日本大百科全書(ニッポニカ) 「ネルバル」の意味・わかりやすい解説
ネルバル
ねるばる
Gérard de Nerval
(1808―1855)
フランス後期ロマン派の詩人、小説家。本名ジェラール・ラブリュニーLabrunie。5月22日、パリで生まれる。幼くして母を失い、パリ北方のバロア地方に住む大叔父に養育された。やがてパリの父のもとに引き取られ、高等中学へ通学。同校在学中に処女詩集『ナポレオンおよび戦うフランス』(1826)を発表。1828年には『ファウスト』(第一部)の翻訳によって文壇に名を知られる。34年の秋、祖父の遺産でイタリアへ旅行。このころ、女優ジェニー・コロンJenny Colonの舞台姿を見て夢中になり、彼女のために雑誌『演劇界』を創刊。女優への恋は37年秋ころに、ひときわ高まるが、翌年初めには破局をみる。
1841年2月下旬に最初の狂気の発作にみまわれる。数か月入院し、退院後も回復に努める。この間に、ジェニーが病没(1842年6月)。ネルバルは、42年末にパリを出発し近東諸国を約1年間放浪。帰国後は、ふたたびジャーナリズムへ復帰し、劇評、旅行記、劇作、神秘家の伝記物語、詩などを発表する。
1849年ころから、またも精神の変調がみられるようになり、入・退院を繰り返す。この執拗(しつよう)に繰り返される狂気の発作の時期(最晩年の5年間)に、粒選(よ)りの傑作が生み出される。自由な創作や神秘学的教養を交えた『東方旅行記』(1851)、珠玉の短編七編を収めた『火の娘たち』(1854)、神話と幻想体験の融合したソネット群『幻想詩集』(1854)、夢と狂気の幻覚を独自のイデアリスムに基づいて意識的に再構築した小説『オーレリア』(1855)など、いずれも後の革新的文学の先駆けをなした作品は、すべてこの時期に完成または発表されたものである。病苦と貧窮の生活のあげく、55年1月26日朝、パリの裏町の一隅で縊死体(いしたい)となって発見された。
[入沢康夫]
再評価のネルバル
没後久しく文学史上ないがしろにされてきたが、20世紀に入って、プルーストやブルトンらによって、それぞれの理念と手法の先駆者として再評価されて以来、その声価はしだいに高まり、研究も大幅に進んできた。現在では、19世紀フランスの最重要作家の1人とみなされるまでになった。
[入沢康夫]
『佐藤正彰他訳『ネルヴァル全集』全三巻(1976・筑摩書房)』▽『篠田知和基訳『オーレリア』(1986・思潮社)』