スイスの画家。12月18日ベルン近郊ミュンヘンブーフゼーに生まれる。ドイツ人の父は音楽教師、スイス人の母は声楽家で、ひとり息子の彼は早くから音楽、絵画、文学に親しみ、器楽(バイオリン)を習う。1898年、初めてミュンヘンに出て私画塾に通い、1900年ふたたび同地に出て美術学校のシュトゥックの教室で学んだ。1901年、スイスの彫刻家ヘルマン・ハラーHermann Haller(1880―1950)とイタリアへ旅行、翌1902年までローマに滞在し、ナポリ、フィレンツェを経てベルンに帰る。バイオリン奏者としてベルン市管弦楽団のメンバーとなる。1903~1905年、アール・ヌーボー風の幻想的な銅版画を制作、ブレイク、ビアズリー、ゴヤに共鳴する。1906年、ミュンヘンのピアニスト、リリー・シュトゥンプフLily Stumpf(1876―1946)と結婚し、ミュンヘンに定住する。ミュンヘン分離派展に銅版画を出品、以後1909年まで同展にガラス絵を含む作品を送るが落選を繰り返す。1910年、スイスで初の個展(ベルン、チューリヒ、ウィンタートゥール、バーゼルを巡回)。1911年、ミュンヘンで個展。カンディンスキー、マッケ、F・マルクと親交を結び「青騎士」のグループに参加する。ボルテールの『カンディード』の挿絵を制作(1920年出版)。1912年パリ旅行、ドローネー、ル・フォーコニエHenri Le Fauconnier(1881―1946)を訪問する。1913年、ドローネーの論文『光について』をベルリンの『シュトルム』誌に訳載する。シュトルム画廊で個展。1914年、マッケ、モワイエLouis Moilliet(1880―1962)とともにチュニジアへ旅行し、水彩で多くの風物を描く。「色彩がぼくをとらえた。ぼくと色彩とは一体だ」と日記に書いているのはこのときで、彼の色彩開眼を記念する旅である。
以後、彼は彩色画へ移っていくが、それはかならずしも既成のタブローではなく、さまざまな混合技法を用いている。1916~1919年、軍務に服する。1921年、ワイマールのバウハウスで教鞭(きょうべん)をとる。1924年、ニューヨークで初の個展。ファイニンガー、カンディンスキー、ヤウレンスキーと「青の四人」展を結成。1925年、バウハウスの移転に伴いデッサウに住む。パリで初の個展。シュルレアリスム展に参加する。『教育的スケッチブック』を出版。1931年、デュッセルドルフ美術学校教授となる。1933年、美術学校の職を辞し、ベルンに帰る。1934年、ロンドンで初の個展。皮膚硬化症の最初の徴候が現れる。1937年、ブラックとピカソの訪問を受ける。「退廃芸術展」が彼の作品17点を含めてドイツ各地で催される。1940年、チューリヒ美術館で1935年以後の作品による個展。病状が悪化し6月29日ロカルノ近郊のムラルトの病院で死去。「芸術は目に見えないものを見えるようにすることだ」といい、「たいせつなのはあれこれの形態ではなく、形づくることだ」という彼は、目に見える対象に依存することもなかったし、またこれをまったく捨て去ってしまうこともなかった。彼はむしろ対象を、自然の形成力の根源に思いを潜めてつくりかえ、独自の造形言語に置き換えた。それは一種の記号もしくは符牒(ふちょう)のように、実在と現象とを一つに集約し、見る者の想像力のなかで限りない変容の翼を広げていく。音楽的な才能に恵まれ、音楽を生涯の友とした彼の作品には、四次元の世界に浮かび漂うものの澄んだ音色と寄る辺なさを宿しているが、晩年の絵は暗く激しい苦悩を反映している。作品は世界各地に収蔵されているが、スイスのベルンのパウル・クレー・センターには4000点以上が収められている。
[野村太郎]
『南原実訳『クレーの日記』(1961・新潮社)』▽『中原佑介解説『現代世界美術全集13 クレー』(1971・集英社)』
スイスの画家。ベルン市外のミュンヘンブフゼーに生まれる。音楽の才にも恵まれていたが,画家を志し,1898年にユーゲントシュティール全盛期のミュンヘンに赴く。1901-02年にイタリア旅行。古典芸術の巨匠の末裔として生きる悲哀を故郷ベルンで風刺的銅版画に託し,最初の成功作となる。06年の結婚後ミュンヘンに定住,特に線描の領域で独自のスタイルをひらく。11年に〈青騎士(ブラウエ・ライター)〉の仲間となる。14年のチュニジア旅行で色彩に開眼し,30点余の水彩画を描く。そこでクレーは,すでに確立していた線描の自律からさらに飛躍して,〈色彩のとりこ〉になる。光あふれる南方の風景を透明な色階の方形色面で構成した作品は,セザンヌ,ピカソ,カンディンスキーおよびR.ドローネーの色彩キュビスムとの対決を経て独自の抽象芸術へと踏み出している。この傾向は,その後自ら〈ポリフォニー(多声音楽)絵画〉と呼ぶ,色調と色彩を重ね合わせた作品に発展し,《いにしえの響き》(1925)のような傑作を生む。他方線描はしだいに記号化し,文字や音符の記号,矢印などを伴って,色彩平面の組成と結合する。第1次大戦で16年に入隊。終戦後,20年バウハウスに招かれ,造形論の講義を担当。その結果20年代の作品には,造形の動力学的組成論が展開され,目の前の像ではなく原像の表現へ向かう。