外交官。明治15年12月7日鹿児島県に生まれる。1908年(明治41)東京帝国大学文科大学卒業。1912年外交官および領事官試験に合格して外交官となり、ドイツやソ連の駐在大使などを務めた。1941年(昭和16)10月、東条英機(とうじょうひでき)内閣の外務大臣になり、日米交渉など太平洋戦争開始時の外交を担った。1942年9月大東亜省設置に反対して大臣を辞職。1945年4月鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣でふたたび外務大臣になり、ポツダム宣言受諾による降伏を推進した。戦後、戦争犯罪人として有罪になり、拘禁中の昭和25年7月23日死去。外交手記として『大戦外交の手記・時代の一面』(1952・改造社)がある。
[山辺昌彦]
『『時代の一面――東郷茂徳外交手記』(2005・原書房)』▽『萩原延壽著『東郷茂徳――伝記と解説』(2005・原書房)』
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大正・昭和期の外交官,政治家 外相;貴院議員(勅選)。
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外交官。鹿児島県に生まれ,東京帝国大学を卒業し,1912年外務省に入る。中国,欧米で勤務ののち欧米局長,欧亜局長を経て37年駐独大使,38年駐ソ大使となる。41年東条英機内閣の外相兼拓相に就任したが,42年大東亜省設置に反対して辞任,貴族院議員に勅選された。45年鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜相として太平洋戦争終結に努力した。敗戦後極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け,50年7月23日アメリカ陸軍病院で病死した。著書に《東郷茂徳外交手記--時代の一面》がある。
執筆者:木坂 順一郎
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1882.12.10~1950.7.23
昭和期の外務官僚。鹿児島県出身。1912年(大正元)外交官・領事官試験に合格。33年(昭和8)外務省欧米局局長。34年外務省欧亜局局長。37年ドイツ駐在特命全権大使。38年駐ソ大使。松岡洋右外相の命により40年に帰朝。41年日米交渉の継続を条件に東条内閣の外相兼拓相として入閣。42年9月,大東亜省設置に反対して東条首相と対立し,単独辞職。同月勅選貴族院議員。45年鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜相に就任。ソ連を仲介とした終戦工作にあたる。8月9日のソ連の対日参戦とアメリカの長崎への原爆投下により,国体護持を条件にポツダム宣言の受諾を主張。第2次大戦後A級戦犯として禁錮20年の判決をうけ,米陸軍病院で死亡。
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…またこの会議では,純統帥事項が審議事項からはずされていたから,政戦両略の一致ははじめから困難であり,そのため小磯首相は45年3月特旨をもって大本営に列することになったが,この措置によっても目的を達することができなかった。つづく鈴木貫太郎内閣のもとでは,東郷茂徳外相が軍部の強硬論を押さえるため,正式構成員のみによる会議を提唱し,5月の会議ではソ連を仲介とする和平工作が議せられたが,6月には軍部の主導のもとに全構成員による御前会議で本土決戦遂行のための〈今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱〉を決定するなど,会議が和戦両派の対立の場となり,ついに8月10日と14日の御前会議では,天皇の裁断によってポツダム宣言の受諾が決定された。会議は敗戦後の8月22日の閣議で廃止され,終戦処理会議にかわった。…
※「東郷茂徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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