南緯90度の、地球の回転軸が地表と交わるところを南極あるいは南極点South Poleという。しかしより広義には、南極点を中心として広がる南極地域をさす。南極地域の範囲の定め方にはいくつかの方法がある。およそ南緯66度33分の緯線は南極圏とよばれ、ここから南では1年のうち少なくともそれぞれ1日、太陽の沈まない日と出ない日があって、天文学的な南極地域をなしている。また、ほとんど氷雪に覆われた南極大陸とそれに隣接する島々をさすこともあり、さらにその周辺の海域を含めて南極地域とすることもある(英語では大陸を中心とした地域をAntarctica、周辺を含めた範囲をthe Antarcticのように表記して区別することがある)。
現在よく用いられるのは、南極大陸を取り囲む太平洋、大西洋、インド洋の海域を通じて、南緯50度から60度辺にかけて存在している海洋中の南極収束線から南を南極地域とする場合である。南極の調査研究に関する国際的な学術団体である南極研究科学委員会(SCAR:Scientific Committee on Antarctic Researchの略)でも、これを採用している。南極収束線から南の海域は、南大洋Southern Oceanとよばれる。これは南極海あるいは南氷洋ともいわれるところにあたる。南極条約では南緯60度以南の地域をその適用地域と定めているが、南極条約システムのなかの一つとされる南極海洋生物資源保存条約では、南極収束線に基づいて適用地域を定めている。
南極点は地理学的極点であるが、このほか地球の磁場に関連して、実際の地磁気分布からみて伏角が90度となる南磁極(2003年1月の時点で南緯64度33.1分、東経138度10.3分の海上にある)、地球の磁場を地球中心に位置する磁気双極子で近似した場合の地磁気南極(南磁軸極、南緯78.8度、東経109.2度)がある。また、南極大陸のいずれの海岸からももっとも遠い地点を大陸の中心として、到達至難極(または到達不能極)とよぶことがある。これは南緯82度、東経75度付近に位置する。
[吉田栄夫]
南極大陸はその97%余りを厚い氷(南極氷床)に覆われ、またその周辺は、たとえば昭和基地沖では冬季には北方へ1000キロメートルにわたって張り出す海氷域となるなど、南極地域は氷雪の支配するところである。氷床やその一部である棚氷(たなごおり)、海氷、氷山などが南極の雪氷圏を構成している。
海氷は海水が凍結して生ずる。海水の結氷点はほぼ零下1.9℃である。海岸から一面に張り出した海氷を定着氷という。1年間で生成した氷は一年氷(ごおり)で、これが夏にも融(と)けきらず残ると二年氷あるいは多年氷となる。昭和基地周辺の一年氷はおよそ150センチメートルの厚さまで成長する。南大洋の海氷の多くは、風や海流で漂流する流氷(パックアイスpack iceともいう)である。これらは径数メートルから数十メートルの大きさの氷盤をなし、大陸周辺の偏東風によって西へ流れる。このとき地球自転の転向力の影響を受け、風下に向かって左に偏って流れる。このため東や北寄りの風が吹けば陸岸に向かって海氷が集まる。ときには幾層にも氷が重なり合い、氷丘氷をつくって厚くなり、また小さい氷盤が接合して巨大な氷盤あるいは氷野をつくる。このようなところに砕氷船がいれば、航行不能となって海氷に閉じ込められる状態に陥る。
定着氷は海岸から20~30キロメートル、場所によっては50キロメートル以上沖合いに張り出すが、低気圧による風や海のうねりによって縁辺が割れ、流氷となる。海岸とくに露岩に接したところでは、夏季に融解が早く進んで開水面(氷湖)が生ずることもある。
南極は周辺が大洋であって海氷の夏季の流失、融解がよく進み、二年氷や多年氷は湾の奥や島の間など限られたところに存在する。それで、冬季の海氷域(海氷の密集度15%以上のところ)の全面積は1800万~2000万平方キロメートルに達するのに、夏季の最小となる2月には350万~450万平方キロメートルと季節的変動が大きい。なお海氷は間に開水面があるので、海氷の実質面積は、冬季と夏季それぞれ1500万~1600万平方キロメートル、200万~300万平方キロメートルほどである。
[吉田栄夫]
広く大地を覆うような氷体のうち、面積およそ5万平方キロメートル以上のものを氷床とよぶ。このように定めると、現存する氷床は南極とグリーンランドのもののみで、後者は前者の10分の1程度にすぎない。5万平方キロメートル以下のものは氷帽とよばれる。南極氷床は寒冷で、降り積もった雪は沿岸近くを除いて融けることなく、長期間にわたり力学的なまた熱的な変形・変態を受ける圧密過程によって、雪から氷となり流動する。昭和基地南東の内陸みずほ基地で行われた氷床のボーリングで得られた氷のコアの研究によれば、深さ54メートルあたりで密度は0.84g/cm3となり、すべてのすきまが独立した気泡となって通気性がなくなる。このような状態を雪から氷に転化したと定義する。より内陸のより低温のところでは、雪から氷になる深さは大きくなる。厚く広大な氷体である氷床の形状は、おもに氷の物理的性質によって決まり、氷床の表面形態は沿岸近くを除いては氷下の岩盤の地形にほとんど影響されない。南極氷床は下の基盤岩に氷が直接のっているいわゆる着底氷床と、広く海に浮いている棚氷の部分とからなっている。そしてその形態的特徴から、ウェッデル海東縁のコーツ・ランドからロス海西縁のビクトリア・ランドに至るほぼ東半球に属する東南極氷床と、西半球に属してより小さく高度も低い西南極氷床に区分できる。これは、主として先カンブリア時代の基盤岩からなる楯状(たてじょう)地が広がる東南極大陸と、より新しい造山帯に属し活火山も分布する西南極大陸に相当している。
東南極氷床は、きわめて平坦(へいたん)で縁辺部で急に高度を低める巨大なドーム状の形態をなしている。最高所は南緯82度、東経75度付近で海抜4100メートルを超える400キロメートル×200キロメートルほどの頂部をなし、ドームAとよばれる。ここから南緯76度、東経96度を中心とする海抜3800メートルのドームB、南緯74度、東経124度を中心とする海抜3200メートルのドームCへと高まりが北東方向へ延び、幅広い尾根をつくる。北西方向へは南緯77度19.0分、東経39度42.2分付近に3810メートルの最高点をもつドームへと連なり、これらが東南極氷床の一大分水界(分氷界)をなしている。イギリスのドリューリーDavid John Drewryはリモート・センシングによる南極大陸の概略の地形図上で、このドームをバルキューレ・ドームと命名したが、現地で調査を行った日本隊はドームふじとよび、最高点にドームふじ観測拠点を建設し、氷床深層掘削ほかの観測を行った。
氷床の氷は高所から海岸に向けて流動するが、その流れには幅広くゆっくり流れる布状流れと、基盤岩の谷状の地形に沿って氷が収束し、速く流れる氷流流れがある。後者のような氷床中の流れを氷流という。これが顕著な形状を呈するとランバート氷河、白瀬(しらせ)氷河などとよばれるようになる。もし、これらが山地の露岩の間を抜けて流れれば溢流氷河(いつりゅうひょうが)という。ランバート氷河は、東南極にある世界最大の氷流で、流域面積は115万平方キロメートルに達する。前述したように、氷床の表面形態は一般に下の基盤岩の地形に直接支配されることは少ないが、ここではかなり広範囲にわたって、氷床の表面形態に影響を与えていることが特徴である。また、昭和基地南方の、リュツォ・ホルム湾頭に注ぐ白瀬氷河は、下流で年間2.5キロメートルの流速があり、南極でこれまでに知られたもっとも速い氷流の一つである。なお、東南極氷床もアメリー棚氷、ウェスト棚氷、シャクルトン棚氷などの棚氷を涵養(かんよう)するが、西南極に比すれば著しく少ない。
西南極氷床は東南極に比べればかなり規模が小さいので、小南極Lesser Antarcticaとよばれることもある。これに対する東南極は大南極Greater Antarcticaである。西南極氷床主部では南緯80度30分、西経97度付近(ウーラド山、ムーア山がある)と、南緯77度、西経125度付近(エグゼクティブ・コミッティー山地がある)に、それぞれ標高2400メートルおよび2500メートルに達する頂部をもつ二つのドームが、氷の流出の中心をなし、この間は1800メートルほどの緩い鞍部(あんぶ)となっている。西経57度と70度の間で北方へ延びる南極半島は、南緯69度24分、西経68度51分のジェレミー岬と、南緯68度29分、西経62度56分のアガシー岬を結ぶ線で、南の幅広いパーマー・ランドと、北の幅が100キロメートル以下のグレアム・ランドに分けられる。前者は標高2200メートルに達する氷床で、後者はほぼ2000メートルまでの多くの氷帽で覆われている。西南極氷床の特徴は、着底している基盤の高さが海面以下である所が広く、平均高度が海面下440メートルとされること、またロス棚氷やロンネ棚氷、フィルヒナー棚氷など広く棚氷を形成していることであろう。ある算定によれば、東南極の30万平方キロメートルに対して西南極の棚氷の面積は131万平方キロメートルに達する。
