南アフリカ共和国の南部、旧ケープ州東部(現東ケープ州)にあった「黒人国家」(ホームランド)。1993年の暫定憲法制定に伴いホームランドは解体された。面積4万3798平方キロメートル、人口は1983年当時約250万。住民はおもにコーサ人。当時の首都はウムタタ。19世紀初めケープ植民地の白人の内陸への拡大とともに先住民のコーサ人はしだいに追いやられケイ川の東側に定着した。1913年南アフリカ連邦(1961年より南アフリカ共和国となった)政府は原住民土地法を通じてトランスケイを統治したが、59年のバントゥー自治促進法により、63年最初のバントゥスタン(黒人自治地区)となり制限付きの自治を付与された。さらに76年南アフリカ共和国政府は人種差別政策への非難をかわすためトランスケイに「独立」を付与したが、国際社会はそれを認めなかった。大統領はトランスケイ国民党のK・マタンチマが務めていた。住民の自給自足農業以外みるべき産業はなく、当時は大半の家族の家計は南アフリカ共和国への出稼ぎからの送金に依存し、国家財政の60%以上を南アフリカ共和国政府からの補助金に依存していた。
[林 晃史]
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南アフリカ共和国南東部,旧ケープ州東部にあったアフリカ人居住地区。アフリカーンス語ではトランスカイという。インド洋岸にあり,南はグレート・ケイ川,北は旧ナタール州,北西は独立国レソトに囲まれていた。面積4万2735km2,人口210万(1976)。現在は東ケープ州の一部。住民はコーサ族が多い。南ア共和国白人政権は1963年にこの地区をケープ州から切り離して,アパルトヘイト政策によるバントゥースタンの一つとし,76年に〈独立国〉としたが,国連もアフリカ統一機構(OAU)も独立国と認めなかった。この地域は丘陵や山地が多く,農耕に適しないため,住民は自由州やトランスバール地方に,鉱工業や白人農場への出稼ぎ労働者として働きに行かざるをえない。しかしインド洋沿岸はイワシなどの水産資源が多く,漁業活動が盛んである。ケープ・タウンから見てケイ川の向こう側にあるため,トランスケイと命名されて1848年にイギリスに併合され,94年までに全地域がケープ植民地内の原住民保留地として統治されるにいたった。
執筆者:西野 照太郎
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…南アフリカ共和国の南東部,トランスケイとシスケイに住む,人口約350万(1970)の大きな部族。ズールー族,ポンド族,スワジ族などとともに,言語的にはバントゥー語族のなかのヌグニ語グループに属する。…
…南アフリカ共和国政府の分離発展政策によってつくられた南ア共和国内のアフリカ人自治地域。1913年の原住民土地法により,南ア連邦内のアフリカ人は全国土の9%に相当する原住民指定地(リザーブ)内に部族ごとに隔離され,次いで36年の原住民信託土地法によってその面積は13%まで拡大されることになったが,その実施は第2次世界大戦の勃発によって大幅に遅れた。50年代になってリザーブ内の土地に対する人口圧が高まり,その解決を目ざしてバントゥー地域社会経済開発委員会(通称トムリンソン委員会)が政府により任命され,その報告書が55年提出された。…
※「トランスケイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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