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アルブレヒト Albrecht, Mikhail P.

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

アルブレヒト Albrecht, Mikhail P.

1821-? ロシアの医師。
安政5年(1858)初代ロシア箱館領事ゴシケビッチとともに,領事館付医師として来日。医療活動のかたわら植物,昆虫,貝などを採集し,日本初の機器による気象観測をおこなった。帰国後1870年ごろ死去。エストニア出身。

出典|講談社
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世界大百科事典内のアルブレヒトの言及

【カルマル同盟】より

…とくに1389‐1434年のデンマーク,ノルウェー,スウェーデン(フィンランドを含む)3王国間の同君連合をいう。上記の時期以前から,スウェーデン・ノルウェー間で(1319‐43),またデンマーク・ノルウェー間で(1380‐1814)同君連合が成立しており,1389年デンマーク・ノルウェーの摂政マルグレーテ1世がスウェーデンの摂政に選ばれ,スウェーデン王メクレンブルク家のアルブレヒトAlbrecht(1340ころ‐1412)を,スウェーデン貴族の支援をうけてファルヒェーピングFalköpingの戦で捕囚とし,彼女は事実上の3王国の支配者となった。97年スウェーデンのデンマーク国境に近いカルマルKalmar城で最初の3国共通の君主が,3国の貴族らによって選ばれ,マルグレーテの姉の孫にあたる15歳のポンメルンのエリク(7世)が3国の王となり,それによりこの連合は〈カルマル同盟〉と呼ばれる。…

【ブランデンブルク】より

…辺境伯ゲロGero(?‐965)は,940年ごろエルベ川以東を征服し,キリスト教化の拠点として司教座ブランデンブルクを建設したが,その後ウェンド人は反乱をくりかえし,983年,ドイツ人はエルベ川の線まで後退を余儀なくされた。1134年,アスカニア家AskanierのアルブレヒトAlbrecht der Bär(?‐1170)が,このエルベ以西(アルトマルク)の辺境伯に封ぜられると,彼は57年までの間にエルベ川以東のスラブ人を再び服属せしめ,またさかんに北西部ドイツから移民を誘致して村や町を建て,みずからブランデンブルク辺境伯と称した。アルブレヒトのあとを継ぐアスカニア家の辺境伯たちのもとで,ブランデンブルクの領域はさらに東方へ拡張され,13世紀の後半にはオーデル川の彼岸(ノイマルク)まで進出,それと並行してドイツ人の植民も推進された。…

【プロイセン】より

…ここに再びポーランドとの戦争が始まり,その結果,66年,トルンの和約で西プロイセンの全域および東プロイセン内のエルムラントはポーランドに割譲され,東プロイセンの残部領域もポーランドの宗主権下に置かれることとなった。
[プロイセン公国]
 1511年ドイツ騎士修道会総長にホーエンツォレルン家のアルブレヒトAlbrechtが選ばれると,彼は25年ルター主義に改宗,騎士修道会領を世俗化して,これをポーランド王から封土として授与され,ここにプロイセン公国Herzogtum Preussenが成立した。アルブレヒトは行政・財政を改革し,教会秩序を整え,ケーニヒスベルク大学を創立(1544)するなど,模範的な領邦君主であった。…

【ホーエンツォレルン家】より

…1415年,城伯フリードリヒ6世は,皇帝ジギスムントによってブランデンブルク辺境伯に封ぜられ,選帝侯の位をも得た。その後も同家の経営はフランケンに中心を置いていたが,73年,選帝侯アルブレヒト・アヒレスの家法により,長子ヨハン・ツィツェロがブランデンブルクを相続して以来,同国は一貫して彼の直系により統治されることとなる。 1510年,フランケン系から出たアルブレヒトがドイツ騎士修道会総長に選ばれ,同騎士修道会の領邦プロイセンの統治に当たったが,彼は25年ルター主義に改宗して,初代のプロイセン公となった。…

※「アルブレヒト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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