ビルマ族による史上最初の統一国家(1044-1299)。イラワジ川中流の東岸に今も当時の都パガンの跡が残っている。都城のパガンが築かれたのは9世紀中ごろで,イラワジ河畔に点在していたピュー族の小集落19ヵ村がその基礎となった。パガンが王国として確立されたのは,アノーヤター王(在位1044-77)の登場後である。王は周辺諸部族を征服し,北はシュウェリー川から南はマルタバン湾岸に至るイラワジ川流域の平地を中心に王国を築きあげた。1057年には南部ビルマのタトンに遠征,国王マヌハをはじめ多数のモン族捕虜をパガンに連行した。パーリ語一切経の入手が直接的動機とされるこの遠征によって,パガンにはモン文化がもたらされ,ビルマ族はモン文字を用いてビルマ語を書き表すようになった。在来の土着信仰や大乗仏教の勢いは,タトン伝来の上座部仏教の浸透に伴い弱まった。アノーヤターは大乗仏教を単に上座部仏教に置き換えただけではなく,アリー僧という民衆に君臨していた既成の権威を排除し,パガン王権による新しい政治秩序を確立することであったとみられる。彼の死後即位したその子ソールー(在位1077-84)は,モン族の反乱で殺され,後を継いだチャンシッター(在位1084-1113)は,現存する碑文から判断するとモン文化の熱心な擁護者であった。王位はその孫アラウンシードゥー(在位1113-63)を経てナラトゥー(在位1163-65)に引き継がれたが,侵入したセイロン人に殺された。パガンの王統はその後10年近く断絶したが,ナラパティシードゥー(在位1174-1211)の出現で復活した。
パガンではこのころからモン文化が衰え始め,代わってビルマ文化が興隆する。ビルマ語碑文が急増するのもこのころからである。バラモン教や大乗仏教と混交していたタトン系の仏教は,セイロンで修行した僧チャパタが1190年に帰国すると,セイロン直伝の大寺派系上座部仏教に取って代わられた。この上座部仏教の浸透に伴い,パガンでは仏像の造像や堂,塔,伽藍の建立が盛んとなり,王都パガンはおびただしい仏教建築物によって埋め尽くされた。伝説によれば,その数は440万を超えたという。これらはすべて煉瓦造で,円錐形または覆鉢形をしたパゴダ(仏塔)と,内部の祠堂に尊像を安置した寺院とに分かれる。その起源はモン族のタトンではなく,ピュー族のシュリ・クシェトラに求められるようである。当時の建築物はビルマ美術のひとつの極致であり,外壁にはしっくいによる鬼面や蓮華模様の装飾浮彫が施され,内部の壁面には,礼拝堂,祠堂を問わず仏伝や本生図などの壁画が描かれている。200年以上も続いた仏塔寺院の建立とそれに伴う土地や奴隷の奉納は,パガンの国家財政を消耗し,国力を著しく疲弊させた。三宝に寄進された土地は免税地とされ,奉納された奴隷たちは政治権力の支配対象外に置かれたからである。13世紀後半になると,元からの入貢・臣従の要求という外部からの衝撃も加わる。パガンはその要求を拒絶したため1277年から87年までの10年間に4回も元の征討を被るはめとなった。結局,パガンの王権は元に隷属することによってかろうじてその存続を認められたが,政治の実権は東部山地から進出してきた新興勢力のシャン族の手に奪われ,99年に王朝は廃絶され消滅した。
執筆者:大野 徹
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中央ビルマ(現、ミャンマー)のパガンの地に、アノーヤター(在位1044~1077)によって樹立されたビルマ人最初の王朝。下ビルマのモン人を制圧し、イラワディ川、チンドウィン川の流域一帯を版図にし、当初はモン人の文化をそのまま受容したが、12世紀末にはビルマ文字もつくられ、独自の文化が開花した。この王朝時代は、上座部(小乗)仏教の信奉が社会生活の中心に置かれ、仏教寺院やパゴダの建立が盛んに行われ、また田畑やチュワン(一般農民で、身分的には隷属状態にあった)が寄進された。パガンの仏教建築物はおびただしい数に上り、そのため建寺王朝ともよばれる。13世紀前半には、セイロン(スリランカ)から直接教義の導入も行われた。このような仏寺の建立や、寄進による寺領地や寺領民の増大は財政の消耗と租税収入の減収を意味し、王室財政はしだいに悪化していった。こうして弱体化した王室に、1278年から4回に及び元(げん)軍が侵攻し、1287年には元に隷属することで王朝は事実上終った。
[伊東利勝]
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1044~1299
1044年アニルッダ王の即位以後,イラワジ川中流域の寡雨地帯に覇権を確立した王朝。当初公用語としてモン語を採用するが,12世紀末からビルマ語を用いるようになる。仏教思想にもとづく政治を行い,王都パガンを中心に多くの仏塔,寺院が建立された。各地に建設された大規模な灌漑施設による農業やタニンダーイー地方の交易が王室の経済基盤であった。1287年,都が元による侵略を被った頃から地方権力が強大化し,王朝は滅亡に向かった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…小乗上座部系の仏教が優勢であったため釈迦像が主体であるが,観音などの大乗の菩薩像や密教系尊像もある。 ミャンマーではパガン朝(1044‐1287)治下に造形活動が最も隆盛した。この王朝の諸王は小乗仏教の信奉者で,仏像は釈迦仏か過去四仏に限られ,インドのパーラ様式を踏襲している。…
…ビルマの仏教は,スリランカ,タイ,カンボジアなどの仏教同様に南方上座部仏教で,前3世紀の初めごろ,モン族の地ラーマニャデーサに伝えられたのが最初だとされる。その後パガン朝の興隆とともに全土に普及し,15世紀後半にはスリランカの大寺派の授戒様式が伝えられて今日のビルマ上座部仏教の基礎となった。パガン時代には国王や王族,貴族による仏塔,寺院の建立が盛んに行われたが,そうした建塔思想はその後も人々の間に強く根を張っており,今日でも白い仏塔が全国いたるところで見られる。…
※「パガン朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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