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ルネサンス後期からバロック初期にかけて活躍したイタリアの音楽家。
(1)Andrea Gabrieli(1533-1585) ベネチアに生まれ,サン・マルコ大聖堂の楽長ウィラールトAdrian Willaertに学んだといわれる。若いころはベネチアはじめ北イタリア各地でオルガン奏者を務めた。一時ドイツのバイエルン公アルブレヒト5世(在位1550-79)に仕えたのち,1564年ベネチアのサン・マルコ大聖堂の第2オルガン奏者,85年に第1オルガン奏者に昇進。合唱群と器楽とを巧みに組み合わせた,音色の対比による色彩豊かな彼の音楽は,ルネサンス音楽の集大成であると同時に,バロック音楽への道を準備するものであった。甥ジョバンニをはじめとする多数の弟子たちに受け継がれた彼の芸術は,ドイツ,イタリアにひろく大きな影響を与えた。モテット,ミサ,詩篇歌ほかの教会音楽が主要であるが世俗声楽曲にもすぐれ,また純器楽曲の形成・発展に大きな役割を果たした。
(2)Giovanni Gabrieli(1553から57-1612か13) アンドレアの甥。若いころにバイエルン公に仕え,ラッススのもとで働いた。後にベネチアに帰ってサン・マルコ大聖堂のオルガン奏者になり,叔父の死後は第1奏者の地位を継いだ。叔父から受け継いだ音楽語法をさらに発展させて,ベネチア楽派の中心的人物であると同時に,初期バロック音楽の大家の一人に挙げられる。宗教声楽作品が多いが,器楽合奏曲やオルガン曲など純器楽曲の分野での貢献が,音楽史上高く評価されている。
執筆者:岸本 宏子
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16世紀イタリア、ベネチア楽派の頂点を築いた作曲家、オルガン演奏家。アンドレア・ガブリエリの甥(おい)。若いころの記録はほとんどないが、伯父のアンドレアに師事したと考えられている。1575~79年ミュンヘン宮廷で活躍したが、ふたたびベネチアに戻り、86年にはサン・マルコ大聖堂の第一オルガニストとなり、終生その地位にとどまった。宗教団体「スコラ・グランデ・ディ・サン・ロコ」のオルガニストも兼務している。伯父アンドレアの死(1586)後、ベネチアを代表する作曲家として活躍、97年に出版された曲集『サクレ・シンフォニエ』は、ドイツやオーストリアにおいて彼の音楽が流行するきっかけをつくった。シュッツをはじめとする多くの音楽家が、彼に学ぶためにアルプスを越えてベネチアにきたのはそのためである。しかし1606年以来、腎臓(じんぞう)結石に苦しみ、それが原因で12年8月12日、生地ベネチアで世を去った。
ベネチア楽派の特徴である多合唱様式(コーリ・スペッツァティ)は、彼によって頂点を極め、二重、三重合唱にとどまらず、四重合唱を要する大規模な作品も現れ、伝統的なモテット様式の究極の姿を示している。『ピアノとフォルテのソナタ』に代表される器楽合奏曲も多合唱様式を基盤とし、バロックのソナタや協奏曲の様式が形成される萌芽(ほうが)としても重要な意味をもっている。
[樋口隆一]
16世紀イタリア、ベネチア楽派の作曲家。ベネチアのカナレジョ地区に生まれたため、アンドレア・ダ・カナレジョともよばれた。サン・マルコ大聖堂聖歌隊歌手として修業後ベローナで活躍したが、ふたたびベネチアに戻り、1585年にはサン・マルコ大聖堂の第一オルガニストとなったが、翌年末ベネチアで没している。死後、甥(おい)のジョバンニによって出版された『コンチェルト集』(1587)は重要であり、そのなかの四重合唱のためのミサ曲は、天正(てんしょう)遣欧使節歓迎のために作曲されたと推定されている。甥のジョバンニ、ドイツ人のハンス・レオ・ハスラーを教育した功績も忘れられない。
[樋口隆一]
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