キケロ(英語表記)Cicero, Marcus Tullius

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

キケロ
Cicero, Marcus Tullius

[生]前106.1.3. アルピヌム
[没]前43.12.7. カイエタ
ローマの雄弁家,政治家,哲学者。ラテン散文の完成者。共和政末期の混乱の世に,最高の教養と雄弁をもって,不正の弾劾者,自由の擁護者として活躍。第1次三頭政治のもとで,前 58年追放され,翌年帰国後も自由な政治活動ができず,哲学的著作に従事。カエサル暗殺後再び元老院の重鎮として活躍,14編の演説『フィリピカ』 Philippicae (前 44~43) によってアントニウスを攻撃したが,第2次三頭政治成立後暗殺された。作品は演説百余編のうち 58編と,哲学と修辞学の著作 20編,書簡 900通あまりが現存。主要著書は『弁論家論』 De oratore (前 55) ,『国家論』 De republica (前 54~52) ,『ブルーツス』 Brutus (前 46) ,『善と悪の限界について』 De finibus bonorum et malorum (前 45) ,『トゥスクルム論叢』 Tusculanae disputationes (前 45) ,『神々の本性について』 De natura deorum (前 44) ,『義務について』 De officiis (前 44) など。

キケロ
Cicero, Marcus Tullius

[生]前65
[没]?
古代ローマの政治家,軍人。文人 M.キケロの子。騎兵隊長として活躍。 M.ブルーツスに仕え,フィリッピの敗戦後,セクツス・ポンペイウスにくみしたが,前 39年の大赦を利用してオクタウィアヌス (アウグスツス) と結んだ。前 30年執政官 (コンスル) ,その後アシア総督などを歴任。

キケロ
Cicero, Quintus Tullius

[生]前102
[没]前43
古代ローマの政治家。文人 M.キケロの弟。前 61~59年アシア総督。ユリウス・カエサルガリア戦争に従軍。内乱時にはポンペイウス (大ポンペイウス) についたが,のち許された。カエサル死後訴追され,奴隷に裏切られて殺された。

キケロ
Cicero, Quintus Tullius

[生]前66
[没]前43
古代ローマの政治家。伯父の文人キケロの薫陶を受け,同名の父とは異なりカエサル派となる。カエサルの暗殺後,父とともに訴追され,のち殺害された。

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百科事典マイペディアの解説

キケロ

ローマの政治家,哲学者弁論家として立ち,ポセイドニオスらに学んでのち,クアエストル(財務官),プラエトル(法務官)などを経て,前63年コンスル。カティリナの弾劾に尽力し,2次の三頭政治をはさむ混乱期にあって共和政の護持に努めたが,アントニウスと対立して謀殺された。現存する膨大な著作は,約58の弁論・演説をはじめ,修辞学に関するもの,《国家論》《法律》《トゥスクルム叢談》《友情について》《老年について》その他の哲学的・倫理的作品,《神々の本性について》《卜占について》などの神学論および家族と友人たちにあてた多数の書簡からなり,その文体はラテン語散文の模範とされる。ギリシアの学術語をラテン語に翻訳して後世に伝えた功績もまた絶大である。
→関連項目イソクラテス

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世界大百科事典 第2版の解説

キケロ【Marcus Tullius Cicero】

前106‐前43
ローマの弁論家,政治家,哲学者。ローマの東約100kmの町アルピヌムの騎士身分の家に生まれた。ローマで修辞,哲学の教育を受けたキケロは,前81年の《クインクティウス弁護》を皮切りに弁論家としての道を歩み始め,翌年には殺人事件を扱った《ロスキウス弁護》における演説によって早くも名声を得た。その後,前79年からアテナイロドス島に遊学してストア学派の哲学者ポセイドニオスらに師事し,弁論術,哲学を修めた。

