改訂新版 世界大百科事典 「アレクサンドル2世」の意味・わかりやすい解説
アレクサンドル[2世]
Aleksandr Ⅱ
生没年:1818-81
ロシアの皇帝。在位1855-81年。ニコライ1世の長男として生まれ,クリミア戦争の敗色が濃くなったさなかに病没した父帝のあとを襲って即位した。1855年11月セバストポリが陥落するや,彼は講和にふみきり,翌年3月パリ条約を締結。これによりロシアは黒海において艦隊を保有することが禁止された。クリミア戦争の敗北はロシア社会の上層部に大きな衝撃をもたらし,進歩的な官僚を中心に,農奴解放をはじめとする大改革への動きがにわかに高まった。アレクサンドル2世その人は,もともと保守的な思想の持主であったが,ロシアはこれらの改革なしには後進性から脱却できないと考えるようになり,61年農奴解放令を公布した。これにより彼は,後世〈解放皇帝〉と呼ばれるようになった。次いで64年にはゼムストボと呼ばれる地方自治会を新たに設立し,貴族のみか農民にもその代表を地方議会へ選出する権利を認めた。また同年司法制度の改革を行い,法の前の万人の平等の原則を打ち出し,公開裁判や弁護士・陪審員制度なども取り入れた。さらに74年には国民皆兵の宣言を発すると同時に,軍制の改革も行った。しかし農奴解放令発布の直後から,国内にはこれに不満な農民の騒乱が相次いで起こり,また時を同じくして新しい大学規則の撤回を要求する学生の紛争が生じた。退学させられた学生たちは,〈人民の中へ!〉をスローガンに,農村に入って宣伝活動を行ったり,秘密結社を作ったりした。63年のポーランド反乱(一月蜂起)をロシア政府はむごいやりかたで鎮圧したが,これに反対してポーランドとの連帯を訴える声が,ロシア内外の革命的グループからあがった。66年には過激派の青年カラコーゾフDmitrii Vladimirovich Karakozovによる最初の皇帝暗殺未遂事件が起こったが,81年3月1日,ついにアレクサンドル2世はテロ戦術をとるナロードニキの〈人民の意志〉派によって暗殺された。
外交面ではプロシア王ウィルヘルム1世が母方の伯父にあたるところから親独政策をとり,73年にはドイツ,オーストリアと組んで三帝同盟を締結した。またパリ条約で課せられた制限の撤廃をめざして,バルカン半島の〈スラブの同胞〉の救出を口実に,77-78年露土戦争を行った。一方,極東では日本との間に日露和親条約(1854),樺太・千島交換条約(1875)を締結して国境を画定し,清との間に璦琿(あいぐん)条約(1858),北京条約(1860)を結んで極東へ進出する足がかりをつくった。しかし北米大陸においては,露領アメリカ(アラスカ)の領有がロシアの安全保障上重荷になると判断して,これを1867年アメリカ合衆国に720万ドルで売却した。
→農奴解放
執筆者:外川 継男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報