棚氷は氷床が海に流出して浮いている部分であり、厚さは普通100~300メートルほどである。着底した氷床からの氷の移流と棚氷表面への積雪、それに上流部の底面への海水の凍結で棚氷は涵養され、末端からの氷山の分離や下流部での表面の融解、底面の融解で消耗する。ロス棚氷やロンネ・フィルヒナー棚氷(あわせてこうよぶことがある。かつてはすべてフィルヒナー棚氷とよばれた)は、東南極氷床からの移流もあるものの、おもに西南極氷床の氷流による氷で養われている。棚氷から分離して生じた氷山は平坦で、いわゆる卓状氷山とよばれ、南大洋に特徴的な氷山とされる。
西南極氷床のように氷床ののる基盤の高さが、広く海面より低いような場合、これを海洋性氷床とよぶことがある。氷床が基盤を離れて海に浮かぶようになる地点を連ねたところを接地線とよぶが、海洋性氷床は、世界的な海面の高さの変化による接地線の移動にとくに敏感で、たとえばわずかの海面の上昇によっても接地線が後退し、氷床の大規模な崩壊へと進むような不安定性をもつとされる。
[吉田栄夫]
南極大陸の地質構造は、前述のように東南極(大陸)と西南極(大陸)に大別して考えることができる。東南極は先カンブリア時代の基盤岩からなる楯状地と、その縁辺部を構成する原生代末から古生代初期の造山帯および一部は古生代中期にまで至る造山帯からなる。西南極は中生代初期の造山帯および中生代後期から新生代初期の造山帯を主体とするという考え方が支配的である。
東南極楯状地を構成する岩石のほとんどは、先カンブリア時代の始生代から古生代初期までの幅広い同位体年代を示す変成岩類、火成岩類からなり、いわゆる結晶質基盤岩をなしている。ごく一部には、古生代中期以降の堆積(たいせき)岩や火山岩も分布する。先カンブリア時代の岩石は年代的にまた岩石学的特徴からいくつかの造山帯(変動帯)として区分されている。これらの細部についてはかならずしも意見の一致をみていないが、たとえばロシアのグリクロフG. E. Grikurovによるものを示せば次のとおりである。まず昭和基地東方のエンダビー・ランドには、38億年前の地球上でもっとも古い岩石の一つが分布し、40億年前後のナピア変動が識別される。続いてこれに隣接する35億年のレイナー変動、30億年のフンボルト変動、26億5000万年のインゼル変動、17億年の前期ルッカー変動、10億年の後期ルッカー変動、6億5000万年の前期ロス変動、それに4億8000万年の後期ロス変動である。
以上の変動により形成された結晶質基盤岩類のほか、後述のビーコン累層に相当する古生代後期の陸成堆積岩が、ランバート氷河地域、ジョージ5世海岸、西クイーン・モード・ランド(ドロンイング・モード・ランド)の一部にみいだされる。これらは陥没地帯にあって後の侵食を免れて残存したと考えられている。また火成岩では、ジョージ5世海岸には後述のフェラードレライトに相当するドレライト(粗粒玄武岩)が、プリンス・チャールズ山脈には第三紀始新世のアルカリ玄武岩が知られ、さらに、かつて第三紀中新世の岩石からなる火山とされたガウスベルグ(南緯67度、東経89度)には、最近5万6000年前という第四紀の新しい活動が識別されるようになった。
東南極楯状地を縁どり西南極との境界をなす南極横断山地は、ロス海北西縁の北ビクトリア・ランドからウェッデル海東縁のコーツ・ランドまで3500キロメートルにわたって断続して連なる山脈群からなる大山系である。ここでは10億年前のニムロッド変動、6億5000万年前のベアドモア変動で形成された変成岩類、花崗(かこう)岩類が基盤となり、そこに先カンブリア時代最末期から古生代初めにかけて堆積作用があり、これが4~5億年前のロス造山運動(狭義)を受けて、広く花崗岩類が形成された。その後ここは隆起して侵食を受け、さらにその上に、古生代デボン紀から中生代ジュラ紀にかけて砂岩を主体とする陸成~浅海性の厚い堆積岩が堆積した。これがビーコン累層(またはビーコン砂岩)である。これはのちに大規模な隆起を受けたが、褶曲(しゅうきょく)運動をほとんど被らず、水平ないしごく緩く傾く地層を呈している。この中には古くから石炭層が知られ、いわゆるゴンドワナ植物群とされるグロッソプテリスなどの化石、あるいは爬虫(はちゅう)類のリストロサウルスの化石などを産し、また古生代末の氷河作用を示す氷成礫(れき)岩も含まれ、ゴンドワナ大陸復原の有力な証拠を呈している。基盤の花崗岩類や花崗岩質片麻(へんま)岩類とビーコン累層は、ともにジュラ紀の1億5000万年ほど前に大規模なドレライトの貫入を受けた。これはフェラードレライトとして南極横断山地の各所に岩床や岩脈として分布し、一部は地表に噴出して溶岩や枕状(まくらじょう)溶岩となっている。これは、ゴンドワナ大陸の分裂に先だち、かつ分裂に関連しておこったできごとと考える人が多い。
北ビクトリア・ランド北端でロス海に面し、レニック氷河を通る大断層でビクトリア・ランド主部と分かたれる三角形状の地域は、これまで古生代中期の変動帯のボーチグレビンク造山帯として、ロス造山帯と別個のものとして位置づけられていた。最近の調査の進展に基づいて現在この点の再検討が行われており、この地域をロス造山帯の一部と考え、それが後の示差的な構造運動を受けたものとする見方もなされるようになった。
北ビクトリア・ランドから南ビクトリア・ランドのマクマード入江地域付近にかけては、第三紀の中新世から現世に至る火山活動もみられる。マクマード入江を介して大陸と対峙(たいじ)するロス島のエレバス火山(3794メートル)は、100万年ほど前から活動していたようであるが、現在アルカリ玄武岩の活動があり、火口内に溶岩湖をしばしば形成する世界でも数少ない活火山である。
西南極は、東南極に比べて、より新しい造山帯に属する地域とされる。まずエルズワース山地では、これまで知られているもっとも古い地層は古生代カンブリア紀の浅海性の堆積岩で、これは中生代初期に激しい褶曲作用を受けた。エルズワース山地は、位置的、構造的に南極横断山地と南極半島~マリー・バード・ランドをつなぐような形状をなしている。これは南極横断山地の西側に平行的に形成された造山帯で、その後南極横断山地に対して90度ほど回転したのではないかということを示唆し、古地磁気学的にもこの考えは支持されるようである。
マリー・バード・ランドから南極半島にかけて、中生代ジュラ紀から白亜紀にわたる砕屑(さいせつ)岩や火山岩を主体とする堆積物が厚く堆積し、白亜紀末には大規模な深成岩類が形成され、堆積物は褶曲を受けた。またマリー・バード・ランドでは19のカルデラを含む28の成層火山が知られている(エグゼクティブ・コミッティー山地などおよそ六つの山塊に分布する)。南極半島地域では、半島北部の北西側に弧状に走るサウス・シェトランド諸島におよそ10の火山が分布し、そのうちのデセプション島は活火山として噴火を繰り返している。半島の南東側にもリンデンベルグ島などの火山が知られる。なお、南極半島地域には、先カンブリア時代の原生代後期、古生代後期、中生代後期、新生代第三紀の比較的豊富な動植物化石を産する。
ここで、地質構造と関連する大地形を氷床下の岩盤の地形を含めて概観しよう。まずもっとも顕著なのは標高2000~4000メートルに達する南極横断山地である。ロス海およびウェッデル海側は断層で落ち込んでいることが確かなようであり、背後の内陸側も断層で境されていると考えられ、南極横断山地は断層運動で上昇した大きな断層山地であるらしい。中生代後期以降隆起し、第三紀に入ってこの運動は加速された。こうした地殻変動、火山活動、東南極楯状地と区別される造山運動などから、この山地は地質学的には西南極に属するとしたほうがよいとの考えもある。しかし、岩盤の地形や氷床の性質など南極の自然の理解のためには、南極横断山地は東南極に属し、その縁辺部をなすとしたほうがよいと思われる。東南極でのこのほかの顕著な山地は、昭和基地西方のクイーン・モード・ランドの海岸から200~300キロメートル内陸に分布する標高2000~3000メートルの山地(やまと山脈からセールロンダーネ山地を経てアールマンリッジに至る)と、氷下にすべて埋もれた最高3000メートルあるとされる内陸のガンブルツェフ山地、それにランバート氷河に沿うやはり2000~3000メートルのプリンス・チャールズ山脈である。昭和基地東方のエンダビー・ランドにも1000メートル台ではあるが多くの山塊がある。ガンブルツェフ山地については不明であるが、クイーン・モード・ランドの山地はいずれも断層地塊の性質をもち、中生代ジュラ紀に始まるゴンドワナ大陸の分裂に関係してその形成が始まったらしい。プリンス・チャールズ山脈も断層山地で、ここではとくに東南極大陸中の最大の断裂陥没帯に沿って形成されている。なお、これらの山地の隆起の原因の一つに、氷河が山地を侵食して岩盤の荷重が減少し、そのため地殻均衡的(アイソスタティック)に山地が上昇するという説がある。
