オーストリアの経済学者、思想家。ハイエクの業績を大別すれば、第二次世界大戦を境として、前期の純粋に経済学的時代と、後期の、経済学を核心としながらも、これを超えて哲学、法学、政治学、心理学、人類学等々きわめて広範な分野を、相互間の脈絡を失うことなく、一大理論体系へと進化的evolutionallyに発展させてきた時代とがある。もちろん、後期の萌芽(ほうが)は前期においてすでに明白に見取ることができる。それにしても、後期の深遠で広大な理論的発展は、ハイエクが20世紀における一大思想家であり碩学(せきがく)であることを示して十分である。
ウィーンに生まれ、ウィーン大学卒業後、1927年オーストリア景気研究所所長となり、29年に発表した貨幣的景気変動論でたちまち世界に令名を馳(は)せ、翌年ロンドン大学へ客員教授として招聘(しょうへい)され、2年後に正教授となった。50年にシカゴ大学へ、62年に旧西ドイツのフライブルク大学へ移り、69年から77年まで母国オーストリアのザルツブルク大学の客員教授となったが、その後ふたたびフライブルク大学へ復帰した。その間、74年にノーベル経済学賞を授与された。賞の名のとおり、ハイエクの主として前期における純粋に経済学的貢献に対するものであった。
貨幣的側面と実物的(生産構造上の)側面との両面から、相対価格体系の変動が景気の変動を発生させるとするハイエク理論は、この問題を捨象し主として集合量の変化に基づき、いわゆるマクロ的分析を行うケインズ派経済学とは、基本的・対照的に違っており、ハイエク‐ケインズ論争は有名である。ケインズ派の凋落(ちょうらく)とともに、改めてハイエク・ブームが始まったのも不思議ではない。かつて一度は「中立貨幣」を説いたハイエクが、1977年に「貨幣の非国有化論(国立中央銀行撤廃論)」を主張するに至ったのも当然かもしれない。だが、ハイエクは「自由放任論者」ではなく、自由社会や自由経済をよりよく発展させるために、政府は何をしなければならないかを、つねに新しい問題として解答していかなければならないという「新自由主義」を説く。主要な著書としては、『価格と生産』Prices and Production(1931)、『資本の純粋理論』The Pure Theory of Capital(1941)、『隷属への道』The Road to Serfdom(1944)、『個人主義と経済秩序』Individualism and Economic Order(1948)、『感覚秩序』The Sensory Order(1952)、『自由の体質とその原理』The Constitution of Liberty(1960)、『法と立法と自由』Law, Legislation and Liberty(1982)などがある。
[西山千明]
『西山千明・矢島鈞次監修『ハイエク全集』全10巻(1986~90・春秋社)』▽『C. Nishiyama & K. R. Le K. R. Leube (ed.),The Essence of Hayek (1984, Hoover Institution Press, Stanford University, Stanford, California, U.S.A.)』
オーストリアの経済学者。ウィーンに生まれる。研究領域は経済理論,経済政策だけでなく,科学方法論,法哲学,社会思想など社会科学の広範な分野に及ぶ。ウィーン大学の学生時代,法律学だけでなく,F.ウィーザーやO.シュパンの経済学の講義に出席するとともに,E.マッハやM.ウェーバーの著作を読んだ。このことは,後の研究上の関心(とくに感覚論,認識論)に大きく影響したと思われる。またこの時期,数人の友人たちと〈民主主義学生連盟〉を結成し,後年まで続くハイエクの国家主義と社会主義双方に対する戦いの第一歩を踏み出していることが注目される。ウィーン大学で法律学博士(1921)と政治学博士(1923)の学位を取得した後,一時アメリカのニューヨーク大学で学んだが,1924年ウィーンに戻り,G.ハーバラー,F.マハループ,O.モルゲンシュテルンなどの社会科学者やA.シュッツをはじめとする人文学者たちとの学問的交わりを深めた。27年,フォン・ミーゼスの推挙でオーストリア景気研究所長,29年には〈貨幣理論と景気循環〉をウィーン大学に提出し同大学の講師となる。