モンゴル系キタイ人を支配者とする中央アジアの王朝。1132-1211・12年。西遼ともいう。中国の一部をも領有した遼王朝の王族の出身者である耶律大石(やりつだいせき)が1132年,東カラ・ハーン朝の首都ベラサグンを占領して建国。1141年には,西カラ・ハーン朝とセルジューク朝の連合軍をサマルカンドの近郊に撃破して西トルキスタンをも支配下に収めた。しかし1210年ホラズム・シャー朝に西トルキスタンを奪われ,また1211・12年,モンゴリアから亡命して来たナイマン部のクチュルクに国を奪われて建国後わずか80年で滅びた。諸君主はグル・ハーン(大ハーン)と号したが,彼らは死去の後には徳宗・仁宗などの廟号をたて,また康国・咸清などの中国式の年号を用い,康国通宝と呼ばれる中国式の貨幣を発行し,さらに仏教徒としての生活を維持するなど,遼朝以来の中国文化の伝統を継承し続けた。しかし彼らが支配下のムスリム(イスラム教徒)の文化生活にはほとんど干渉しなかったため,その支配が後世の中央アジアに及ぼした影響もほとんど皆無であった。
執筆者:間野 英二
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黒契丹(くろきったん)ともいう。漢文史料では西遼。遼の滅亡に際して,王族の耶律大石(やりつたいせき)が外モンゴルをへて西走し,カラハン朝を征服して建てた王朝。チュー川上流に都フス・オルダを1133年に建設した大石(徳宗)はグル・ハン(あまねき王)を称した。感天皇后,仁宗,承天太后に次ぐ5代目の直魯古(ジルク)が,チンギス・カンに追われてきたナイマン部のクチュルクにグル・ハン位を奪われて(1211年)滅亡した。領域は東西トルキスタンに及んだが,徴税代官派遣などによる間接支配が基本で強力な軍事支配ではなく,現地貨幣が維持され,トルコ・ムスリム商人らによる東西貿易が行われた。しかし漢字銘の貨幣を発行し,王族は契丹伝統の牛馬祭祀や仏教を奉じるなど,当時のイスラーム世界に東方文化を及ぼした。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
12~13世紀に契丹(きったん)人が中央アジアに建てた国家。西遼(せいりょう)ともいう。イスラムの歴史家はカラ・キタイという。遼が金に滅ぼされたとき(1124)、外モンゴリアに脱出した遼の王族の耶律大石(やりつたいせき)はやがてアルタイを越えて中央アジアに進み、ウイグル人などの援助を得て、1132年カラ・ハン朝を滅ぼし、ベラサグンで帝位につき、グル・ハンGur Khanと称した。中国では徳宗という。37年西トルキスタンに侵入、41年にはサマルカンド付近でセルジューク諸侯の大軍と戦って決定的な勝利を得た。ここに至って東西トルキスタンの全域がカラ・キタイの領土となった。その王朝は3代、80余年続いたが、チンギス・ハンに追われたナイマン部の王子クチュルクのために、1211年に国を奪われた。カラ・キタイが仏教を信じ、中国式の制度を用いるなど、中国文化の西伝をみたことは名高いが、それは首都付近の契丹人、中国人の移住者の社会に限られ、イスラム教徒トルコ人の人民にそれらを押し付けることはしなかった。
[羽田 明]
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