一方、東経90度あたりから東方へは広く海面より低い基盤があって、西方の高い基盤とかなり明確な地域差をみせている。とくにここにはウイルクス、ビンセンズ、オーロラなどの海面下1000メートルを超える氷床下の大きな盆地や、ピーコック、アドベンチャーなどの氷床下の細長い低地(トレンチ)がある。これらも断層運動によって生じ、氷床の侵食で拡大されたものらしい。ここで、東方の低い地域が4億5000万~6億5000万年前の変動をほとんど受けていない基盤岩からなるのに対して、西方の高い地域がこの変動を広く受けたところであるとの指摘がある。しかし、現在の地形に現れるような地殻変動が、このように古い時代にまでなんらかの関係をもつかどうかわかっていない。
西南極は海面下の基盤が広く、各所に小さい高まりが複雑な配置をなしている。小さいプレートの集まりであろうと考えられている。
ゴンドワナ大陸からの南極大陸の分離が完了する第三紀の初めごろから、南極大陸の寒冷化が始まった。これ以後の氷床の発達の歴史は、基盤岩に刻まれた氷食地形や、陸上や周辺の海に堆積した堆積物で探られている。南極大陸が大きな氷床に覆われるようになったのはいつごろであるかはまだかならずしも明らかではないが、4000万年前にはすでにかなりの氷床があったらしく、遅くとも3000万年前には現在のような氷床となったと考えられている。しかし、氷河史の詳細を知るにはなお資料が不足である。1983年ごろ、それまで少なくとも最近の1500万年間ほどは安定的に存在し続けてきたと考えられていた東南極氷床が、何度かかなり融解した時期があり、現在の氷床はここ300万年以内に再生したものであるという説が、南極横断山地のかなり高所に見られる氷河堆積物(シリウス層)の分析によって提唱された。その論拠とされる地層中の海生微化石は、沿岸から飛来して陸上にある地層に取り込まれたのであろうとされ、氷床の大規模な変動説に対する反対もあるが、木片化石の存在や2002年の地層分析の結果をみても、温暖な時期があったと思われる。その温暖氷床は第四紀に入り寒冷氷床となり、その拡大、縮小はおもに北半球の氷床が拡大、縮小することで生ずる海面の世界的な昇降に支配されるようになったとされる。すなわち、海面が下がれば陸地が拡大して南極の氷床が拡大し、上昇すれば氷床は縮小するという。一方、海岸に近い山地にかかる小さい氷河は、南極氷床が拡大すれば海からの距離が遠くなり、水蒸気の供給(降雪による涵養)が減少して縮小するので、氷床の拡大、縮小とは逆の方向の発達の仕方をする。
氷床はまた、長年にわたる降雪や大気中からもたらされる降下物質を蓄えているので、氷を分析することにより、過去の大気中でのできごとを知ることができ、氷床の掘削コアは「地球環境のタイムカプセル」ともいわれる。1990年代に行われたロシアのウォストーク基地での深さ3623メートルまでの掘削では42万年前までの、そしてドームふじ観測拠点での2503メートルまでの掘削では34万年前までの気温や大気中の二酸化炭素量の変動が明らかにされた。二酸化炭素量は寒冷期(氷期)で少なく、温暖期(間氷期)で多く、その変動はみごとに気温の変動に重なる。過去の変動はおよそ200ppmから300ppmまでの幅に収まっているが、これは現在のすでに360ppmを超えなお増え続ける大気中の量が、地球温暖化の危険な信号であることを教えてくれるのである。なお、ウォストーク基地付近には氷床の下に深さ500メートルにおよぶ湖があると推定されており、その調査をいかに行うかが科学者の関心を集めている。
[吉田栄夫]
南極大陸の気候は、高緯度地域を占めること、太陽からの日射の多くを反射してしまう雪に地表が広く覆われていること、海抜高度が著しく高い大陸であることなどによって、きわめて寒冷である。南極全体を通じて雪面下10メートルの雪温はほぼ年平均気温に相当し、調査旅行での測定と、アムンゼン‐スコット基地(極点基地)をはじめとするいくつかの内陸基地での観測によって、南極大陸の年平均気温のおよその分布が知られている。年平均気温は標高が増すにつれてかなり直線的に低くなり、年平均気温の分布は、氷床の等高線によく似たものとなる。ロシアのウォストーク基地(標高3488メートル)では、年平均零下55.5℃であり、1983年7月21日には零下89.2℃の地球上での最低気温の極値が記録された。標高3810メートルのドームふじ観測拠点では、1995年から3年間に年平均気温零下54.3℃、最高気温零下18.6℃、最低気温零下79.7℃を記録している。標高2230メートルのみずほ基地では7年間の記録で年平均気温零下32.5℃である。沿岸では標高が低く、海(海水は零下1.9℃以下とならない)があって気温は比較的温和で、昭和基地では年平均零下10.5℃、最高気温の極値は10.0℃に達したことがある。最低気温の極値は零下45.3℃の記録がある。南極大陸のこのような地上気温は、地表付近の強い気温の接地逆転に支配されている。たとえばみずほ基地では冬季20℃を超える逆転が観測されるのである。
南極大陸の地表風で特徴的なものは、斜面下降風(カタバチック風)とよばれる風で、大陸上で冷却された大気は大陸斜面をなだれ落ちて海岸に向かって吹き、ときには風速は毎秒50メートルに達することがある。この風は海岸に達するとジャンプして、大陸沿岸から数キロメートル離れると地表に対する影響が小さくなる。昭和基地は大陸沿岸から5キロメートルほど離れた東オングル島にあるので、隣の大陸末端に位置するロシアのマラジョージナヤ基地の年間平均風速の毎秒10.3メートルに比べ、毎秒6.5メートルとかなり弱い風速である。みずほ基地は寒冷カタバチック気候帯といわれるような地域に位置し、毎秒10.6メートルと強い。アデリー・ランドのデニソン岬付近はもっとも風の強いところといわれ、年間、毎秒19.5メートルおよび18.5メートル(それぞれ1912~1913年、1951年)の平均風速を記録したことがあり、世界の風極といわれる。内陸の中心部では風は弱く、沿岸に比べると半分もしくはそれ以下の風速であるが、それでもかなり恒常的な風が吹き、とくに冬にやや顕著である。この風は地形と逆転層に支配されて吹くが、典型的な斜面下降風とは異なるとされる。
南極大陸の周辺の海洋の南緯40度から60度にかけては、いわゆる「吼(ほ)える40度」「狂える50度」「絶叫する60度」で、偏西風帯を温帯性低気圧が発達しながら北西から南東へと進み、暴風圏をつくりだす。この低気圧は沿岸に至り、しばしば降雪と飛雪で激しい雪嵐(ゆきあらし)であるブリザードをもたらす。低気圧はときには大陸内部へも侵入する。昭和基地では1996年5月、瞬間最大風速毎秒61.2メートルを記録した。なお、大陸周辺では一般に極偏東風があり、斜面下降風が地球自転の転向力の影響を受けて南東寄りの風となるが、各地では地形の影響を受けてそれぞれ特有の風向が卓越する。たとえば昭和基地では70%が北東象限からの風であり、とくに強風はほとんどこの風向に限られる。
降水はほとんど降雪の形であるが、昭和基地でもごくまれには雨が降ることがある。年間の積雪量(水換算にした蓄積量。降雪と飛雪を区別することはむずかしいが全体としてとらえて)は、内陸中心部で50ミリメートル以下のところがあり、沿岸では200~600ミリメートルとされている。
1982年、昭和基地でのオゾン観測で、9月から10月にかけて上層のオゾン層の著しい減少がおきたことが観測された。昭和基地ではそれまでにも継続的なオゾン観測が行われていた。少し遅れてイギリス隊による観測成果も明らかにされ、オゾンホールと命名された。この南極の春先におこる現象は、以後年々範囲が広がり、生成期間も長くなっているとされる。この発見が契機となって、原因物質のフロンガスなどの世界的な規制が行われるようになった。
[吉田栄夫]