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大辞林 第三版の解説

キケロ【Marcus Tullius Cicero】

前106~前43) 古代ローマの政治家・雄弁家・哲学者。博学・多才と雄弁で名声を得、三頭政治の開始以来共和政擁護を主張。アントニウスと対立し暗殺された。その文体はラテン語散文の模範とされる。著「国家論」「友情論」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

キケロ
きけろ
Marcus Tullius Cicero
(前106―前43)

古代ローマの政治家、思想家。雄弁家としても有名。ローマ市南東方のアルピヌムの貴族(ローマの騎士身分)の家に生まれる。ローマに出て、先輩政治家のなかの文化的グループに親しみ、紀元前81年に法廷弁論家として登場し、成功を収めた。前79~前77年に東方に留学、アテネ、小アジア、ロードスで先学の教えを受けた。以後、元老院議員となるコースを進み、前75年にクワエストル(財務官)としてシチリアに赴任した。このときのつながりから、前70年にはシチリア住民のパトロンとしてシチリアの悪総督ウェレス(在任前73~前71)を法廷で訴追し、当時最高の弁論家とされたホルテンシウスQuintus Hortensius(前114―前50)と論戦して大勝利を得た。この「ウェレス弾劾演説」(関連文献とも全7編)は、当時のローマの属州支配に関する貴重な史料である。前69年にアエディリス(按察(あんさつ)官)、前66年にプラエトル(法務官)に就任した。実業界に活躍する騎士身分(富裕な身分)とのつながりの深い彼は、やがてもてる階級(元老院身分と騎士身分)の大同団結を唱え、元老院を中心とする共和政の伝統を擁護したが、前63年にはコンスル(統領)として、貧民の不満を利用して反乱を起こそうとしたカティリナ一派の陰謀を鎮圧し、「国父」の称を得た。その際の「カティリナ弾劾演説」(4編)も有名である。しかし、彼の元老院中心路線は、民衆派政治家の攻撃の的となり、前58~前57年に彼はローマから追放された。前49年以後のカエサルとポンペイウスの内乱では、後者を支持し、ポンペイウスの敗死後カエサルの寛恕(かんじょ)を得てローマに戻った。前44年のカエサル暗殺ののちは暗殺者側を支持し、いまや元老院の重鎮として、オクタウィアヌス(アウグストゥス)と結びつつアントニウスと闘った。その際の「アントニウス弾劾演説(フィリッピカ)」(現存14編)も彼の代表作の一つである。しかし、前43年12月、アントニウスの部下によって殺された。
 彼の政治生活の間の思索は、『国家論』『法律論』『義務論』『友情論』『老年論』『神々の本性』『最高の善悪』『弁論家論』などの著作を生み、また彼の膨大な書簡集(『アッティクス宛(あて)書簡集』『友人宛書簡集』その他)は当時の社会、政治などを知るきわめて重要な史料である。彼の哲学者としての思想史的地位はかならずしも高くないが、彼の言語、文章はラテン語散文のもっとも模範的なものとされ、後世への影響が大きい。[吉村忠典]
『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』

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世界大百科事典内のキケロの言及

【ウェレス】より

…多様な手口で全島の都市・富裕者・土地所有者を搾取した。帰任後,属州民の訴えを容れたキケロは有力門閥の妨害工作にもかかわらず彼を不当搾取罪で告発し,自らシチリアで膨大な証拠類を収集。ウェレスは第1次公判後敗訴を認めてマッシリアに退去した(前70)。…

【演説】より

…当時,大カトー,ガイウス・グラックスらが雄弁家として知られたが,共和政時代の主要な雄弁家はすべて政治家としても活躍した。ローマ雄弁術の頂点はキケロであり,そのカティリナ弾劾演説は有名である。またマルクス・アントニウスのカエサル追悼演説もよく知られ,シェークスピアの《ジュリアス・シーザー》中にも,その場面が現れる。…

