメリカの動物学者、遺伝学者。フランクフルト・アム・マインの生まれ。1900年ハイデルベルク大学を卒業。1909年ミュンヘン大学助教授としてヘルトウィヒに師事。1914年カイザー・ウィルヘルム生物学研究所(現、マックス・プランク研究所)部長。1921年から副所長。1936年、ナチスによりドイツを追われてアメリカに渡り、カリフォルニア大学教授となる。1948年名誉教授。初めナメクジウオの発生や分類を研究していたが、クロミディア(塩基性色素により核と同じに濃く染まる細胞質内の粒子)の研究などを通じて遺伝学に興味をもつようになった。ヨーロッパ各地および日本などから集めたマイマイガの地方種間に大規模な交配実験を行い、性比の変動や間性の出現率の相違などから染色体上にある雄性遺伝子と、細胞質を通じて母から子に伝えられる雌性決定因子との均衡によって性が決まること、これらの強さは異なった地方種の間で異なることなどを明らかにし、これに基づいて遺伝の生理学説を唱えた。アメリカに移ってからは、ショウジョウバエを用いて遺伝子と表現形質との関係を追究した。1924~1926年(大正13~15)来日、東京帝国大学農学部で講義し、日本の遺伝学の発展に貢献した。著書は多数あるが、代表的な著作に『性決定の機構と生理学』(1920)、『遺伝の生理学説』(1927)、『理論的遺伝学』(1955)などがある。
[田島弥太郎 2018年7月20日]
ゴルトシュミット(Victor Moritz Goldschmidt)
ごるとしゅみっと
Victor Moritz Goldschmidt
(1888―1947)
ノルウェーの岩石・地球化学・結晶化学者。スイスのチューリヒに生まれる。ノルウェーのクリスティアニア(現、オスロ)大学を卒業し1914年母校の教授となる。1928年ドイツのゲッティンゲン大学の教授となったが、1935年にはナチス政府に追われてオスロに戻った。第二次世界大戦中の1942年、ノルウェーに侵入したドイツ軍に捕らえられたが脱走してイギリスに渡り、1946年ふたたびオスロに戻って、翌1947年没した。1911年、23歳の若さでオスロ周辺の接触変成岩に関する大著(『クリスティアニア地方における接触変成作用』Die Kontaktmetamorphose im Kristiagebiet)を発表、化学平衡論に基づく近代変成岩石学の基礎を確立した。1917年ごろから近代的な地球化学や結晶化学の建設に努め、元素の結晶化学的性質がその地球化学的挙動を支配するという考えを樹立した。700ページに及ぶ大著『地球化学』Geochemistryは生前未完に終わったが、ムーアAlex Muirの編集によって1954年に出版された。
[橋本光男]
ゴルトシュミット(Hans Goldschmidt)
ごるとしゅみっと
Hans Goldschmidt
(1861―1923)
ドイツの化学工業家。ベルリンに生まれる。ハイデルベルク大学でブンゼンに化学を学んだのち、1881年エッセンで父の経営する化学工場に入り、テルミット法(アミノテルミー法、ゴルトシュミット法ともいう)を発明した。
アルミニウム粉末を金属酸化物に混合し点火すると、アルミニウムと金属酸化物の酸素とが高温を発しながら結合し、金属酸化物が還元され、高温のため溶融状になった金属が得られる。このことを利用したのがテルミット法で、クロム、コバルト、鉄、マンガンなどの冶金(やきん)に利用され、それぞれの炭素を含まない金属が得られる。この方法は金属の溶接にも使われ、鉄道レールなどの溶接に利用される。
[道家達將]
ゴルトシュミット(Levin Goldschmidt)
ごるとしゅみっと
Levin Goldschmidt
(1829―1897)
19世紀後半のドイツ商法学界を代表する学者。ハイデルベルク大学教授を経て、北ドイツ同盟高等商事裁判所の判事を務めたのち、ベルリン大学教授となり、在職中に没した。商法の研究に歴史的方法を取り入れ、その歴史的方法と解釈学的方法との融合をみごとに果たし、商法学の発展に寄与した功績は高く評価されている。彼の代表的な業績は、『商法提要』(未完成)の冒頭を飾る「一般商法史」であり、それは希代の傑作としての誉れが高い。そのほか、彼が刊行した『総商法雑誌』Zeitschrift für das gesamte Handelsrecht(略称ZHR)は、商法学の研究にとって不可欠の雑誌である。彼は学者のほか、裁判官としても活躍し、またドイツ統一運動と法の統一実現のためにも尽力したが、他方、ユダヤ人として人種差別問題に心を痛めたことが伝えられている。
[戸田修三]