1772~1775年のJ・クックの第2回航海で、初めて南極大陸の周航が行われ、南極圏突破がなされて南極大陸への道が開かれたといえるが、以来クジラやアザラシを求めて、あるいは新たな大地を探るため、南極探検が行われてきた。1820年には、イギリスのブランスフィールドEdward Bransfield(1795?―1852)、アメリカのパーマーNathaniel Brown Palmer(1799―1877)がそれぞれ南極半島を望見し、またロシアのベリングスハウゼンFabian Gottlieb von Bellingshausen(1778―1852。Thaddeus Thaddevich Bellingshausenのような表記もある。ロシア語読みはベリンスガウゼンFaddey Faddeevich Bellinsgauzen)が1819~1821年に南極大陸を周航中アレキサンダー1世島を発見、現在のプリンセスマーサ海岸を望見した。また1821年アメリカのデービスJohn Davisは南極半島で人類初の南極大陸上陸を果たした。1830年代には、エンダビー・ランド、ウィルクス・ランドなどの発見があり、1839~1843年にはイギリスのロス隊が初めて流氷帯を突破してロス海に入り、エレバス火山とロス島、ロス棚氷などを発見した。この後しばらく探検はとだえたが、1882~1883年、極地の国際協力による科学調査が提唱され、第1回国際極年が実施され、南極では亜南極のサウス・ジョージア島でドイツ隊が越冬して気象や地磁気の観測を行った。
1895年、第6回国際地理学会議は大要「南極地域の探検は地理学的探検としてなすべき重要なことであり、それによって得られる科学的知識という点からも、今世紀中にこれに着手するよう世界中の科学学会が力を尽くすように勧告する」という決議を行った。かくて新たな南極探検の時代が始まり、19世紀末から20世紀初頭にかけては、ノルウェー人ボルチグレビンクCarsten Egeberg Borchgrevinkが率いるイギリス隊が初めて大陸上で越冬したのをはじめ、スウェーデンのオットー・ノルデンシェルド(ノルデンショルド、ノーレンシェール)Nils Otto Gustav Nordenskjold(1869―1928)、イギリスのスコットやシャクルトン、ドイツのドリガルスキーErich Dagobert von Drygalski(1865―1949)らが越冬して、多くの科学的成果を得た。さらに、ノルウェーのアムンゼン隊が1911年12月14日、スコット隊が1912年1月17日南極点到達を果たし、この英雄時代とよばれる時期の頂点をなした。日本の白瀬隊も1911~1912年、ロス棚氷やジョージ7世半島を探検し、開南湾、大隈(おおくま)湾を発見。1911~1914年にはオーストラリアのモーソンSir Douglas Mawson(1882―1958)のアデリー・ランドでの活躍があった。
1920年代から1930年代には各国の海洋調査が行われ、また近代的な捕鯨が盛んとなった。ノルウェーは捕鯨とあわせて航空機を用いた沿岸の調査を広く行って、多くの地理的発見をもたらした。大陸での活動で特筆されるのはアメリカのバードで、1928~1930年の第1回探検でロス棚氷の北東縁ホエールズ湾にリトル・アメリカ基地を建設し、1929年11月29日には初めて南極点上空の飛行に成功するなど、探検の機械化時代到来を実現させた。なお、日本は1934~1935年に初めて南極海での近代的捕鯨に参加した。
第二次世界大戦後、アメリカはバード指揮の下に1946~1947年海軍による大規模な探検を行い、ハイジャンプ作戦として多くの航空写真撮影を行った。1947~1948年にはヘリコプターを利用してのウインドミル作戦を実施。1947~1948年アメリカのロンネFinn Ronne(1899―1980)が最後の私的探検隊ともいわれるような探検を行ったが、このときロンネEdith Ronne(隊長夫人)とダーリントンJennie Darlington(飛行士夫人)の2名の女性が初めて越冬した。1949~1952年には南極氷床の変動の研究をおもな目的として、ノルウェー、イギリス、スウェーデン三国共同探検隊が組織され、クイーン・モード・ランド西部にモードハイム基地を設け、初めて内陸600キロメートルにわたり人工地震法による氷厚測定を行うなど、大きな科学的成果を収めた。
1952年に国際学術連合会議(ICSU。現、国際科学会議)は、1957~1958年に実施する国際地球観測年(IGY)では、南極地域での観測に重点を置くこととした。1882~1883年の第1回国際極年の経緯からしても、また地球物理学的な面からも当然のことであろう。1955年には各国とも活発な準備に入り、日本もこの年11月南極観測参加を決定した。このとき南極観測に参加した国はアルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、チリ、フランス、日本、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカ共和国、イギリス、アメリカ、ソ連(現在はロシア)の12か国であった。ちょうどこのとき、イギリスのフックスVivian Ernest Fuchs(1908―1999)はニュージーランドのヒラリーの協力を受けウェッデル海から南極点を経てロス海まで、南極大陸横断に成功し、シャクルトンの夢を果たした。日本は1956年11月第一次南極観測隊を観測船宗谷(そうや)で送り出し、翌年2月リュツォ・ホルム湾の東オングル島に昭和基地を開設し、以後1958年3月から1959年1月まで、および1962年2月から1965年12月までの閉鎖期間を除き、各国と協力して超高層物理学、気象学、雪氷学、地学、生物学など総合的な調査・研究を行っている。みずほ基地(1970年建設)、あすか観測拠点(1985年建設、2004年あすか基地と改称)、ドームふじ観測拠点(1995年建設、2004年ドームふじ基地と改称)を内陸に設け、気象、雪氷、地学などの観測を、短期間の越冬や夏期間の利用で行ってきた。やまと山脈周辺の青氷地帯からは、これまで1万4200個におよぶ各種の隕石(いんせき)が採集され、世界中の科学者による研究が行われている。
アメリカはかねてから南極大陸の国際法上の地位について関心をもち、領土権主張の重なるところのある南極の国際的な安定を一つの目標として、国際地球観測年での国際的な協力の成功を背景に、領土権主張の棚上げを核とし、学術調査の自由の保証と国際協力、環境の保護などの条項からなる南極条約の締結を主導した。1959年12月1日、国際地球観測年の南極観測に参加した12か国はこれに調印し、1961年6月23日に条約の発効をみた。その後、資源問題や環境問題が生起するなかで加盟国が増え、2007年現在、原署名国12か国を含めて46か国が締約国となっている。このうち実質的に南極観測を行い、南極での意思決定に参加できるいわゆる協議国の地位をもつ国は、原署名国をあわせて28か国となっている。南極観測はこの南極条約の傘の下に行われているが、環境問題や資源問題と関連して南極あざらし保存条約(1972年調印)、南極海洋生物資源保存条約(1980年調印)、南極鉱物資源活動規制条約(1988年調印されたが発効の見込みはたたず、実際上廃案といってよい)などが締結された。さらに環境保護強化の動向を受けて、1991年「環境保護に関する南極条約議定書」が調印され、1998年発効した。これにより南極地域における諸活動が、環境保護の観点から広く規制されるようになった。日本は1997年に批准し、国内法として同年に南極環境保護法を制定している。なお、これらは南極条約システムとよばれることがある。
[吉田栄夫]
氷雪に広く覆われる厳しい自然の支配する南極地域では、陸上においては露岩地域で乏しい生物相がみられるのみであり、ここで繁殖する鳥類も海に生活を大きく依存するが、周辺の海域では多彩な生物相がみられる。
[吉田栄夫]
南大洋の生態系の核となるのはナンキョクオキアミとされる。ナンキョクオキアミは珪藻(けいそう)類を主とする植物プランクトンを餌(えさ)として繁殖し、ヒゲクジラ、カニクイアザラシ、海鳥類、魚類、頭足類などに捕食される。オキアミは将来の人類のタンパク質資源としても注目されており、その生態系に占める役割、資源量、資源量を損なうことなく漁獲できる許容量などの調査が、南極海洋生物資源の国際協力による調査の一環として行われている。資源量はある算定によれば10億~30億トンとされている。漁獲は1960年代から始まっているが、漁獲許容量と推定されている年間7000万~1億トンに比べれば年間20万トン程度で、資源量への影響は現在のところほとんどないといわれる。しかし、生態系のバランスを崩すおそれを心配する声もある。
