日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヒッタイト美術」の意味・わかりやすい解説
ヒッタイト美術
ひったいとびじゅつ
紀元前1750年ごろから前1190年ごろに栄えたヒッタイト王国を中心に、それに先だつ先ヒッタイト時代、および新王国滅亡後の後期ヒッタイト時代(前12~前8世紀ごろ)の美術活動を含めてさすが、内容的にはむしろ今日のトルコの大部分を占める初期アナトリア地方の美術とよぶほうがより適切といえる。
[丸田正數]
先ヒッタイト時代
前3500年ごろから前1750年ごろまでで、今日トルコ各地で発掘が進んだ結果、各時代の文化様相は連続的に追求できるようになった。初期青銅器時代中葉以降についていえば、まずアナトリア中央のアラジャ・ホユックとエーゲ海方面のヒッサールリク・トロヤがあげられる。前者はAからMまで13の王墓から出土の遺宝で、ブロンズ製の祭器や金製の鉢・水注・装身具などが含まれ、とくに鹿(しか)や牛をかたどったブロンズの竿頭(かんとう)飾りにその特徴が著しい。トロヤとその周辺の出土品は、シュリーマンが誤って「プリアモスの遺宝」と想定したものであるが、ミケーネ、クレタとともにミケーネ文化の一つとしてとらえることも可能なもので、今日トロヤ遺跡におけるⅡG層(初期ブロンズ時代中葉)に比定される。末期には中部ではメソポタミアの影響が顕著になり、カッパドキア式彩文土器が出現する。
[丸田正數]
ヒッタイト王国時代
キュルテペ、アリシャール、ハットゥシャ(ボアズキョイ)では、中期青銅器時代末以降、土器は器形においてはますます洗練さと鋭さを加えつつ、幾何文による彩文がとだえ、赤色ないし黒色磨研土器にとってかわる。これは、カフカス方面からの新たな民族移入の影響によるとされる。
王国時代の首都ハットゥシャの造形活動において顕著なものに、記念碑の建設がある。とくにハットゥシャの三つの城門を飾る浮彫りと、その北東2キロメートルにある王国末期の聖所ヤズルカヤの神像・人像の浮彫りが重要で、そのうち、ハットゥシャの東門「王の門」の戦いの神のものが知られる。また丸彫りでは、ハットゥシャ出土のブロンズの男性小像があり、そのほかアナトリアの服装をした神や人像を刻んだスタンプ印章、メソポタミアの影響を受けた円筒印章も製作された。
[丸田正數]
後期ヒッタイト時代
新王国時代のシュッピルリウマ1世のとき支配が確立したカルケミシュをはじめとする北シリアの諸都市国家においては、ヒッタイト王国滅亡後も、アラム人によって美術活動が継承された。彼らはシリア美術を取り入れて、シロ・ヒッタイトSyro-Hitties(英語)といわれる独自の美術をつくりあげたが、浮彫り表現とヒエログリフの使用にその特色をよく示している。なかでも、アラム人の宮殿やアッシリアの王宮の宮殿壁面の腰羽目に用いられた「オルスタット」とよばれる石板の浮彫りが名高い。しかし、前9世紀初頭のアッシリア王アッシュール・ナシルパル2世のシリア征服以降は、しだいにその伝統も弱まった。
このように、ヒッタイトの美術は総体的には地方的水準にとどまったが、バビロニア文化を西方世界に伝える仲介者の役割を果たした点で、美術史上の意義は大きい。
[丸田正數]