コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

東郷茂徳 とうごうしげのり

7件 の用語解説(東郷茂徳の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

東郷茂徳
とうごうしげのり

[生]1882.12.10. 鹿児島
[没]1950.7.23. 東京
外交官。太平洋戦争開戦時と終戦時の外務大臣。 1908年東京帝国大学卒業。 1912年外務省に入る。駐ドイツ,駐ソビエト連邦大使を経て,1941東条内閣の外相となる。日米交渉において太平洋戦争の開戦回避に尽力したが,結局開戦の責任者となった。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

とうごう‐しげのり〔トウガウ‐〕【東郷茂徳】

[1882~1950]外交官。鹿児島の生まれ。東条内閣の外相兼拓務相、鈴木内閣の外相兼大東亜相として、太平洋戦争の開戦と終戦をめぐる外交交渉にあたった。敗戦後、A級戦犯として禁錮20年の判決を受け、獄中で病死。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

東郷茂徳【とうごうしげのり】

外交官。鹿児島県出身。東京帝大文化大学卒。1912年外務省入省,中国・欧米に在勤後,欧米局長,駐独・駐ソ大使などを歴任。1941年10月東条英機内閣の外務兼拓務大臣となり,行き詰まった日米交渉を打開して避戦の道を探ろうとしたが,果たせなかった。
→関連項目東京裁判

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

東郷茂徳 とうごう-しげのり

1882-1950 大正-昭和時代前期の外交官。
明治15年12月20日生まれ。東郷寿勝の長男。昭和16年東条内閣の外相兼拓務相となり,日米交渉の打開につとめるが太平洋戦争の開戦を回避できなかった。17年東条首相と対立し,単独辞職。20年鈴木内閣の外相兼大東亜相となり終戦工作に尽力。戦後極東軍事裁判で禁固20年の判決をうけ,拘禁中の昭和25年7月23日病死。67歳。鹿児島県出身。東京帝大卒。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

とうごうしげのり【東郷茂徳】

1882‐1950(明治15‐昭和25)
外交官。鹿児島県に生まれ,東京帝国大学を卒業し,1912年外務省に入る。中国,欧米で勤務ののち欧米局長,欧亜局長を経て37年駐独大使,38年駐ソ大使となる。41年東条英機内閣の外相兼拓相に就任したが,42年大東亜省設置に反対して辞任,貴族院議員に勅選された。45年鈴木貫太郎内閣の外相兼大東亜相として太平洋戦争終結に努力した。敗戦後極東国際軍事裁判で禁固20年の判決を受け,50年7月23日アメリカ陸軍病院で病死した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

とうごうしげのり【東郷茂徳】

1882~1950) 外交官。鹿児島県生まれ。東大卒。東条内閣の外相として日米交渉に、鈴木内閣の外相兼大東亜相として終戦工作にあたった。 A 級戦犯として禁錮20年の刑を受け、獄中で病没。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

東郷茂徳
とうごうしげのり
(1882―1950)

外交官。明治15年12月7日鹿児島県に生まれる。1908年(明治41)東京帝国大学文科大学卒業。1912年外交官および領事官試験に合格して外交官となり、ドイツやソ連の駐在大使などを務めた。1941年(昭和16)10月、東条英機(とうじょうひでき)内閣の外務大臣になり、日米交渉など太平洋戦争開始時の外交を担った。1942年9月大東亜省設置に反対して大臣を辞職。1945年4月鈴木貫太郎(すずきかんたろう)内閣でふたたび外務大臣になり、ポツダム宣言受諾による降伏を推進した。戦後、戦争犯罪人として有罪になり、拘禁中の昭和25年7月23日死去。外交手記として『大戦外交の手記・時代の一面』(1952・改造社)がある。[山辺昌彦]
『『時代の一面――東郷茂徳外交手記』(2005・原書房) ▽萩原延壽著『東郷茂徳――伝記と解説』(2005・原書房)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の東郷茂徳の言及

【最高戦争指導会議】より

…またこの会議では,純統帥事項が審議事項からはずされていたから,政戦両略の一致ははじめから困難であり,そのため小磯首相は45年3月特旨をもって大本営に列することになったが,この措置によっても目的を達することができなかった。つづく鈴木貫太郎内閣のもとでは,東郷茂徳外相が軍部の強硬論を押さえるため,正式構成員のみによる会議を提唱し,5月の会議ではソ連を仲介とする和平工作が議せられたが,6月には軍部の主導のもとに全構成員による御前会議で本土決戦遂行のための〈今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱〉を決定するなど,会議が和戦両派の対立の場となり,ついに8月10日と14日の御前会議では,天皇の裁断によってポツダム宣言の受諾が決定された。会議は敗戦後の8月22日の閣議で廃止され,終戦処理会議にかわった。…

※「東郷茂徳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

東郷茂徳の関連キーワード帝国大学鹿児島大学馬淵東一滝精一鹿児島県鹿児島市草牟田鹿児島県鹿児島市武鹿児島県鹿児島市永吉戸田 邦雄東京帝国大学東京帝国大学セツルメント

今日のキーワード

パラチオン、パラチオンメチル

パラチオンは無色で油状の液体、パラチオンメチルはコハク色の液体。ともに毒性が強く、有機リン系殺虫剤として使用された。50年代以降、稲の害虫被害を防ぐことが確認され、広く導入された。しかし、農民の中毒死...

続きを読む

コトバンク for iPhone

東郷茂徳の関連情報