沿岸の底生生物には、ウニ、ヒトデ、カイメン、ヒモムシ、ホヤ、ウミユリ、二枚貝、巻き貝、スゴカイ、あるいは紅藻類や石灰藻など多種のものがいる。また、南極周辺には約110種の魚が分布するといわれ、なかでもノトセニア科が卓越し、そのなかではトレマトムス属が主として沿岸に、ノトセニア属がより北方に分布する。昭和基地ではショウワギス、ボウズハゲギスなど12種ほどの魚類が採集されている。これら底生生物や魚類には南極固有種が多く、魚類では83%に達する。これは、南極が深い海と南極収束線で隔絶されていること、底生生物の多くが浮遊性の幼生期をもたないことなどによるとされる。海鳥類はペンギンと飛翔(ひしょう)性の鳥で、南極大陸に関係をもつペンギンはアデリーペンギン、エンペラーペンギン、ヒゲペンギン、ゼンツーペンギンの4種である。アデリーペンギンは冬季には沖合いの流氷帯で過ごし、夏季沿岸の露岩上の集団営巣地で卵を産んで雛(ひな)を育てる。南極での総個体数は約2700万羽とされる。エンペラーペンギンは冬季沿岸の海氷上に営巣地をつくり繁殖する。総個体数は約57万羽にすぎない。ほかの2種は大陸では南極半島にほぼ限られる。ほかの海鳥はアホウドリ科、ミズナギドリ科、ウミツバメ科、トウゾクカモメ科など約40種がいるが、南極半島を除く大陸で繁殖するのはフルマカモメ、ユキドリなど10種とされる。昭和基地付近に飛来するのはユキドリ、ナンキョクオオトウゾクカモメ、ナンキョクフルマカモメ、アシナガコシジロウミツバメである。海産哺乳(ほにゅう)類では鰭脚(ひれあし)類と鯨類が南極の海にみられる。鰭脚類はほぼ年間を通じて海氷域で生活するいわゆる南極アザラシとして、ウェッデルアザラシ、カニクイアザラシ、ヒョウアザラシ、ロスアザラシの4種と、亜南極の島を中心に分布するミナミゾウアザラシおよびミナミオットセイである。総数は約1700万頭とされる。鯨類はヒゲクジラ類のシロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、ミンククジラ、ザトウクジラ、セミクジラ、ピグミーシロナガスクジラの6種1亜種と、マッコウクジラ、シャチなどのハクジラ類9種である。いずれも南大洋の固有種ではなく回遊するが、ミンククジラは年間を通じて南大洋にすむことがわかった。
[吉田栄夫]
南極圏の植物相は北極圏と比較するときわめて貧弱である。南極大陸の植生は蘚苔(せんたい)類と地衣類が主体で、種子植物は、南極半島にナンキョクミドリナデシコColobanthus quitensisとナンキョクコメススキDeschampsia antarcticaの2種類が分布するだけである。蘚苔・地衣類も世界の寒冷地に広く分布する種類が大部分で、固有の種類はごく少ない。南極海に点在するサウス・サンドイッチ諸島、サウス・オークニー諸島などにはナンキョクコメススキ、ウシノケグサ類、アゾレラAzorella(セリ科)、アカエナAcaena(バラ科)などの密生した植生があり、ケルグレン島にはプリングレアPringlea(アブラナ科)、ルヤリアLyalia(ナデシコ科)という固有属が知られている。さらに北方のパタゴニア南部などの亜南極に至るとナンキョクブナNothofagusの森林がみられる。これら南極と亜南極地域は植物地理上、一括して南極植物区系界とされる。古生代末から中生代にかけての南極大陸は、熱帯的な環境で、木生シダ類、ついでシダ種子類が繁栄していた。また、中生代から第三紀にかけての南極大陸の西部は、ニュージーランド、南米の南端部と一連の陸地となり、ナンキョクブナなどの特有な種属はこの時期に形成されたと考えられている。なお、ガンコウラン属のように南極圏と北極圏とに飛び離れて分布する植物群もいくつか知られている。
[大場達之]
『楠宏他編『南極』(1973・共立出版)』▽『国立極地研究所編『南極の科学』全9巻(1983~1991・古今書院)』▽『南極探検後援会編『南極記』(1913/復刻版・1986・成功雑誌社)』▽『V・E・フックス、E・ヒラリー著、山田晃訳『南極横断』上下(1959・光文社)』▽『L・カーワン著、加納一郎訳『白い道――極地探検の歴史』(1971・社会思想社)』▽『NHK取材班著『南極取材記』(1979・日本放送出版協会)』▽『国立極地研究所編『南極科学館――南極を見る・知る・驚く』(1990・古今書院)』▽『神沼克伊著『南極100年――地球上のパラダイスをめざして』(1994・ほるぷ出版)』▽『バーナード・ストーンハウス著、神沼克伊・三方洋子訳『北極・南極――極地の自然環境と人間の営み』(1996・朝倉書店)』▽『白瀬矗著『私の南極探検記』(1998・日本図書センター)』▽『中田修著『南極のスコット』(1998・清水書院)』▽『池島大策著『南極条約体制と国際法――領土、資源、環境をめぐる利害の調整』(2000・慶応大学出版会)』▽『坂野井和代・東野陽子著『南極に暮らす――日本女性初の越冬体験』(2000・岩波書店)』▽『NHK出版編・刊『南極からのメッセージ――地球環境探索の最前線』(2000)』▽『大場満郎著『南極大陸単独横断行』(2001・講談社)』▽『平山善吉著『南極・越冬記』(2001・連合出版)』▽『キャロライン・アレグザンダー著、畔上司訳『エンデュアランス号――シャクルトン南極探検の全記録』(2002・ソニー・マガジンズ)』▽『神沼克伊監修・著、麻生武彦・渡邊研太郎他著『北極と南極の100不思議』(2003・東京書籍)』▽『国立極地研究所編『南極・北極の百科事典』(2004・丸善)』▽『木崎甲子郎著『南極大陸の歴史を探る』(岩波新書)』▽『西堀栄三郎著『南極越冬記』(岩波新書)』▽『斎藤清明著『南極発・地球環境レポート――異変観測の最前線から』(中公新書)』▽『ロアルド・アムンゼン著、谷口善也訳『南極点征服』(中公文庫)』▽『アプスレイ・チェリー・ガラード著、加納一郎訳『世界最悪の旅――スコット南極探検隊』(中公文庫)』▽『永延幹男著『南極海 極限の海から』(集英社新書)』
天体の自転軸が天体の表面と交わった点の一つ。地球の南極,火星の南極,木星の南極などという。自転軸が天体の表面と交わる点は二つあるが,その点から周極星の日周運動を見た場合,時計回りに見える方を南極,反時計回りに見える方を北極という。
地球の自転軸を無限に延長して天球と交わらせた二つの点のうち,南側の点を〈天の南極〉という。赤緯-90°の点に当たる。天の南極の近くには適当な明るい星がないため,南極星と呼ばれるようなものはない。
執筆者:古川 麒一郎
南極は地球の自転軸の南端である南緯90°の地点を指し,この地点は南極点South Poleと呼ばれる。一般には南極点を中心として,ほぼ円形の南極大陸Antarctica,さらに周辺の島や海域まで含めた南極地域Antarcticを指す。古代ギリシアでは,周極星の熊座arktos(おおぐま座Ursa Major)にちなんで北極(北方)をarktikosと,南極(南方)を〈…に反対の〉を表す接頭語をつけantarktikosと形容していた。Antarcticの語はこれに由来する。南極大陸の大部分は南緯66°33′の南極圏の南にある。南極圏以南では,地球の自転軸と公転軌道面とに傾き(66度33分)があるために,1年のうち一日中太陽が地平線下に沈まない日が冬至(12月21日ころ)中心に,また一日中太陽が現れない日が夏至(6月21日ころ)中心に少なくとも1日以上ある。南極地域の定義は種々あるが,南極を取り巻いて南緯50~60°付近にある海洋の不連続線である南極収束線以南の地域を指すのが一般的である。南極収束線では亜熱帯表面水と低温の南極表面水とが接し,表面水温が急に低下し,生物相にも変化が見られる。南極収束線以南の海洋島には,サウス・ジョージア,サウス・サンドウィッチ,サウス・オークニー,ブーベ,ケルゲレン,ハードなどがあり,その多くに各国の観測所が置かれている。南極条約では,南極地域を南緯60°以南の地域(すべての棚氷も含む)と定めている。南極収束線以南の面積は約5250万km2,このうち南極大陸は約1392万km2(平均標高2300m),棚氷154万km2。
南極地域の南緯64°38′,東経138°35′付近(フランスのデュモン・デュルビル基地近く)には南磁極がある(1997現在)。ここでは磁石の南極が真下を向く,すなわち地球磁石のN極がある。また地球全体の磁場の分布を最もよく表す仮の棒磁石を地球の中心に置いたとき,その棒磁石の棒が地表面と交わる点は磁軸極または双極子磁極と呼ばれ,南北両極域にある。南磁軸極はほぼ南緯79°,東経110°(ボストーク基地近く)にある。オーロラ(極光)の出現頻度の高い地帯は南磁軸極を中心として半径約2500kmのドーナツ状の地域で,昭和基地はこの極光帯にある。大陸内部にあって周辺から最も遠い地点は到達不能極Pole of Inaccessibility(南緯82°06′,東経54°58′)と呼ばれるが,ソ連隊(1958年12月14日到達)とアメリカ隊が付近を探査した。
