603年(推古11)に制定された日本最初の冠位制度で,律令位階制度の源流をなすもの。従来,豪族たちは大和朝廷において氏ごとに一定の職務を世襲し,その政治的特権の表象として特定の冠を襲用してきたが,これは,それとは別に個人を対象とし,昇進の原則をもつ新しい冠位制度であった。制定者は推古朝の皇太子聖徳太子と考えてよいが,時の大臣蘇我馬子の関与も十分考えられる。冠名は徳を初めに置き,以下に仁・礼・信・義・智の五常の徳目をとり,おのおのを大・小に分けて12階とし,各階に相当の色を定めたが,その具体的な内容は不明。冠は相当の色の絁(あしぎぬ)で作り,頂部はまとめて囊(ふくろ)のようにし,さらに別布で縁をつけ,元日にはこれに髻花(うず)をさして飾とした。制定の翌年604年から実施されたが,冠位を授与された者の実例から推すと,その施行の範囲は後の畿内とその周辺の地域に限られていたらしく,地方豪族にまで広く冠位制度が浸透するのは,大化以後の新冠位制をまたなければならなかった。また,その限られた施行地域についても,冠位がいっせいに授けられたわけではなく,新制施行までの四十数年間に徐々に対象をひろげていったものと思われる。さらに,蘇我氏など有力豪族についても冠位の施行は疑わしく,蘇我氏のごときはむしろ制定者の側であり,みずからは冠位を拒んだものと考えられる。授与の実例をみると,聖徳太子の側近,海外派遣の外交使節,新羅討伐の将軍などを主とするが,これからすると,冠位は天皇と豪族・官僚との主従関係の確認・強化をねらったものと考えられ,徳冠がのちの四位クラスに相当し有力豪族にこれが及ばなかった理由もわかる。冠位制度は,太子の独創になるといわれてきたが,近年では百済の官位制を中心とし,これに高句麗の制度を参照して考案されたという見解が有力である。
→位階
執筆者:黛 弘道
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603年(推古天皇11)に設けられた冠の種類によって朝廷内の序列を示す最初の制度。『日本書紀』によれば、徳・仁・礼・信・義・智(ち)をそれぞれ大小に分けて十二階とし(『隋書(ずいしょ)』倭国伝(わこくでん)では、徳・仁・義・礼・智・信の順になっている)、冠には紫・青・赤・黄・白・黒の色を配し、大小はその色の濃淡で区別した。通説では、小仁が、後の令(りょう)制の五位にあたるとしている。冠位の制は、百済(くだら)の官位制を中心として高句麗(こうくり)の制を参照してつくられたとする見解が有力で、厩戸(うまやど)皇子(聖徳太子)の独創とする旧説は誤りである。冠の授与者をめぐっても、近年の蘇我(そが)氏ならびに7世紀の政治過程の研究の発展からみると、「聖徳太子の事業」とするにはさらに検討が必要となっている。643年(皇極天皇2)蘇我蝦夷(えみし)がその子の蘇我入鹿(いるか)に紫冠を授けたとする記事は、その点で示唆的である。冠の被授者は、皇親・大臣が除外されていたと考えられており、授与された者は畿内(きない)および周辺の者に限られていることが判明している。しかし、限定された範囲にのみ施行されたものとはいえ、この制度は、647年(大化3)冠位十三階の制定まで続いていたと考えられており、また、朝廷内の新しい秩序をつくった点で画期的なものであった。
[荒木敏夫]
603年(推古11)に定められた日本最初の冠位。徳・仁・礼・信・義・智の儒教的徳目をそれぞれ大小にわけ大徳以下の12階とする。色の異なる絁(あしぎぬ)で作った嚢(ふくろ)状の冠で,元日などの儀式の際には階に応じた材質の飾りをつけ,衣服にも冠と同色を用いる。施行範囲はのちの畿内とその近国に限られ,中央豪族については,最上位の大徳がのちの令制の四位に対応するように,蘇我氏などの最上層豪族と皇族は授与対象から外されていた。官職ではなく個人を冠の授与により格づける点は,中国ではなく朝鮮三国の制度をうけついだもの。推古朝には従来の部民制が官司制的なかたちで整備され,官人制の萌芽が形成されるとともに,遣隋使の派遣など積極的な外交が展開されたため,外交の場で使節の身分を表示する必要も生じ,これらのことが制定の背景と考えられる。
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…官人社会における個人の地位を表す序列・等級。
[冠位制の流れ]
日本における位階制は603年(推古11)の冠位十二階に始まる。これは,官人序列を冠の色によって表そうとするもので,源流は朝鮮半島の制度に求められる。…
…現存する養老令の官位令はその規定である。日本の位階制は603年(推古11)の冠位十二階で創始されたが,これにも一応,漠然とした対応関係がみられたと推測することも可能である。しかし,それは厳密な官位相当制ではありえない。…
…それゆえ固有法とみられるものでも,その起源を尋ねれば,実は朝鮮三国,さらには中国から〈継受〉したものであるというような場合の存することを,予測しておかなければならない。たとえば,かつて聖徳太子の独創になるものと考えられていた冠位十二階が,近年,百済の官位制を中心とし,これに高句麗の官位制を参照して作られたものであることが明らかとなったことなどは,その一例である。その意味で上記の二区分は,外国の法を体系的に継受した律令法をもって継受法とし,便宜的にそれ以前の時代と区別したものであるにすぎない。…
…この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。…
…任那(加羅)の回復をめざして新羅と敵対していた倭は,隋との外交を開くことによって新羅に対する立場を有利にすべく,約1世紀間中絶していた中国王朝との外交を再開し,600年(推古8)に使節を隋の都に送った。 この600年の遣隋使について《日本書紀》は何も記していないが,この遣使のあと,603年に冠位十二階,604年に十七条憲法が制定され,607年に小野妹子を大使とする本格的な遣隋使が派遣されているので,600年の遣隋使が長安の都で受けた政治的・文化的なショックが,推古朝の国政改革の重要な契機となった可能性が強い。十二階の冠位の制定も,国内的な要因によるだけでなく,遣隋使の威儀を正し,その使節の地位を明示するためでもあったと推定される。…
…
[飛鳥・奈良時代]
こうした染色技術の進展は,603年(推古11)に始まった冠位制の設定などを契機に,いっそうの発展をみたと考えられる。冠位制では,位によって異なる色相の絁(あしぎぬ)の冠を授けて身分の上下を示したが,この年制定の冠位十二階では紫,青,赤,黄,白,黒の6色が配されていた。また衣服の色も,冠と同じ色が用いられた。…
…これは王権に結集した支配階級が上下一律に着用するものであり,その間の階層差を反映するものではなかった。日本で初めて王権のもとに結集した支配階級を,個人を対象に階層化したのは603年(推古11)の冠位十二階である。ここではまず,冠の基台ともいうべき,絁(あしぎぬ)製の袋状の被り物の,6種の色で冠位を区別し,ついで冠飾に金その他の素材による差等表示の制が導入された。…
※「冠位十二階」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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