たつの(市)(読み)たつの

日本大百科全書(ニッポニカ) 「たつの(市)」の意味・わかりやすい解説

たつの(市)
たつの

兵庫県南西部にある市。南部は瀬戸内海播磨灘(はりまなだ)に臨む。2005年(平成17)、龍野(たつの)市、揖保(いぼ)郡新宮町(しんぐうちょう)、揖保川町(いぼがわちょう)、御津(みつ)町が合併して成立。市域は南北に細長く、北部は中国山地の主脈に連なる山地で、南は播磨灘に面する。東端部を揖保川が南流し、その流域平地が広がる。千種(ちくさ)川水系に属する北西端部を除き、すべて揖保川水系に属する。南部をJR山陽本線、山陽自動車道、国道2号が、海岸部を国道250号が横断。山陽自動車道の龍野、龍野西の各インターチェンジがあり、播磨ジャンクションからは播磨自動車道が北へ分岐する。市の東部から北部をJR姫新線(きしんせん)、国道179号(出雲街道)が並行しながら走り抜ける。新舞子(しんまいこ)など海岸一帯は瀬戸内海国立公園の指定域。

 北東部、揖保川右岸にある新宮宮内遺跡(しんぐうみやうちいせき)(国指定史跡)は、縄文時代後期から奈良・平安時代にまたがる集落遺跡で、弥生時代中期では国内最大級の円形周溝墓の一部が確認されている。古代の山陽道は市の中南部を横断しており、揖西町(いっさいちょう)小犬丸(こいぬまる)では同道布勢(ふせ)駅の中枢的建物跡群が発見された。また山陽道から分岐する古代の美作道のルートは、現在の姫新線や国道179号とほぼ重複するとみられ、同道の越部(こしべ)駅の所在が市域に推定される。播磨灘に臨む室津(むろつ)は、古くから瀬戸内海の海上交通の要衝。『万葉集』に「室の浦」とみえ、都人には歌枕としても聞こえた。『平家物語』によると、源平の合戦では平教盛・重衡が「室山」に陣を布き、源行家を破っている。中世には山陽道の弘山宿、鵤(いかるが)宿があり、さらに小宅(おやけ)荘や揖保荘にも宿場集落が形成されていた。1336年(建武3)九州から攻め上る足利尊氏は、室津に入って赤松円心の訪問を受けている。播磨守護となった赤松氏は、14世紀中ごろ、越部荘の亀(き)山に城山(きのやま)城を築いた。山麓には守護屋形を造営し、播磨支配の拠点とした。16世紀、赤松村秀が鶏籠(けいろう)山上に築いた龍野城は、のち山麓に移されて城下町が形成される。1672年(寛文12)脇坂安政が信濃国飯田(いいだ)から龍野に移り、以降、龍野藩脇坂氏5万3000石の城下町として繁栄した。龍野の醤油醸造は天正年間(1573~1592)に始まったといわれ、17世紀後半ごろから、他所売りが開始された。龍野醤油は揖保川を高瀬船で網干(あぼし)(姫路市)まで下し、京都・大坂へと出荷された。近世の美作道の揖保川渡河点には觜崎(はしさき)宿が置かれた。また美作道の脇道の揖保川渡河点に位置する新宮村には、1627年(寛永4)新宮藩領(のち旗本池田領)の陣屋が設けられる。新宮河岸(新宮浜)は物資流通の拠点となり、新宮町と称されにぎわった。中国地方西部や四国・九州の大名は17世紀末ごろから、瀬戸内海を航行して室津に上陸、同所から山陽道に出て陸路を参勤することが多くなる。室津は室津千軒といわれるほど繁栄し、室津と山陽道を結ぶ道に沿う正条(しょうじょう)も宿場町として栄えた。

 地場産業の醤油醸造、手延べそうめん製造は現在も盛んで、また電機や化学関連の工場も稼動。農業では花卉(かき)、紫黒米、鮮度が要求される軟弱野菜、トマト、ダイコンなどを栽培。市の北西部から上郡(かみごおり)町、佐用(さよう)町にまたがる丘陵地を開いて播磨科学公園都市の整備が進められ、研究・教育機関やハイテク関連企業が進出している。龍野城下町は播磨の小京都とよばれた町並みが保存される。1544年(天文13)建立の天満神社本殿、元禄期の賀茂神社の本殿や摂社3殿ほか、江戸末期の豪農の家の姿を伝える永富家住宅(ながとみけじゅうたく)、藤原時代の作とされる室津見性寺(けんしょうじ)の木造毘沙門天立像などは、いずれも国指定重要文化財。觜崎の屏風(びょうぶ)岩、龍野のカタシボ竹林は国指定天然記念物。面積210.87平方キロメートル(境界一部未定)、人口7万4316(2020)。

[編集部]


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