南極大陸はほぼ南極圏内にあり,それを大きく二分する南極横断山地Transantarctic Mountainsによって,東半球に属する古い大陸塊の東南極大陸(大南極もいう)と,地質年代がこれより新しい西南極大陸(小南極)とに分けられる。また太平洋側からはロス海,大西洋側からはウェッデル海が深く湾入している。西南極大陸からは南極半島が南アメリカ大陸方向に延びている。南極大陸はほぼ全域が氷で覆われ,この氷は氷床と呼ばれる。露岩地域は全面積の1%以下の33万km2にすぎない。氷床の平均氷厚は約2450mで,平均標高は2300m,内陸では4000m以上に達する所もある。南極大陸の地形や地質に関する知識は1957-58年の国際地球観測年を契機として急増しつつある。氷床の形態については,地上,航空機,人工衛星からの調査でその様相が明らかになりつつあるが,内陸部では未知の部分も多い。大陸の地質構造を知るには露岩地域での調査が不可欠であるが,まだ未調査域も多い。
南極大陸の地質構造はこれらの調査により,先カンブリア時代の楯状地に属する東南極と,古生代,中生代以降の造山運動を受けた西南極にほぼ大別される。約2億年前までは南極大陸はアフリカ,インド,オーストラリア,南アメリカと一体のゴンドワナ大陸を形成していたと考えられている。東南極には沿岸に先カンブリア時代の山地や露岩が点在しており,西から東へかけてクイーン・モード・ランドの山脈や,セール・ロンダーネ,やまと,エンダビー・ランド,プリンス・チャールズなどがある。東南極で最も顕著な南極横断山地は2000~4000m級の山が約4000kmにわたって連なり,ロス造山期と呼ばれる先カンブリア時代末期から古生代初期へかけての変動により形成された。南極横断山地の間からは大陸氷が低地へ流出している。東南極の基盤は従来海面上数百mと推定されていたが,近年ではほぼ海水面に近い値が出されている。一方,西南極では海面下約400mという値が出され,南極全体でも基盤高度は海面下約150mであろうといわれる。西南極は南アメリカのアンデス帯から南極半島にかけての中生代末期のアンデス造山期に形成された部分である。すなわち環太平洋造山帯に属するのであるが,地震の発生が見られない点,南極半島の基盤に先カンブリア時代のものが見られるなど,今後に問題が残されている。南極半島からマリー・バード・ランド,ロス島(エレバス火山)からニュージーランドにかけて新生代の火山帯がある。西南極は氷床の標高も平均1300mで,仮に氷床が溶け地殻の隆起があったとしても,基盤は海面下にとどまる地域が広いと考えられる。すなわち,大陸というより島の間を氷がうめているといえる。
南極大陸の気候は寒冷で,中心部の年平均気温は-55℃に達する。地球上の最低気温の記録-89.2℃がソ連のボストーク基地で1983年7月21日に得られた。冬季に極夜となるにもかかわらず,年間日射量は赤道付近と変わらない。これは夏には夜がなく,高原であるために空気の量も少なく大気が透明なためである。しかし,表面は雪や氷に覆われているために太陽放射のほとんどが反射され,年間の放射収支はマイナスであり,気温は低い。大陸縁辺は海のため比較的温和である。たとえば昭和基地の年平均気温は-10.6℃で,夏には10.0℃を記録したこともある。大陸上で冷やされた空気は大陸斜面から海岸に向かって吹き,斜面滑降風(またはカタバティック風)と呼ばれ,ときには風速50m/sに達する。内陸部は風も弱く雲も少ない。南緯40~60°には偏西風帯(暴風圏)があり,低気圧は西から東へ進み,ときには大陸内部へ進入して降雪を伴う。降水量はほとんど降雪によるが,南極半島の先端部や,ごくまれには沿岸部で夏に雨が降ることがある。年間の降雪量(水換算)は中心部で50mm,沿岸部で200~600mmとなっている。低気圧が進入すると降雪も伴うが,飛雪も伴うブリザード(雪あらし)となり,視程が数十cmになることは珍しくない。沿岸の露岩地帯では夏には地面の加熱によって積雪も溶け,湿度も比較的少ない所があり,オアシスと呼ばれている。マクマード入江付近のドライ・バレーなどはその例である。内陸部での降雪量は少ないが,氷晶が降る場合も多く,積雪はしだいに蓄積して氷化し,氷床を養っている。大気中の氷晶による暈(かさ)(ハロ),幻日,太陽柱などの光学現象がよく見られる。地面付近の蜃気楼(しんきろう)も夏に多い。曇った日には雲と雪面との多重反射により,地物や水平線の識別が困難になるホワイトアウトと呼ばれる現象が起こる。
超高層大気中の主として酸素や窒素の原子や分子と荷電粒子との衝突による発光現象で,地上80~200km付近に現れる。酸素原子による緑色光や赤色光が多く見られる。昭和基地は極光帯にあるが,正確にはオーロラ・オーバル(楕円帯)との相対関係でオーロラが見られる。オーロラ・オーバルは地磁気および地球と太陽の相対位置(昼夜関係)によって決まる磁軸極を中心とする環状の領域で,昼側で狭く(地磁気緯度77~78°)夜側で広い(65~70°)。このオーバルの下を地球が自転している。南極でオーロラ観測に適した地帯(地磁気緯度67°)は東経50°から内陸に入り,西経120°に至る間で,地磁気緯度66°の昭和基地は最適地にあり,真夜中になると,このオーバルの真下にくることになる。夕方や朝方では南方の高緯度側にオーロラが現れる。オーロラは南北両極域で同時に出現するが,オーロラの目視できる季節は南北両極で異なる。南極の観測基地の中でも北半球に適当な地磁気共役点観測地を見いだせるものは少ない。昭和基地の地磁気共役点はアイスランドにある。昭和基地での超高層物理観測は,地磁気共役点観測はもとより,観測ロケット,大気球,科学衛星受信などにより成果をあげている。
雪や氷に覆われている南極大陸で,生物が見られるのは南極海と沿岸の露岩地域に限られる。南極海ではナンキョクオキアミ(資源量は日本人研究者によると10億~30億t)が食物連鎖系の中心をなしていて,ヒゲクジラ(鬚鯨)類やカニクイアザラシをはじめ,鳥類や魚類によって捕食される。オキアミの餌となる植物プランクトンは日射量の多い夏に急増する。オキアミは未来のタンパク質源といわれ,1960年代から漁業が行われている一方,海洋生態系の実態を明らかにするため,80年から国際的な協同研究が10年計画で進められている。南極大陸は沖合の南極収束線や南極環流によって他の大陸から隔絶しており,沿岸海域の魚類や底生生物には南極固有種が多い。約110種の南極海の魚類のうち約80%が固有種といわれ,なかでもノトセニア科のものが多い。昭和基地周辺の魚類は約10種にすぎない。低水温にもかかわらず,二枚貝,巻貝,ナマコ,ウニ,海綿動物などの底生生物も沿岸に見られる。南極で見られるペンギンは,アデリーペンギン,エンペラペンギン,ヒゲペンギン,ジェンツーペンギンの4種である。昭和基地では前2者のみ見られる。アデリーペンギンは冬には沖合の浮氷域で過ごし,夏には沿岸の露岩上の集団営巣地で繁殖する。南極全域では2700万羽といわれる。エンペラペンギンは57万羽といわれ,主として海氷上に集団営巣地をつくり,冬季に産卵し雛を育てる。飛翔性海鳥類は約40種で,アホウドリ科,ミズナギドリ科,ウミツバメ科,トウゾクカモメ科,カモメ科などに分かれる。大陸沿岸で営巣するナンキョクオオトウゾクカモメはペンギンやユキドリを襲う。多くの鳥類はオキアミ,イカ,魚類を捕食する。これらは総数6500万羽で,餌生物量は年間550万tに達する。ペンギンも含めた鳥類の餌生物量は年間3900万tでクジラ類のそれに等しく,アザラシ類の半分に達する。南極海のクジラ類はいずれも回遊種で,大型のヒゲクジラ類6種(シロナガス,ナガス,イワシ,ミンク,ザトウ,セミ)と1亜種(ピグミーシロナガス),ハクジラ類の9種(マッコウ,シャチなど)がいる。鰭脚(ききやく)類はアザラシ科(ウェッデル,カニクイ,ヒョウ,ロス,ミナミゾウの各アザラシ)とアシカ科のナンキョクオットセイが生息し,総数1700万頭のうちカニクイアザラシ(オキアミを捕食)が約90%を占める。鰭脚類の年間捕食量は約8000万tである。陸生の動物は無脊椎動物のみで,その種類も少ない。2種のユスリカ,9種のトビムシのほか120種ほどのダニ類,さらにワムシ類,センチュウ類,クマムシ類,原生動物が見られ,多くは地衣類,蘚苔類,大型藻類などの植物と共存して生活している。
南極に自生する顕花植物は,ナデシコ科のナンキョクミドリナデシコとイネ科のナンキョクコメススキの2種である。南極固有種ではなく南アメリカや亜南極の島にも分布し,南極大陸内では南極半島の南緯68°以北にしか分布しない。南緯68°以南の植生は蘚類や地衣類その他の隠花植物に限られる。沿岸の海鳥の営巣地のある所では,蘚苔類の植生と土壌動物相が見られる。内陸の山岳地帯でも鳥類の影響のある所では地衣類が見られる。また氷雪藻と呼ばれる雪や氷を着色する藻類が出現することがある。南極の植物相は北極に比べ著しく貧弱である。