それは〈思い出を伴う抽象〉(1915年の日記)の具現であり,視覚化である。思い出の内容は顔,庭,建築などさまざまだが,例えば《本通りと脇道》(1929)では,幾何級数的な組成の色面に,前の冬のエジプト旅行の思い出が凝集されている。31年にデュッセルドルフ美術学校に転任,その時代の《パルナッソス山へ》(1932)は,ポリフォニー絵画と詩的連想がみごとに調和した成熟の頂点である。33年末ナチスに追われてスイスへ亡命。皮膚硬化症を患う。死を予感した晩年の作品では,単純で記号的な太い線描が再び優位を占め,書法(カリグラフィー)に似た様式が成立する。それは,クレーの生涯における全制作の究極目的が描くことと書くことの結合にあったことを示唆している。
クレーの作品は,大画面でなく,おおむね小画面で成り立っており,また画面となるカンバスの材質や絵具にも細心の注意を払うなど,造形行為は緻密で繊細である。また芸術上の特質は,線描,明暗の色調,色彩などの造形諸要素の単純化と複合を継続的に積み重ね,それを詩的連想と結びつけることによって,西洋絵画の言説に未知の領域を切り開いた点にある。作品はそのための道程ないし過程であり,それ自体完結目標ではない。このような生成としての作品を,《クレーの日記》(1957。邦訳1961),《造形思考》(1956。邦訳1977)をはじめとする彼の膨大な芸術理論的著作と並行的に読み取り,解釈していく仕事は,今なお残されている課題である。この課題には,クレーの芸術を通して近代絵画の意味の変化を解き明かすひとつの鍵が秘められている。
なお,クレーの作品はベルンのクレー財団が素描を含め3000点ほど所蔵しているほか,ニューヨークのグッゲンハイム美術館やデュッセルドルフ,バーゼルの各美術館も多くの作品を所蔵している。日本では神奈川県立近代美術館所蔵の素描と友人たちのサイン帳(1923)や,宮城県美術館所蔵の《緑の中庭》(油彩,1927)ほか数点がある。クレーの現代美術への影響はすでに第2次大戦前および大戦中から現れているが,戦後は特にボルス,ミショー,ザオ・ウー・キーZao Wou-ki(1921- )などに著しい。前田常作ほか日本への影響も大きく,それにはベルン美術館または息子のフェリックス・クレーの所蔵作品の日本展が1961年以来数度開かれたことが刺激となっている。
執筆者:土肥 美夫
アメリカの政治家。19世紀前半の西部を代表する政治家であるが,J.C.カルフーンやD.ウェブスターと並んで大統領になれなかった一人。バージニア生れで,1797年にケンタッキーに移り州政界で活躍後,1806年連邦上院へ,11年以降もっぱら下院で議長をつとめた。1812年戦争では好戦的〈タカ派〉の代弁者となり,内政では国内開発,保護関税,工業の保護・育成,合衆国銀行支持,軍備強化を主張した。それは24年に〈アメリカ体制〉論として体系化された。24年の大統領選挙でJ.Q.アダムズを支持し国務長官の職を得たことが〈腐敗取引〉として政敵A.ジャクソンに非難された。28年の高関税をめぐって南北の対立が激化した際には33年に妥協関税を成立させ,また49年の奴隷制をめぐる南北間の対立に際しては50年の妥協の成立に貢献し,妥協政治家としての真骨頂を示した。ジャクソンとは彼のフロリダ侵入を非難(1819)して以来,終始敵対関係にあった。クレーには熱烈な支持者と憎悪を燃やす敵がいた。
執筆者:富田 虎男
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…射撃競技は,散弾銃を使用するクレー射撃とライフル射撃に大別される。さらにライフル射撃は,銃腔(じゆうこう)に腔旋(こうせん)が切ってある銃を使った射撃であり,いわゆるライフル射撃とピストル射撃に分類される。…
…1907年にドレスデンで,当時結成されてまもない表現主義グループ〈ブリュッケ(橋)〉の展覧会を組織したのをはじめ,以後作家との交友に基づく数多くのすぐれた研究や評論を発表し,現代ドイツ美術の声価を国際的に高めるうえでも大きな功績を残した。著作としては,友人でもあったクレーとカンディンスキーの大部のモノグラフ(それぞれ1954,1958)がよく知られ,その他戦後ヨーロッパ美術を総観した《現代の美術》(1966)などもある。【千足 伸行】。…
…翌年の第2回展には,ピカソ,ブラック,ドラン,マレービチ,ラリオーノフらをも招待した。しかし普通ブラウエ・ライターと呼ばれているのは,ベルリンの〈嵐(デア・シュトゥルムDer Sturm)〉画廊展など,その後のブラウエ・ライター展参加者をも併せ考え,カンディンスキーを中心にしたマルク,マッケAugust Macke(1887‐1914),クレーの4人,およびヤウレンスキーらをいう。彼らはそれぞれロシア正教の神秘主義,ドイツ・ロマン主義,ドローネーのオルフィスムOrphismeなどにつながりながら,造形の根源を追求し,目に見えぬ世界の視覚化を志した。…
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