改訂新版 世界大百科事典 「バシコルトスタン共和国」の意味・わかりやすい解説
バシコルトスタン[共和国]
Bashkortostan
旧ソ連邦ロシア共和国内においてバシキール自治ソビエト社会主義共和国として存続してきたが,1992年2月にバシコルトスタン共和国に改称し,ロシア連邦に加わっている。1919年に自治共和国として成立。面積14万3600km2,人口410万4300(2002)。首都ウファ。ボルガ川とウラル山脈の間に位置し,西部でタタールスタン共和国,ウドムルト共和国に,東はチェリャビンスク州,南はオレンブルグ州に接している。ウラル山脈の南端とそれに続く準平原や台地が東部を占め,西部はなだらかな平原をなしている。気候は大陸性で,1月の平均気温は-14~-17℃,7月は16~20℃。年降水量は300~600mmで,森林が国土の40%以上を占める。トゥイマジTuimazy,イシンバイIshimbai,シカポボShkapovoなどを中心に石油・天然ガスを産出し,旧ソ連以来,屈指のボルガ・ウラル油田の一部を構成する。ほかに褐炭,鉄,金などを産出する。工業面では石油関連工業が圧倒的な比重を占め,ウファ,サラバトSalavat,イシンバイに精製・加工工場がある。そのほか金属加工・機械製作などの工業が発達している。また,農業も重要で,国土の約半分が農地となっており,小麦を主とする穀作と乳牛・肉牛の飼育を中心とする牧畜が盛んである。
民族構成ではバシキール人は21.8%(1989)で,4割を超すロシア人,4分の1を占めるタタール人に次いで,第3位を占め,チュバシ人,マリ人,ウクライナ人がそれぞれ数%を成している。バシキール人は形質,宗教,言語からみて,タタール人にきわめて近く,トルコ系のバシキール語を話し,宗教はイスラムのスンナ派に属する。バシキール人の民族的起源は必ずしも明確でないが,先住のフィン系とトルコ系の混血によって9~10世紀ごろに成立したと考えられる。バシキール人は1236年にモンゴル軍のバトゥによって征服され,キプチャク・ハーン国の支配下に入った。1502年キプチャク・ハーン国の解体後,西部はカザン・ハーン国,南部・南東部はノガイ・ハーン国に,北東部はシビル・ハーン国に,それぞれ支配された。ロシアのイワン雷帝によるカザン攻略の5年後の1557年に,バシキール人の一部がロシアの支配下に入り,17世紀初頭までに全土がロシアの支配下におかれた。ロシアの植民地支配,とりわけ強制的キリスト教化政策,過酷な税の徴収,ロシア人農民を中心とする植民者の流入とウラルの鉱山開発に対するバシキール人の反発は強く,1662-64年,81-83年,1705-11年,35-40年,55年,73-75年と2世紀にわたり反乱を繰り返した。反乱の鎮圧後エカチェリナ2世によりロシアのムスリムの最高権威であるムスリム宗務庁がウファに設置されたことに示されるように,反乱が〈聖戦〉とされることもあった。1917年のロシア革命とそれにつづく内戦期には碩学(せきがく)トガンを指導者として独立国家をめざす民族運動を展開し,ロシア共和国最初の自治共和国が形成された。90年10月に主権宣言を行い,92年2月にバシコルトスタン共和国に改称し,ロシアとは2国間条約でロシア連邦を構成している。
執筆者:青木 節也
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