南極大陸周辺の海氷は昔から多くの航海者の大陸接近を阻んできた。海氷面積は夏の終りの2月ころには350万~450万km2と縮小するが,季節とともに沖合に張り出し,最盛期の9~10月には1800万~2000万km2となる。南極氷床と棚氷を含めて約1360万km2であるから,海氷の拡大期における南極地域の雪氷面積は3200万~3400万km2となり,地球の冷源域としての効果はきわめて大きい。ちなみに,北極域の海氷は冬季で約1800万km2,夏季で約900万km2である。広義の海氷は海水の凍結したものと陸地の氷が海に浮かんで氷山となったものをいう。南極大陸の沿岸近くでは東から西へ吹く風のため,海氷や氷山も反時計回りに漂流し,地球の自転のために左偏する力が働く。沖合では偏西風が卓越し,沖合の氷は時計回りに漂流する。冬になると沿岸から沖合にかけて定着氷が発達し,その厚さも150cm程度となる。さらに降雪があると2m程度,場所によっては4m近くになることもある。定着氷は条件のよい所では海岸から30~40kmまで張り出すが,低気圧が来ると沖合の定着氷は破砕し,流氷となる。場合によっては割れた氷が互いに積み重なって氷丘氷となり厚さも10~20mに達する。海氷の張出しは海岸線の形態,風,海潮流,海底地形などに支配され場所によって異なる。ロス海の西部は夏には比較的早く開水面が生じ,ときには棚氷縁まで開水面となる。1841年のイギリスのJ.C.ロスの〈エレバス〉〈テラー〉の2帆船のロス海への航海,1912年の白瀬の〈開南丸〉のロス棚氷への着船などのときがその例である。またウェッデル海東部も開水面が生じやすく,古くから多くの船が海岸まで接近しており,沿岸の棚氷上に観測基地が設けられている。一方,ウェッデル海西部には海氷が集積し夏でも航行は困難である。ベリングスハウゼン海,バレニー諸島南部,さらに昭和基地のあるリュツォー・ホルム湾西部などは多年性海氷が集積し,航行の困難な海域である。南極で見られる氷山は,棚氷の先端が分離した表面の平坦な卓状氷山と呼ばれるものが多い。なかには長さが200kmに近い巨大なものもある。氷山は水中の喫水が深いため海流で運ばれる。このため,ときには風で流される流氷と逆の動きをすることもある。氷山は北へ向かうにつれて南極環流で東へ向かうが,南緯50°~60°を走る南極収束線以北で消滅するものが多い。南極海に浮かぶ氷山は約20万個と推定され,北半球では4万個にすぎない。海氷域の研究は今後の重要課題である。
南極大陸の存在をギリシア・ローマの学者たちは空想していた。北半球の陸地と釣り合う陸地が南半球にもなければならないというので,〈テラ・アウストラリス・インコグニタTerra Australis Incognita(未知の南の土地)〉と呼んでいた。南極大陸の発見は1800年代になってからである。まず16~17世紀にかけてサウス・ジョージア島などの大陸周辺の島々が報告された。確かな南極圏突破は1772-75年のイギリスのJ.クックによる南極大陸の周航である。これは,南極大陸への最初の接近といえる。クジラやアザラシをサウス・ジョージア島やホーン岬付近で見かけたというクックの報告で,イギリス,アメリカ,オーストラリアの捕鯨業者やアザラシ猟者の活躍が始まった。同時に南方海域への航海も盛んになった。南極大陸の最初の発見については,1820年にイギリスのブランスフィールドEdward Bransfield(1795ころ-1852),ロシアのF.G.vonベリングスハウゼン,アメリカのパーマーNathaniel Brown Palmer(1799-1877)の名が挙げられているが,種々意見が分かれている。以後各国の上陸や発見が続く。1821年2月にはアメリカのデービスJohn Davisが南極半島のヒューズ湾に初上陸した。イギリスのウェッデルJames Weddell(1787-1834)は1823年2月にウェッデル海を発見している。この時期にロンドンのエンダービー商会はアザラシやクジラ漁場の調査と地理学探検を兼ね,多くの船を派遣した。この頃は航海の必要上,極地方の地磁気の測定が多くなされている。1837年から43年にかけてフランス,アメリカ,イギリスから政府支援の遠征隊が出され,アデリー・ランド,ウィルクス・ランド,ロス海,ビクトリア・ランドなどの発見が続いた。1839-43年,イギリスのJ.C.ロスの率いた〈エレバス〉〈テラー〉の両船は41年1月ロス海に入った。この頃から再びアザラシ猟と捕鯨が始まり,ナンキョクオットセイなどは絶滅に近くなった。72-76年,イギリスの海洋調査船チャレンジャー6世号が南極圏を突破した。この頃各国の科学者は極地における科学調査を提唱し,82-83年の第1回国際極年の実施となった。
20世紀に入ると南極点指向が高まると同時に,近代捕鯨の時代に入っていった。陸上での最初の越冬は1898-1900年のイギリスのボーチグレビンクCarsten Egeberg Borchgrevink(1864-1934)で,ロス海入口のアデア岬に上陸し,生物,地質,気象,地磁気などの調査を行った。このとき隊員のハンセンNicolai Hansenが死亡した。その名は,採集した魚類などの学名(例,ウロコギスTrematomus hansoni)に入っている。1901-04年イギリスのR.F.スコットはロス島で越冬し科学調査を行い,南緯77°59′までそり隊が南下した。後にスコットは南極点に到達する。ノルウェーのR.アムンゼンは北極へ向かう計画を立てていたが,1909年にアメリカのR.E.ピアリーが北極点に到達したのを知り,南極へ転じた。ロス海のホエールズ湾(鯨湾)で越冬し,11年12月14日南極点へ到達した。一方スコットはロス島で越冬し,12年1月17日に南極点へ到達したが,帰路隊員5名全員が死亡した。この頃,退役陸軍中尉白瀬矗(のぶ)の率いる日本最初の南極探検隊は1910年(明治43)11月29日開南丸(204トン)で東京芝浦を出帆,12年1月,ロス棚氷に接近し小湾(開南湾と命名)から偵察隊が上陸し,本隊は鯨湾近くに上陸した。白瀬隊長ら5名はそり2台と樺太犬30頭でロス棚氷上を南進し,1月28日南緯80°05′,西経156°37′の地点に到着,付近一帯を大和雪原(やまとゆきはら)と命名し帰途についた。この間開南丸は東航し,大隈湾の命名や上陸して岩石の採集などを行った。帰国したのは12年6月20日であった。以後20年代までイギリスのシャックルトンErnest Henry Shackleton(1874-1922)の大陸横断の企て(1914-16)や各国の海洋調査が続いた。やがて航空機の時代が始まる。
1928-30年,アメリカのR.E.バードはロス棚氷のホエールズ湾にリトル・アメリカ基地を建設,33-35年の第2回バード探検では,リトル・アメリカⅡ基地を設け,航空機を利用した地学調査,人工地震法による氷厚測定などを行った。34-35年には日本が南極海捕鯨を開始した。39-41年,アメリカのバードは政府支援のもとに,リトル・アメリカⅢと南極半島のストニントン島に基地を設け,両基地で大規模な航空偵察と調査を行った。この間ノルウェーやドイツなどの航空機による調査が各地で行われた。46-47年,バード指揮のもとにアメリカ海軍のハイジャンプ作戦が行われた。寒地での作戦行動と大規模調査で,南極史上最大である。参加人員4700人,潜水艦を含む艦船12隻,水上機,ヘリコプター,雪上車などを投入した。バードは2度目の南極点飛行を行うとともに,東南極沿岸で大規模な航空写真撮影などを行い,バンガー・オアシスを発見した。1930年代から,南極半島周辺でイギリス,アルゼンチン,チリが基地建設を始めていたが,第2次世界大戦後再び活発となった。47-48年,アメリカのロンネFinn Ronne(1899- )はストニントン島で越冬し,南極半島東岸の航空偵察を行い,ロンネ夫人ほか1名が女性として南極で初めて越冬した。アメリカの民間探検として最後のものである。同じく47-48年,アメリカ海軍はウィンドミル作戦と呼ぶ地上基準点測量を中心とし,沿岸域で調査を行った。以後,57-58年の国際地球観測年までの間,各国の越冬,調査が行われた。
