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イギリス帝国 イギリスていこく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イギリス帝国
イギリスていこく

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イギリス帝国
いぎりすていこく
British Empire

17世紀以降、世界各地に植民地を建設したイギリスの通称。普通、19世紀中葉を境にして「旧」帝国と「新」帝国に分けられる。[石井摩耶子]

イギリス帝国の成立

「旧」帝国は、エリザベス朝以後の重商主義政策を基礎にして、17、18世紀に形成された。北アメリカでは、1607年のジェームズタウン建設を皮切りに、18世紀なかばまでに13植民地を築き、さらにフランスとの戦争で1763年にはカナダと東ルイジアナを領土に加えた。また、砂糖植民地としての西インド諸島、奴隷供給地としての西アフリカに拠点を置いた。一方アジアでは、東インド会社を通じてインドに根拠地を築き、1757年のプラッシーの戦いでフランスに決定的勝利を収め、インドでの優位を確立した。こうして18世紀後半には北アメリカ、西インド諸島、西アフリカ、インドを中心とする一大帝国が成立した。その統治政策は、航海法、植民地特恵制度などを柱とする重商主義政策であり、植民地の収奪による本国商工業の育成を目的とした。本国政府の任命する総督が、行政・立法両参事会を指揮して統治を行った。[石井摩耶子]

転換期

アメリカの独立を認める1783年のパリ条約締結以後19世紀中葉まで、「旧」帝国は動揺して大きく変貌(へんぼう)する。本国では、世界に先駆けた産業革命の進展により台頭した産業資本家の要求で、航海法の枠組みは緩められ、特恵制度は廃止に向かい、1840年代には事実上自由貿易体制に移行した。また、帝国内の奴隷貿易・奴隷制の廃止(1833)は、帝国のかなめであった西インド諸島の地位を低下させた。一方、原料・商品市場としてのインドの重要性が高まり、1857年のインドの大反乱を機にインドは、東インド会社による間接統治からイギリス政府の直接統治下に移された。また白人の入植植民地では、1867年のカナダ連邦を手始めとして自治領化が進められた。[石井摩耶子]

新帝国から連邦へ

1873年に始まる「大不況」のもとで、インドを中心とする各植民地は、単に原料・商品市場としてのみならず、有利な投資先として新たな重要性を帯びた。1880年代からは西欧列強国のアフリカ争奪戦が開始され、イギリスもアフリカの領土を拡大した。ふたたび特許会社制度も導入され、ここに「新重商主義」帝国ともよばれる「新」帝国が成立した。帝国の紐帯(ちゅうたい)強化のため、1887年からは定期的に植民地会議(のちイギリス帝国会議と改称)が開かれた。
 しかし、20世紀に入ると、植民地での民族運動も高まり、第一次世界大戦後には、「帝国」にかわり「イギリス連邦」の名称が多く使われるようになった。第二次世界大戦後、帝国内の植民地が相次いで独立し、1947年には帝国会議もイギリス連邦会議と改称され、本国が植民地を支配するという帝国的要素は大幅に薄らいだ。[石井摩耶子]

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