ハインリヒ1世(在位919-936)にはじまる中世ドイツ王国最初の王朝。919-1024年。オットー1世(在位936-973),オットー2世(在位973-983),オットー3世(在位983-1002)と直系相続で続き,次いでハインリヒ1世の曾孫ハインリヒ2世(在位1002-24)が継ぎ,その死後ザリエル朝に替わった。
王家の祖先は東部ザクセンの豪族リウドルフLiudolf(866没)で,正しくはリウドルフィング家Liudolfingerと呼ばれる。スラブ人,デーン人に対する国土防衛により権力の基礎を固め,その子オットーOtto(912没)はザクセン大公を称した。フランケン大公からドイツ国王に選ばれたコンラート1世は,オットーの息子ハインリヒ1世を後継者に指名し,ザクセン,フランケン両部族が彼を国王に選出した。これに対しバイエルン人は大公アルヌルフを対立国王に立て,シュワーベン人もこれに従ったが,ハインリヒは両部族に大幅な自立性を認めて,その王位の承認をかちとった。
当時ドイツの最大の課題は,デーン人,マジャール人,スラブ人等の外敵の侵入から国土を防衛することにあったが,最初の2代の国王が主としてこの任務を遂行した。チューリンゲン,ザクセンの東方国境に多数の城塞を建設して,スラブ人の侵入を防ぎ,北方ではシュレスウィヒのマルク(辺境領)を設置してデーン人に備えた。最も大きな脅威であったマジャール人の侵入に対しては,ウンストルート近傍で大打撃を与え(933),ついでレヒフェルトの戦(955)で決定的勝利を収めた。西方では,西フランク王国の混乱に乗じてロートリンゲンの奪回(ロートリンゲン大公はコンラート1世の王位を認めず,西フランク王国に合体していた)に成功し,しばしば西フランク王国の政情に介入して調停者の立場をとった。この対外政策の成功がザクセン朝の権威を内外に高め,王朝の基盤を安定なものとした。
内政上最大の問題は,部族大公勢力の自立化を抑え,国家的統一を強固にすることにあった。オットー1世は,部族超越的組織である教会勢力と結び,インムニテート(不輸不入)ほか諸特権を与えこれを保護するとともに,国家機構に組み込み,大司教,司教,帝国修道院長に国王の政策に忠実な高位聖職者を配置し,大幅な行政的権限をゆだねる政策をとった。いわゆる帝国教会政策で,ザクセン朝,初期ザリエル朝の諸王によって継承された。カペー朝治下のフランスの封建的分裂に比べ,ザクセン朝のドイツが国家的統一を保ち得たのは,その成果である。
最も大きな歴史的意義をもつザクセン朝時代の事件は,神聖ローマ帝国の成立である。ブルグントとイタリアでは,ロタール1世にはじまるカロリング家の王統が早期に断絶したのち,各地の豪族が王を自称して,抗争をつづけていた。オットー1世はこれに乗じて2回にわたるイタリア遠征を行い,962年ローマ皇帝から神聖ローマ皇帝に戴冠された。以来歴代のドイツ国王は皇帝を兼ね,教皇権の保護者として,西欧キリスト教世界最高の権威を帯びるにいたるが,他面,教皇権と皇帝権との対立というやっかいな問題に,ドイツを巻き込む結果ともなった。オットー1世のイタリア支配は,国内の勢力均衡の上に,間接統治を行う政策をとった。オットー3世の時代には,これでは不十分となり,ドイツ国内の帝国教会政策に類似した方法の導入によって,直接支配領域の樹立を試みたが,オットー3世の早世で,これは未完成に終わった。
ザクセン朝の時代は,東方スラブ人地域へのドイツの勢力拡大の第1期にもあたる。東方植民と呼ばれる第2期のようにドイツ人の植民運動が伴わなかったので,もっぱらキリスト教の布教を通じて,原住スラブ人を支配する方法をとり,マクデブルク大司教座をはじめ,多くの司教座が設置された。だが教会十分の一税の徴収に反発したスラブ人は,3度にわたり反乱をおこし,この地のドイツ支配権は永続しえなかった。
ザクセン朝の時代は,ドイツ文化の発展の上でも画期的意義をもつ。経済的先進地域であるイタリアとの交流は,ドイツ国内の商工業に刺激的影響を与え,イタリアに残る古典文化の伝統との接触により,オットー朝ルネサンスと呼ばれる現象を生んだからである。
→イタリア政策 →オットー美術
執筆者:平城 照介
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中世ドイツ王国の最初の王朝(919~1024)。東フランクのカロリング家の王統が断絶したのち、フランケンのコンラート1世の過渡的治世を経て、919年ザクセン公ハインリヒ1世が国王に選ばれて創始した。オットー1世(大帝)、2世、3世と直系で相続され、オットー3世の夭折(ようせつ)後、1世の弟の孫ハインリヒ2世が継いで1024年まで続き、その死後ザリエル朝にかわった。マジャール人、ノルマン人などの異民族の侵入を撃退して、ドイツ王国の安全を確保し、西方では、一時西フランク王国に服属していたロートリンゲンを奪い返した。国内では教会勢力と結んで、いわゆる帝国教会政策を遂行し、諸部族大公の独立化を抑えて、中世ドイツ王国の基礎を固めた。とくにオットー1世はイタリアに遠征してローマ皇帝の帝冠を受け、ドイツ、ブルグント、イタリアにまたがる神聖ローマ帝国を樹立し、教皇権をその保護下に置くとともに、東方スラブ人地域へのキリスト教の布教にも強力な支援を与えた。
[平城照介]
919~1024
神聖ローマ帝国最初の王朝。オットー朝ともいう。初代ハインリヒ1世がザクセン公だったのでこの名がある。2代オットー1世は神聖ローマ帝国を創始し,彼から4代(962~1024年)にわたりドイツ王=神聖ローマ皇帝位を担った。異民族撃退と部族勢力抑圧を通じて,カロリング朝滅亡後の東フランクの政治的統一を果たしたが,その際帝国教会政策を導入したことは,イタリア政策を不可避なものとした。
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…10世紀半ばから11世紀半ばにかけての約100年間に興隆したドイツ中世初期の美術。時代は,カロリング王朝分裂後にドイツの政治的統一を完成したザクセン朝(919‐1024)にほぼ重なるが,同朝の3人のオットー帝(1~3世)治下で美術が著しい発展を見せたため,こう呼ばれる。この美術は次のザリエル朝の創始者および2代皇帝の時代にも継承された。…
…しかも同家のハインリヒ1世は,919年,コンラート1世の後をうけ,フランク族以外の出身者としてはじめてドイツ王位につく。これ以来,同家は1世紀余にわたりドイツ王国を支配したばかりでなく,オットー1世が皇帝位をえてからは(962),西方キリスト教世界全体を防衛,統治する任務をも負うことになった(ザクセン朝)。そこで,ザクセンにおける大公権の行使は,有力豪族の一つビルング家Billungerにゆだねられたが,その支配は部族領域全域には及ばなかった。…
※「ザクセン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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