1952年に国際学術連合会議は57-58年の国際地球観測年(IGY)ではとくに南極地域の観測に重点を置くことを決め,55-56年,アメリカ隊のバードの下での冷凍作戦をはじめとし,オーストラリア,アルゼンチン,チリ,イギリス,ソ連,フランス,ニュージーランドなどが基地を設け,活発な準備に入った。この時期にイギリスの南極大陸横断隊のフックスVivian Ernest Fuchs(1908- )隊長以下は57年10月に前進基地シャックルトンを出発し,アメリカの設けたアムンゼン・スコット南極点基地に58年1月20日到着,さらにロス島のニュージーランドのスコット基地に3月2日に到着し,南極大陸横断に成功した。1956年11月,日本南極地域観測隊は〈宗谷〉で東京港を出発,翌年1月29日リュツォー・ホルム湾のオングル島に昭和基地を開設した。一時基地は閉鎖されたが,66年1月に再開,現在まで観測が続けられている。近年南極観測に従事している国は越冬基地を中心としており,各国の越冬基地は84年現在,アルゼンチン9,オーストラリア4(マコーリー島を含む),チリ3,西ドイツ1,フランス4(亜南極の島に3),インド1,ニュージーランド2(キャンベル島を含む),ポーランド1,南アフリカ3(亜南極2),イギリス6(サウス・ジョージアのバード島を含む),アメリカ4,ソ連7,そして日本2である。日本は昭和基地のほかに,1970年7月昭和基地の南東約270kmの大陸氷床上に二つ目のみずほ観測拠点(78年みずほ基地と改称)を設け,さらに85年あすか観測拠点(2004年あすか基地と改称),1995年ドームふじ観測拠点(2004年ドームふじ基地と改称)を設け,現在に至っている。
IGY観測は地球全域で行われ,観測項目は気象,地磁気,オーロラ,大気光,電離層,太陽活動,宇宙線,雪氷,海洋,地震,重力,測地など広範囲にわたった。南極でもこれらの観測項目をできる限り各基地で取り上げることになっていたが,各国の科学技術,立地条件などで,必ずしも多くの項目が取り上げられたわけではない。IGYの頃は太陽活動の極大期,すなわち黒点数の多い時期に相当していたので,太陽活動に関係の深い超高層物理の諸分野が考慮された。64-65年は太陽活動極小期に当たるので,このときにも国際的な観測事業の一環として南極での観測が行われた。さらに,69-71年には再び太陽活動が盛んになる時期に当たるので国際事業が行われた。その後76-79年には国際磁気圏観測計画,82-85年には中層大気国際共同観測計画として,超高層物理学と気象学の分野との共同研究が進められている。一方,各基地では気象観測が必要最小限の観測項目となっている。これは,気象通報や気象予報上のみならず,過酷な自然環境下での生活にとっても必要だからである。気象観測のように各国とも恒常的に行っているものもあれば,各国独自または2国間,多国間が共同で行う研究計画もある。たとえば,ドライ・バレー掘削計画が日本,アメリカ,ニュージーランドの共同で1972年から3年間続けられた。ドライ・バレーは1902年スコット隊がロス海西側のビクトリア・ランドの南部で発見した雪や氷のない4000km2に及ぶ地域である。ここには湖沼が点在し,表面は氷に覆われているが,氷を通して日射が湖水に吸収され蓄熱の結果水温が高くなり,同時に湖水は高塩分のため密度が高く湖底へ沈み,底層の水温は冬でも25℃に及ぶものもある。このような無氷谷の成因や周囲の氷河の変遷を知るために,谷の各所はもとより海氷上から海底の掘削も行って,得られたコアの解析を進めた。日本隊によるやまと山脈付近での隕石の発見は各国の研究者の興味を引き,特にアメリカは日米合同でビクトリア・ランドの裸氷域における隕石探査を申し入れてきた。76年から3年間の合同探査により約600個の隕石が発見・採取されている。その後ロス島のエレバス火山の火山物理や地震の調査,マクマード入江の堆積層の掘削なども日本,アメリカ,ニュージーランドの協力で進められてきた。雪氷学の分野では,日本隊はみずほ高原での調査に重点を置いてきた。一方,オーストラリア,フランス,イギリス,アメリカ,ソ連も東南極の氷床に興味をもち,国際南氷床観測計画と称する共同調査を進めてきたが,近年日本もこれに参加している。年1回情報の交換を主とした形態をとっているが,参加国の中には2国間で研究者の現地交換派遣,設営面での支援などを行っている場合もある。
海洋生物に関しては,ナンキョクオキアミや魚類が漁獲の対象とされつつあるおりから,海洋生物資源管理の基礎資料を収集する必要が生じ,このため種々の国際機関が共同で,77年から10年間〈南極海海洋生態系および海洋生物資源に関する生物学的研究計画(バイオマス計画)〉を実行することとなった。この計画の第1回観測が80-81年に行われ,多数の観測船が特定海域で一斉調査を行った。第2回は83-84年,国によっては84-85年に行われた。1980-81年の調査には10ヵ国から17隻の研究船が参加,日本からも東京水産大学の海鷹丸,水産庁の開洋丸,南極観測船ふじ,海洋水産資源開発センターの吉野丸の4隻が参加した。海洋生物資源とともに鉱物資源も近年各国の注目するところとなっている。
基礎調査は各国ともそれぞれの規模で進めているが,アメリカ,ソ連のような機動力に富む国の調査は規模が大きい。ソ連は5年計画でフィルヒナー棚氷上に夏基地ドルージナヤを設け,毎夏150名程度の調査員や航空要員を動員し,半径約500km以内の氷床,基礎,露岩,棚氷の地球物理・地質調査を続けている。フィルヒナー棚氷の南にはペンサコラ山脈があり,その中のデュフェック岩体は南アフリカのブッシュフェルト岩体に類似し,重金属や貴金属の存在がアメリカ隊によって報告されている。ソ連隊もこの地域の調査を独自に行っており,東ドイツの科学者は参加しているものの,他国との共同調査とはなっていない。一方,南極横断山地の他端,北ビクトリア・ランドの地質調査が,西ドイツ,ニュージーランド,オーストラリア,アメリカの共同で進められ,ここには西ドイツが小屋を建てている。このように南極観測も,一国独自で行うもの,他国と共同のもの,実質的な国際共同であるものなど,種々の形態で行われている。近年,インドとブラジルが南極観測を開始した。
アザラシ猟が南極地域での最初の商業行為である。1770年代からフォークランドやサウス・ジョージアで始まったミナミゾウアザラシやナンキョクオットセイの狩猟にはイギリスをはじめ,アメリカ,ロシア,フランスの狩猟者が殺到した。彼らはしだいに南下し,1820年代には南極半島先端のサウス・シェトランド諸島付近に出没している。ナンキョクオットセイはサウス・ジョージアで1820年から22年の間に100万頭以上も捕られたといわれ,30年には絶滅寸前となった(現在20万頭と推定)。次いでミナミゾウアザラシの毛皮と油脂が求められ,これも絶滅に近づいたが,その後の管理で回復しつつある。これらのアザラシやオットセイの商業捕獲を規制する条約(〈南極のあざらしの保存に関する条約〉。1972年6月1日締結,78年3月発効,日本は80年9月27日加入)が制定された。アザラシ猟に次いで捕鯨の時代がきた。母船式捕鯨が盛んになるにつれて資源量も減じ,捕鯨条約による厳しい規制が加えられている。サウス・ジョージアの陸上鯨処理場は一時日本の業者が経営していたこともあったが,南極海の捕鯨の衰退は著しい。漁業国は南極海の魚類やオキアミを捕獲しており,とくにオキアミ漁業は今後の注目に価する。しかし,南極海の海洋生物資源の保存条約(1980年5月20日締結,82年4月7日発効)が結ばれ,適正な捕獲と環境保全の義務が負わされている。
1960年代の終り頃からは,南極の鉱物資源の探査開発とこれに伴う環境保全への関心が高まった。この問題を検討するため,南極条約協議国(日本を含む原署名国とその後南極観測活動によって協議国となった計16ヵ国)が中心となって条約締結への会合が重ねられてきたが難航している。南極条約で領土権主張は凍結されているとはいえ,鉱物資源の探査・開発には領土権主張問題がからみ事態を複雑にしている。主張国はイギリス,オーストラリア,ニュージーランド,フランス,ノルウェー,アルゼンチン,チリの7ヵ国。米・ソ両大国をはじめ,その他は非主張国であるが,主張国の権利を認めず,同時に自国の主張の権利を留保している。日本はサンフランシスコ条約で領土請求権を放棄している。また発展途上国が南極へ関心を高めつつあるので,協議国間には締結への早期打開をはかる動きも出ている。南極での鉱業活動はまだ採算がとれる段階ではなく,まず大陸棚にあると推定される石油や天然ガスからであろうが,海氷や氷山のある海域での掘削技術の確立に時間がかかる。淡水源としての氷山を中低緯度へ曳行するなどの動きもあるが,技術上の検討が必要である。南極の実際的な開発とはいえないが,近年の南極観光客の増加を見ると,観光資源としての価値は十分ありうる。しかし,観測基地立入りや自然保護の問題が残されている。
執筆者:楠 宏
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