アルブケルケ(その他表記)Affonso de Albuquerque

改訂新版 世界大百科事典 「アルブケルケ」の意味・わかりやすい解説

アルブケルケ
Affonso de Albuquerque
生没年:1456-1515

ポルトガルの第2代インド総督。下級貴族の出身。若い時から軍人として地中海,北アフリカで活動した。1503-05年,艦隊を率いてインドに赴いた。06年に再びインドに赴いたが,その際,08年には総督に任命するという辞令国王からうけていた。インドへの途次,紅海入口のソコトラ島占領に参加し,さらに艦隊を率いてペルシア湾入口のホルムズ(オルムス)島を占領した。これらの島はいずれもインド洋交易の要地であった。08年にインドに到着し,コーチンで総督(副王)アルメイダに交代を迫ったが逆に投獄され,09年にようやく総督に就任した。その後カリカットへの攻撃は失敗したが,ゴア(1510),マラッカ(1511)を占領して要塞を築き,ポルトガル海上帝国の基礎を固めた。しかしアラビア半島のアデンを落とせず,彼のインド洋制覇の構想は完全な形では実現しなかった。15年に再びホルムズ島に赴き,要塞を建設したが,間もなく病気にかかり,ゴアに戻る途中,総督を解任されたこと,後任が彼の反対派であることを知って,落胆のうちにゴア港内の船中で死去した。部下に厳格だったために多くの敵をつくったが,行政面では有能で,死後軍神とされた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルブケルケ」の意味・わかりやすい解説

アルブケルケ
あるぶけるけ
Afonso de Albuquerque
(1453―1515)

ポルトガルの第2代インド総督(在職1509~1515)。下級貴族の家に生まれ、若いときから軍人として地中海、北アフリカで活躍した。1503年、甥(おい)のフランシスコとともに艦隊を率いてインドに赴いた。帰国後1506年には、1508年に総督に任命する旨の辞令を得て、ふたたびインドに司令官として赴いた。アフリカ南海岸の各地を経て、1507年アデン湾南口のソコトラ島を攻撃し、ホルムズに至り、ここをポルトガルの朝貢国とした。1509年にはインドのコジコーデ(カリカット)を攻撃して失敗したが、1510年ゴア、1511年には、東西海上交通の要衝として栄えていたマラッカを占領して、イスラム教徒に対決するポルトガル海上帝国の基礎を築いた。1513年にはアデンの攻撃に失敗したが、1515年にはふたたびホルムズを訪れ、要塞(ようさい)を建設した。しかし同地で発病し、ゴアに戻ったが、港内の船上で死去した。

[生田 滋]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルブケルケ」の意味・わかりやすい解説

アルブケルケ
Albuquerque, Afonso de

[生]1453. リスボン付近アリャンドラ
[没]1515.12.15. ゴア
ポルトガルの航海者,植民地行政官。インド第2代総督 (在任 1509~15) 。インド洋方面ポルトガル領の事実上の開拓者で,航海者として有名である。軍人となり,1503年初めてインドへ航海し,コーチンの王からポルトガル基地設立の許可を得た。 04年帰国,06年再度出発,アフリカ東海岸のアラビア人を討ち,ペルシア湾のオルムスを占領 (07) 。 08年末マラバルに到着し初代ポルトガル領インド総督 F.アルメイダに「後任である」という王の辞令を提示したところ投獄された。 09年第2代のインド総督になり,インド洋や東南アジア方面との商取引の根拠地としてアデン,オルムス,ゴア,ムラカをポルトガルの勢力下におく努力を続けた。政敵ロポ・ソアレスに総督の地位を奪われ,ゴアで没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルブケルケ」の解説

アルブケルケ
Afonso de Albuquerque

1462?~1515

ポルトガルの軍人。1506年にアルメイダの後任として派遣され,オマーン,ホルムズを攻撃し,09年よりインド総督となる。10年に攻略したゴアは,のちポルトガル領インドの首府となる(1530年~)。11年にはマラッカを攻略,15年にはホルムズを再び支配下に置き,アラビア海,インド洋,東南アジアの港湾都市を結ぶ海洋帝国の基礎を築いた。13年から紅海に遠征,アデン攻略に失敗し,ポルトガルの商業独占は成功しなかった。

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百科事典マイペディア 「アルブケルケ」の意味・わかりやすい解説

アルブケルケ

ポルトガルの軍人,政治家。第2代インド総督(1509年―1515年)。1510年ゴア,1511年マラッカ,15年オルムズを占領,東方進出に活躍したが政敵の策謀により罷免された。
→関連項目マヌエル[1世]

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旺文社世界史事典 三訂版 「アルブケルケ」の解説

アルブケルケ
Affonso d' Albuquerque

1453〜1515
ポルトガルの軍人,2代目インド総督
1510年ゴアを占領して,ポルトガルのアジア進出の根拠地とした。その後,アンボイナ商館を開設し,またマラッカ・ホルムズを占領してポルトガルの支配権を確立した。1515年政敵の策謀によって罷免され,ゴア付近の海上で死んだ。

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世界大百科事典(旧版)内のアルブケルケの言及

【ゴア[州]】より

… 16世紀初頭ごろのゴアはビジャープルのムスリム王の支配下にあり,その第2の首都として繁栄していた。1510年に艦隊を率いて来航した第2代ポルトガル総督アルフォンソ・デ・アルブケルケはここを攻略した。彼はムスリム王の都市を破壊し,リスボンを模してゴア(古ゴア)を建設し,ここをポルトガルのアジアにおける交易とキリスト教伝道の根拠地とした。…

【大航海時代】より

…マヌエル王はまたインドにおけるポルトガル人の征服,貿易活動を統轄するために〈インド領〉を設置し,その初代副王としてフランシスコ・デ・アルメイダをインドに派遣した。アルメイダはマヌエル王の方針を忠実に実行したが,彼の後を継いだアフォンソ・デ・アルブケルケはむしろイスラム商人によるインド洋の国際貿易支配を打破しようとして,1510年にはゴアを占領し,さらにアデン,ホルムズを攻撃し,ホルムズを朝貢国とするとともに,11年にはマレー半島のマラッカ王国を占領し,翌年船隊をモルッカ諸島に派遣した。また13年にはマラッカから中国に初めて船隊が派遣された。…

【バンダ[諸島]】より

…ナツメグ諸島の異名が示すように,ナツメグ(ニクズク)の特産地として古くから知られた。ポルトガルのゴア副王アルブケルケは1511年にマラッカを占領し,翌年この諸島に到達して香辛料の買付けを行ったが,以後ポルトガルとスペインの香料貿易争奪は主としてモルッカ諸島北部に集中し,バンダ諸島は16世紀のあいだほとんど放置された。16世紀のバンダ諸島の人口は1万5000人と推定される。…

【ペルシア湾】より

…しかし,イランにモンゴル族のイル・ハーン国が成立すると,沿岸部のホルムズHormuz(現,ミナーブ)に繁栄が移り,この港にはオドリク,マルコ・ポーロなどが訪れ,その名はあまねく中世のヨーロッパにも知れわたった。 1507年,ポルトガルの航海者で第2代インド総督のA.deアルブケルケはこの港の支配者を服従させることに成功し,15年にはここを占領してインド洋の香料貿易の中継基地にした。しかし,34年オスマン帝国がバグダードを占領すると,ペルシア湾の西岸地域にあたるアラビア半島のアフサーへの影響力を強めて,湾岸地域への浸透を図った。…

※「アルブケルケ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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