【記憶術】より

…あらかじめ若干の知悉した場所(トポス)を脳中に設定し,記憶すべきものをそこに配置しておけば,想起に際して,それらの場所との関連性を手がかりとして,容易に想起作用をすすめることができる,というのがその原理で,場所的記憶術ともいわれる。この著作は,長らくキケロの著作と考えられ,たんに古代記憶術の代表作としてのみならず,記憶術の典拠として権威を保ちつづけた。とくに14世紀から16世紀にかけてヨーロッパでは記憶術が流行し,さまざまの記憶術書が著された。…

【義務について】より

…ローマの弁論家,政治家,哲学者キケロの倫理に関する最後の著作(前44)。ストア哲学,なかんずくパナイティオスの教えに基づいて一般道徳を説いており,息子マルクスの教育のために書かれた。…

【舌】より

…なお,舌の病気には舌炎舌癌などがある。味覚【黒田 敬之】
[舌の文化史]
 弁論を技術(アルス)の女王とみたキケロは,肺から口の裏に1本の動脈が走っていて心に発した言葉を声にかえ,舌が歯や口腔をたたいて明りょうな音声の流れにすると考えた(《神の本性について》)。またレオナルド・ダ・ビンチは脳底からの神経が舌全体に分布するとし,舌には24の筋が6群となって舌を多様に働かすと考えた(《手記》)。…

【速記】より

…これが速記方式の初めであり,前350‐前300年ころのものがギリシアのアテナイやデルフォイで発見されている。ラテン語の速記方式として有名なのは政治家キケロがその解放奴隷ティロTiroに考案使用させたものであり,ティロはキケロの死後その演説集を公にした。当時はローマの元老院でも用いられ,その最初はカティリナの陰謀に対するカトーの演説(前63年12月5日)だとされている。…

【手紙】より

…手紙はインクencausturumでパピルスchartaにペンcalamusで書かれた。キケロは友人のアッティクス宛などは自筆で書いたが,たいていは書記ティロTiroに口述し,ティロが控えを取っておいたのとキケロの兄弟のクイントゥスやアッティクスがキケロからの来信を保存していたので後世に多くの書簡が残ることになった。ホラティウスは韻文(長短短六脚格)の書簡を残して書簡詩epistulaの伝統を開き,オウィディウスや12世紀の南仏詩人(中世プロバンス語ではbreus,letrasと呼ばれ,教訓的なものはensenhamenといわれ,pistola,epistolaということはまれであった),後世のユスタッシュ・デシャン,クレマン・マロ,ペトラルカ,ジョン・ダン,ポープ,ラ・フォンテーヌ,ボアローらに継承された。…

【マクロビウス】より

…生没年不詳。著書として,キケロの《国家論》第6巻第8章に相当する霊魂の死後の運命を論じた《スキピオの夢》の注解2巻,ギリシア・ローマ伝来の神々の統合を比喩的解釈を通して試みた《サトゥルナリア》7巻,中世における要約のみが伝存する《ギリシア語とラテン語との動詞の異同》がある。前2者は,いずれもプロティノス,ポルフュリオス等の発想を基調とし,12世紀中葉までカルキディウスのプラトンの《ティマイオス》の訳と注解と並んで,西方ラテン世界におけるプラトン主義の知識の源泉としての意義をになう。…

【ラテン文学】より


[共和政末期(前1世紀40年代まで)]
 グラックス兄弟の社会改革の試みが失敗したあと,民衆派と貴族派の対立は激化し,これを背景に,マリウスとスラの抗争,スラの独裁と恐怖政治,第1次三頭政治,内乱,カエサルの独裁と暗殺,第2次三頭政治など,大小さまざまな抗争・対立・混乱が続き,ついにローマ共和政は崩壊する。この激動の時代にみずから政治家として現実に行動しながらそれを文筆活動に反映させた,時代精神の権化のような人物がキケロである。この時代の政治家はみな優れた演説家であったが,キケロの雄弁の前にはすべて色あせてしまい,後世に伝えられるに至らなかった。…

※「キケロ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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