つづいてL.ロビンズの招きでロンドン大学で研究生活を送ることになるが,ここでは,貨幣の純粋理論,貯蓄と投資の関係,景気循環の諸原因などに関するJ.M.ケインズとの大論争が研究の主要な部分を占めたといっても過言ではない。しかし同時にK.ポッパー,A.ブラントなどとの交友関係が,社会,法,自由に関する思索を深めていったことも見逃せない。あらゆる形態の社会主義を断罪した《隷従への道》(1944)などもこの時期に公刊されている。50年から62年までは,シカゴ大学の社会・道徳科学教授として,F.ナイト,G.スティグラー,M.フリードマンなどの研究グループの中で指導的役割を果たした。この時期の著作には《科学による反革命》(1952),《自由の憲章》(1960)がある。その後ヨーロッパに戻ってからは,畢生の大作といわれる《法,立法,自由》(第1部1973,第2部1976,第3部1979)を完成,この書の第3部のエピローグ〈人間的価値の三つの源泉〉はハイエクみずから知的遺言の書であると認めている。その他,社会主義下での経済計算論,価格機構論などに関する重要な貢献があるが,その業績の特色は,いずれも感覚論,認識論,社会科学方法論の強い基礎づけのもとに,体系的に展開されている点に存在するといえる。1974年,G.ミュルダールとともにノーベル経済学賞受賞。
執筆者:猪木 武徳
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…彼は帰属価格の厚生経済学的意味を明らかにし,先駆的な社会主義経済理論を展開している。さらに,企業者による革新を強調して《経済発展の理論》(1912)を説いたJ.シュンペーターもこの学派の出身であり,またオーストリア資本理論を基礎にした景気変動論や自由主義論で名高いノーベル賞受賞経済学者F.ハイエクは現代におけるオーストリア学派の代表的な存在であるといえよう。経済学説史【根岸 隆】。…
…このようないわば主観主義的な方向における経済哲学はオーストリア学派の流れにもみることができる。たとえば,その現代における代表者ともいうべきF.A.vonハイエクは,人間の意識的もしくは反省的な行為を扱うものとしての主観主義の社会科学を唱えることを通じて,経済学の自然科学化を厳しく批判している。またソシオ・エコノミックスといわれる研究も,経済行為の象徴論的解釈をめざすものであり,主観主義の経済哲学と深い関係をもちつつある。…
…いずれもシカゴ大学がそれぞれの分野で,ある時期に世界的影響を与えたことから発生した用語である。経済学・社会思想の分野におけるこの学派は1940年代のF.A.ハイエクに代表され,ハイエクがシカゴを去ったのちには,マネタリズム(新貨幣数量説)の提唱者でもあるM.フリードマンがその代表的学者と考えられることが多い。ハイエクの思想はアダム・スミスの考えを現代的に深化・拡大したものであり,最もすぐれた現実的社会経済体制は民主主義のもとにおける市場経済であることを,一つの社会経済理論として確立した。…
…ルソーやヘーゲルを援用する彼の新理想主義は,自由の実現のために国家の果たすべき積極的役割を示して,イギリス自由主義に新たな展開をもたらした。福祉国家が現実のものとなった今日,新自由主義を標榜するのはF.A.vonハイエク,M.フリードマンらケインズ批判派の経済学者である。彼らはケインズ派の有効需要政策を批判し,国家は通貨供給量の調節だけを行って,市場経済をかく乱すべきでないと説く(マネタリズム)。…
…完全競争的市場機構の資源配分機能に固い信頼をいだき,民間の自発的経済活動に対する政府の干渉を強く排斥する点に特徴をもつ。この派の代表者とみなされているのはロビンズLionel Charles Robbins(1898‐1984)とF.A.vonハイエクである。ロビンズは処女作《経済学の本質と意義》(1932)において,有名な〈経済学の希少性定義〉を与えるとともに,相異なる個人の基数的効用の比較可能性を前提とするA.C.ピグーの〈旧〉厚生経済学の基礎を厳しく批判した。…
※「ハイエク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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