アルゼンチン史(読み)アルゼンチンし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アルゼンチン史
アルゼンチンし

アルゼンチンは,1516年フアン・ディアス・デ・ソリスによるラプラタ川の「発見」,1520年フェルディナンド・マゼランによるマゼラン海峡の「発見」などによって,スペインの植民地となり,1536年ペドロ・デ・メンドサ探検隊のブエノスアイレス建設から本格的な統治が始まったが,本国政府が重視しなかったため後進地域となった。17世紀に北西部から南下した農民の開発と牧畜業の繁栄によりようやく発展を遂げ,1776年にはラプラタ副王領として独立し,ペルー副王下から離れた。1810年マヌエル・ベルグラーノ指揮下のクリオーリョらは副王を退位させ,ブエノスアイレスの政務委員会は独立を宣言し,さらに 1816年各州の代表者を集めたトゥクマンの国会で「リオデラプラタ合州国」の正式独立宣言が行なわれた。独立後,ブエノスアイレスと他州の対立から中央集権派と連邦派との政争が続いたが,独裁者フアン・マヌエル・デ・ロサスの出現で,一応政局の安定が得られた。1852年ロサスを打倒したフスト・ホセ・デ・ウルキサは,翌 1853年サンタフェで新憲法を制定し,大統領に選出された。ウルキサは国の近代化に着手し,外国からの移住者と資本の誘致,教育制度の拡充に努力し,その政策は B.ミトレ,ドミンゴ・F.サルミエントによって受け継がれ国策として定着した。パラグアイ戦争の勝利を経て,1878~80年のインディオ討伐に成功したフリオ・A.ロカが 1880年大統領に当選,ブエノスアイレスを連邦政府の直轄地として統一を達成し,1902年チリとの国境を確定した。移住者の増大,大土地所有の普及,農牧業の発展,鉄道の発達,外資の流入などによって,19世紀末より経済的繁栄を続けたが,20世紀に入るや上流階級の専横に反発して急進市民連盟 UCR(急進党)が勢力を得,1916年イポリト・イリゴイェンが大統領に当選。しかし革新政治も腐敗と非能率にそこなわれ,1930年には軍事クーデターが起こり,軍部と保守勢力の支配が 1943年まで続いた。同 1943年のクーデターで発足したペドロ・ラミレス政権の反動弾圧政策に代わって,1944年2月に成立した E.ファレル政権の労働長官となったフアン・ドミンゴ・ペロンは,労働条件の改善,社会保障拡充の政策を進め,労働組合を労働総同盟 CGTのもとに再編し,軍部との協調による国家社会主義に基づく全体主義的支配を志向した。1946年大統領に当選したペロンは,教会,資本家とも妥協し独裁体制を確立したが,1949年の憲法改正,1952年の夫人エバ・ペロンの死後人気が下降し,その積極的工業化と産業国有化政策も行きづまって教会,軍部と対立し,1955年軍事革命によって追放された。その後アルトゥロ・フロンディシ,アルトゥロ・イリア両政権を例外に軍部政権が次々に支配したが,ペロンの支持は根強く,1973年9月大統領に再当選し,復活した。1974年ペロンの死後,夫人イサベル・マルティネス・ペロンが副大統領から昇格したが,左右両派のテロと経済悪化から 1976年クーデターが発生,ホルヘ・ラファエル・ビデラ政権,1981年ロベルト・ビオラ政権が軍事支配を続けた。しかしフォークランド戦争の敗戦により民政に移行,1983年の総選挙では UCRのラウル・アルフォンシンが大統領となり,財政赤字の削減に努めたが,1989年には再び正義党(ペロン党)が勝利。大統領に就任したカルロス・サウル・メネムは国営企業の民営化,物価安定策などを通じて経済の安定化を実現したが,1990年代末の発展途上国の経済危機が波及,2001年末にはデフォルト(債務不履行)に追い込まれた。2003年大統領に就任したネストル・キルチネルのもとで経済,社会を立て直し,2007年妻のクリスティナ・フェルナンデス・デ・キルチネルが大統領の任を引き継いだ。

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