アルミニウス(英語表記)Jacobus Arminius

改訂新版 世界大百科事典 「アルミニウス」の意味・わかりやすい解説

アルミニウス
Jacobus Arminius
生没年:1560-1609

オランダの改革派神学者。オランダ名のハルメンスあるいはハルメンセンをラテン語化してアルミニウスととなえた。ライデンジュネーブ等で学んだのちアムステルダムの牧師となる(1588)。預定論に疑念を持ったためライデンの教授職につくとき(1603),先任者であるゴマルスFranciscus Gomarus(1563-1641)らの反対を受けた。その後も論争があったが存命中は決定的に否認されるに至らなかった。みずからカルバンの神学を最良のものと考えていたが同一路線を継いだとは言いがたい点もある。またカルバン以後のカルビニズムは預定論にいよいよ重きを置き,論法をさらに精緻にしたため,アルミニウスの考えとは相いれぬものとなった。

 死の翌年,門下の者らが《センテンティア・レモンストランティウム(宣言文)》という5項,計34条の文書を公にした。その主張の要点は(1)神は何ぴとをも不信仰に預定しなかった。(2)キリストは選ばれた者だけのためでなく万人のために死んだ。(3)回心は聖霊による恵みとして起こるが,(4)恵みは不可抗的ではない。(5)信仰の保持はただ恵みによるのではない,というにある。改革派教会ドルトレヒト会議(1618-19)を開いてこの件に決着をつけ,アルミニウス派を追放した。アルミニウスとその派には君主制容認の傾向があったため,共和制のオランダでは政治的にも排除された。圧迫はのちに緩和されるがイギリスに信奉者を得,とくにJ.ウェスリーにはじまる福音派伝道者がこれを奉じた。
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アルミニウス
Arminius
生没年:前18ころ-後19

ゲルマンのケルスキ族の族長。ローマ市民権と騎士身分を獲得し,ローマ補助軍に仕えたが,ローマのゲルマン支配に反抗し,同じケルスキ族にありながら親ローマ派のセゲステスと対立した。紀元後9年にはP.Q.ウァルスの率いるローマの3軍団2万人の軍隊をトイトブルクの森に誘い込んで全滅させ(トイトブルクの戦),ローマのゲルマン征服に大きな痛手を与えた。その後もゲルマニクスの率いるローマ軍と戦ったが,間もなくゲルマン諸部族内の主導権争いがおこり,彼は自分が王になろうとして軍隊の反乱を招き,19年同族の裏切りにより殺された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルミニウス」の意味・わかりやすい解説

アルミニウス(Jacobus Arminius)
あるみにうす
Jacobus Arminius
(1560―1609)

オランダの神学者。少年期には、改革派となった牧師のもとで教育を受け、のちライデンで、またジュネーブでプロテスタント神学者ベザ(ド・ベーズThéodore de Bèze。1519―1605)のもとで神学を学ぶ。1588年アムステルダムで牧師となり、教会当局の命令で、カルバンの厳格な二重予定説を弁護するために研究するが、しだいにこれと反対の立場に近づき、神の予定は信仰者を選び、不信仰者を棄却するものだと主張するようになった。1603年ライデン大学教授となった。彼の予定説をめぐってオランダ改革派教会、さらには全土に、政治的にも論議と論争が巻き起こり、その途中で死去するが、その死後、この論争はいよいよ頂点に達した。彼の信奉者をアルミニウス派といい、ゴマルス派と対立した。

[徳善義和 2018年1月19日]


アルミニウス(ケルスキ人の首領)
あるみにうす
Arminius
(前18ころ―後19ころ)

ゲルマン系のケルスキ人の首領。初めローマ軍に従ってローマ市民権を与えられ、騎士の栄誉を授けられた。しかし、ゲルマニア総督についたウァルスPublius Quinctilius Varus(?―9)が支配を強化しようとしたことが、ゲルマン諸族の結束と反抗を促し、アルミニウスはその指導者となった。紀元後9年、ウァルスの率いるローマ軍を、トイトブルクTeutoburgの森におびき出し全滅させた。その後もローマの支配と戦い、ゲルマニア征服を断念させた。やがて王になろうとする野心を示して民衆の反発にあい、近親の裏切りにより殺された。タキトゥスは彼を「ゲルマニアの解放者」とよんでいる。

[市川雅俊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルミニウス」の意味・わかりやすい解説

アルミニウス
Arminius, Jacobus

[生]1560.10.10. ウーデバーテル
[没]1609.10.19. ライデン
オランダの神学者。アルミニウス派の始祖。オランダ名 Jacob Harmensen。ライデン,バーゼル,ジュネーブの各大学に学び,1588年ローマからアムステルダムに戻って改革派教会の牧師となり,1603年から死ぬまでライデン大学の神学教授。自由な精神を重んじ,オランダの画一化したカルバン主義を批判し,予定説に対して救済における人間の自由意志を主張した (→予定 ) 。このため,正統カルバン派のゴマルスと激しく論争した (→ゴマルス派 ) 。論争は彼の死後も続きアルミニウス派を形成した。

アルミニウス
Arminius

[生]前18頃
[没]後21
ゲルマンのケルスキ族の族長。ゲルマン名ヘルマン。青年時代ローマ軍に勤務し,ローマ市民権と騎士身分 (エクイテス ) を与えられた。のち故郷のエルベ川流域に帰り,トイトブルクの森の戦いでローマ軍3軍団を撃滅 (9) ,以後ローマ勢力はエルベ川の線からライン川の線に後退した。同族の内紛で殺されたが,歴史家タキツスも「ゲルマニアの解放者」として評価した民族的英雄。

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百科事典マイペディア 「アルミニウス」の意味・わかりやすい解説

アルミニウス

オランダの神学者。ジュネーブのベーズのもとにカルバンの神学を学ぶ。預定をめぐってF.ゴマルスと論争,死後アルミニウス派は《宣言文》を出して改革派教会に混乱が生じたが,ドルトレヒト会議(1618年―1619年)の決議で同派は追放された。メソディストへの影響大。
→関連項目ウェスリー

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アルミニウス」の解説

アルミニウス
Jacobus Arminius

1560~1609

オランダの神学者。カルヴァンの予定説に疑問を持ち,意志の自由を説いたが,死の翌年ドルトレヒト会議でその説は否認され,支持者は圧迫を受けて,オランダから追放された。のちイングランド国教会においてロード大主教などの支持者を獲得して宮廷に勢力を伸ばし,教義的にカトリックに近いとしてピューリタンから攻撃を受けた。

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世界大百科事典(旧版)内のアルミニウスの言及

【トイトブルクの戦】より

…後9年,エムス,ウェーザー両川間の〈トイトブルクの森Saltus Teutoburgiensis〉(正確な位置は不明)で,ケルスキ族の有力者アルミニウス指導下のゲルマン諸族が,冬営地へ移動中のローマの3軍団(指揮官ウァルスPublius Quinctilius Varus)を奇襲,全滅させた戦闘。ドルススの遠征(前12‐前9)以来,アウグストゥスが進めてきたライン川以東エルベ川に至る西ゲルマニア併合策はここに挫折,アルミニウスは〈ゲルマニアの解放者〉と称された。…

※「アルミニウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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