エジプト北部,メンフィス西方の台地に広がる遺跡名。東西0.8~1.8km,南北7~8kmの範囲に墓地群が展開し,南北2地域に大別される。北地域の中心は最古のピラミッドである第3王朝ジェセル王の階段ピラミッドである。このピラミッドは初めマスタバとして計画されたが,6度に及ぶ変更の後,6段の階段ピラミッドとなった。北側にはイムヘテプの手になった王の葬祭殿が,南西には王のセド祭のための建築物群が置かれる。このピラミッドの北東には第5王朝ウセルカフ王のピラミッド(その葬祭殿が南側に置かれている),第6王朝テティ王のピラミッド,南西には初めて〈ピラミッド・テキスト〉が現れた第5王朝最後の王であるウナス(ウニス)王のピラミッド,第3王朝セケムケト王の未完成の〈埋葬ピラミッド〉がある。北西にはメンフィスのプタハ神の聖牛アピスを埋葬したアメンヘテプ3世の建立になるセラペイオン(セラペウム)がある。ここには古王朝期のマスタバや個人の墳墓が多くみられ,有名なティのマスタバのほかプタハヘテプ,アケトヘテプ,メレルカ,カゲムニ等のマスタバをみることができる。
南地域には第5王朝イセシ王,第6王朝ペピ1世,ペピ2世,メレンラー王(未確認)等のピラミッドがみられる。これらのピラミッドについては近年組織的な研究がなされている。さらに第8王朝イビ王の煉瓦造りピラミッドも残る。また最南端にある二つのピラミッドは第13王朝期に属する日乾煉瓦造りのもので,一つはケンジェル王,他は不明である。第4王朝シェプシェスカフ王のピラミッドは巨大な石棺形で,アラビア語で〈ファラオのマスタバ〉と呼ばれる。
→ピラミッド
執筆者:中山 伸一
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カイロの南約28キロメートル、ナイル川西岸に広がる古代エジプトの墓地。南北約7キロメートル、東西約2キロメートルにわたるこの墓地には、第1王朝からプトレマイオス王朝に至るあらゆる時代の古代エジプトの墓がある。地名はこの地方の初期の墓地神ソカリスに由来するようである。墓は、古代エジプトののちも、ローマ時代やキリスト教初期にもここに築かれた。したがって、エジプト全土の中で、面積においても時間の長さにおいても第一の墓地である。初期王朝のものには第1王朝のアハ王、ヘマカ王のマスタバ(腰掛形墳墓)などがある。ピラミッド時代の巨大石造建築物に、第3王朝のジョセル王の階段ピラミッド、第5王朝のウセルカフ王とウナス王のピラミッド、第6王朝のテティ王のピラミッドがある。発掘は絶えず行われ、注目すべき成果が得られている。その一つに、1975年発見の、王となる前のホルエンヘブ将軍(第18王朝)の墓がある。
[酒井傳六]
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…彼の友人クロイツワルトは伝説的叙事詩《カレビポエク》を書きあげた。またヤンセンJ.V.Jannsenは最初のエストニア語新聞《パルヌの郵便屋》(1864)を発行し,ヤコプソンK.R.Jakobsonは急進的新聞《サッカラ》(1878‐82)により民族の権利を主張した。ヤンセンを中心として1869年には最初のエストニア民族歌謡祭が開かれ,以後ほぼ5年ごとにこの行事が続けられて今日に至っている(近年のソ連からの独立に際して,1988年のタリン郊外での歌謡祭は大きな影響を及ぼした)。…
…
[古代]
メソポタミア最南部,ウルクの神殿(前4千年紀後半)には,柱などにテラコッタの小片による幾何学文のモザイク装飾が施されている。またエジプトでは,ピラミッドの墓室の壁に色タイルを並べる装飾が施されることがあった(サッカラ,ジェセル王の階段ピラミッド,前27世紀末ころ)。モザイクの技法による具象的な絵画が描かれるようになるのは,ヘレニズム時代と考えられる。…
※「サッカラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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